サミュエル・T・フランシスをめぐる論争
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「ワシントン・タイムズ」の記事における「サミュエル・T・フランシスをめぐる論争」の解説
1991年、タイムズ紙は、大統領選に立候補したため職を離れたパット・ブキャナンの後任のコラムニスト兼編集者として、白人ナショナリストのサミュエル・T・フランシス(英語版)を採用した。フランシスは、ノースカロライナ州のジョン・ポーター・イースト(英語版)上院議員の秘書を経て、1986年にタイムズ紙の編集スタッフになった。その5年後に同紙のコラムニストとなり、そのコラムは他の新聞にも配信された。ジャーナリストとしてだけでなく、アラバマ州オーバーンのミーゼス研究所で非常勤の研究者としても活動した。 1995年6月、南部バプテスト連盟による奴隷制への謝罪決議を批判するフランシスのコラムがタイムズ紙に掲載された後、プルーデン編集長はフランシスのコラムの掲載を減らした。そのコラムにおいてフランシスは、「南部バプテスト連盟の奴隷制と人種差別への反省は、人種間の関係をマッサージするための政治的で流行を追っただけのジェスチャー以上の何物でもない」「制度としての奴隷制も人種差別も罪ではない」と主張していた。 1995年9月、保守派ジャーナリストのディネシュ・ドゥスーザ(英語版)が『ワシントン・ポスト』紙のコラムで、フランシスがその前年に開催された『アメリカン・ルネッサンス』誌が主催した会議に参加したこととその発言を紹介した。 活発な論客であるフランシスは、まず、南部の伝統がメインストリームの文化の中で悪者扱い(英語版)されていることについて、概ね妥当な訴えをした。しかし、彼は続けて、ヒューマニズムと普遍主義というリベラルの原則が「白人との戦い」を助長していると攻撃した。彼は、カントリーミュージックの大スター、ガース・ブルックスについて、「彼は、みんなで[宗教・人種などが異なる人の間で]結婚しようという愚かな普遍主義の歌(We Shall Be Free(英語版))を歌っている」として、それを「おぞましい」(repulsive)と表現した。彼は、白人の仲間たちに対して「我々のアイデンティティと団結を再確認しなければならない。白人としての人種意識を明確にすることで、明白に人種的な観点から我々はそうしなければならない。我々白人がヨーロッパやアメリカで生み出した文明は、創造された人々の遺伝的な能力を抜きにしては発展し得なかったし、その文明を他の人々にうまく伝えることができると考える根拠もない」と主張した。 ドゥスーザのコラムが掲載された後、プルーデン編集長はフランシスの他の著作物を調べ、合法的な移民の強制送還や、生活保護を受けている母親への強制的な避妊を提唱していたことがわかった。プルーデンは、そのような意見を持っている人物をタイムズ紙と結びつけたくないと考え、フランシスをタイムズ紙から解雇した。 解雇の直後、フランシスは次のように述べた。 私は、人種による違い、人種間の自然な違いがあると信じている。ある人種が他の人種より優れているとは思っていない。IQの違い(英語版)、性格や行動の違いについては、合理的に確かな証拠がある。それらが人種隔離や白人至上主義の正当化に利用されてきたことは理解している。それは私の意図するところではない。 2005年にフランシスが亡くなったとき、彼を「学術的で、挑戦的で、ときに辛辣な作家」と評する追悼記事がタイムズ紙に掲載されたが、彼の人種差別的信条や同紙からの解雇については触れられなかった。これに対して、保守系ニュースサイト「ワシントン・エクザミナー(英語版)」の編集者デイヴィッド・マスティオは、フランシスの追悼記事で「サム・フランシスは単なる人種差別主義者であり、それ以上の存在として記憶されるには値しない」と書いた。
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