白人との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 01:02 UTC 版)
拡大する合衆国の植民は、1860年代にミシシッピー河を越え、スー族の住む大平原に伸びてきた。すべてのインディアン部族がフロンティアの障害として駆除され、保留地に隔離され、その領土が軍事力によって強奪されていた。保留地で飢餓状態となったダコタ・スー族が1862年に起こしたダコタ族の大暴動は、エイブラハム・リンカーン大統領とアメリカ軍によって徹底的に弾圧され、多くのスー族同胞がミネソタの領土を奪われ、西部の保留地に強制移住させられてきた。彼らダコタ族から、シッティング・ブルはインディアン保留地での暮らしがいかにひどいものかを聞いた。 1863年6月、ダコタ族の大暴動を受けてアメリカ軍は西部方面に軍事遠征を行い、ここで初めてシッティング・ブルのハンクパパ族はワシチュー(白人)と戦を交えた。ハンクパパ族はダコタ族ではなく、ラコタ族だったが、合衆国は「スー族の皆殺し」を政策にしており、彼らも同じスー族として、ハンクパパの領土を侵犯したアメリカ軍によって攻撃を受けたのである。 1864年7月、アルフレッド・サリー将軍率いるアメリカ軍騎兵隊が、ターカホクチー山でサンテ・スー(ダコタ族)とテトン・スー(ラコタ族)を襲い、スー族防衛戦士団と交戦となった(ターカホクチー山での戦い)。シッティングブルはこの防衛戦のなかで、「同胞をワシチューの世界から遠ざけ、理不尽な条約に決して署名しない」との決意を固めた。9月2日には、現在のモンタナ州ボウマンで、スー族の領土を荒らす白人の幌馬車隊を攻撃し、左の尻を銃弾で負傷した。 ハンクパパ族を始め、スー族は白人の侵略に断固として立ち向かい、合衆国から絶滅対象部族となった。このなかで先頭に立って戦うシッティング・ブルの姿は部族員だけでなく白人たちからも一目置かれ、1866年には、北部大平原の大戦士として、オグララ族のタシュンケ・ウィトコ(クレイジーホース)と並び称される存在となっていた。白人が「レッドクラウド戦争」と呼んでいる、アメリカ軍とスー族・シャイアン族の戦いでも目覚ましい戦いぶりを見せ、翌1867年にはチャンテ・チンザ(ストロング・ハート戦士団)の中心戦士となった。彼はこのとき、こう述べている。 「昔の戦士たちはもういない。私自身が勇気を出す」 シッティング・ブルはのちに、白人に「インディアンの戦士」についてこう語っている。 「我々にとっての戦士とは、お前さんたちが考えるような、ただ戦う者ではない。本来誰にも他人の命をとる権利はないのだから、戦士とは、我々のためにあり、他者のために犠牲となる者だ。その使命は、歳取った者やか弱き者、自分を守れない人々や将来ある子供たちに注意を払い、守りぬくことにあるのだ。」
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