サミュエル・アダムズの謀殺
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「ジョン・コルト」の記事における「サミュエル・アダムズの謀殺」の解説
1841年9月17日にニュー・ヨークの印刷業者サミュエル・アダムズは、アダムズが印刷した数点の教科書の借金を取り立てるためにアダムズに会いに行った。2人は借金の最終金額が一致しなかった。情報源によれば、それは1ドル35セントの食い違いであった。コルトによれば、アダムズがクラヴァットで首を絞め始めた。自衛しようと、コルトは彼をかわそうとハンマーだと思ったものへ手を伸ばしたが、しかし凶器は手斧(hatchet)と判った。コルトはアダムズを凶器で4、5回殴打し、アダムを床に倒した。 アダムズが死んでいるのがわかるやいなや、コルトは血をきれいにした。翌朝(9月18日)、コルトは遺体を大型船積み用木枠箱(large shipping crate)に入れ、それに塩を詰めた。彼はそれからそれをニューオリンズ州の存在しない住所宛てにして、バーストー(Barstow)という運転手を雇い、翌朝出航予定の船『Kalamazoo』に配達させた。 いちにちふつか経(た)つと、アダムズの家族が、『New York Courier and Enquirer』や『New York Weekly Tribune』のような数紙の新聞に、彼が行方不明であることを知らせる通知を出して、この都市で彼をさがし始めた。コルトの隣人エーサ H. ホイーラー(Asa H. Wheeler)は、アダムズの義父ジョセフ・レーン(Joseph Lane)に、自分はコルトの事務所から、床に音を立てて落ちた音のあと、格闘の音が聞こえたと語った。鍵穴をのぞき込むと、彼にはだれかが「床の何かのうえに身をかがめている」("bending over something on the floor")のが見えた。ホイーラーはのちに、家主から鍵を手に入れると、大型の梱包用木枠箱(large packing crate)がなくなっていること、床がごしごしこすられていることがわかった。1841年9月22日にコルトはアダムズの印刷店を訪れ、自分の書籍の状態とアダムズのいどころを訊ねた。アダムズの製本業者チャールズ・ウェルズ(Charles Wells)はコルトに、最後にアダムズを見たのは、あなたコルトを訪れに行く途上であったと語った。コルトは主張のほのめかしには返事をせず、ひとこと断って中座した。 レーン、ホイーラーおよびジョン・ラウド(John Loud)というアダムズの被雇用者は、コルトをふくむアダムズの取引の元帳を調べ、証拠をもってニュー・ヨーク・シティー市長ロバート H. モリス(Robert H. Morris)のもとに行った。ほかの目撃者らは、アダムが10月17日にコルトのアパートメントに入るのを見たこと、コルトが翌日運転手に木枠箱を配達させたことを言った。市長は荷車の監督者ウィリアム・ゴッドフリー(William Godfrey)に問題の運転手のいどころを突き止め、木枠箱のありかを確定するように依頼した。ゴッドフリーはバーストーを見つけ、彼は彼に、包みは貨物船『Kalamazoo』に配達されたと語った。 『カラマズー』(Kalamazoo)は嵐のために出航が後れて港にまだ停泊していた。ニュー・ヨーク警察は、市長および運転手を伴って乗船し、木枠箱がまだ船倉にあるか否かを訊ねた。腐敗しつつある遺体はすでに強い臭いを放ち始めていて、乗組員らは臭いをネズミを殺すために出された毒であると推定していた。港湾労働者が木枠箱を開けると、半裸の男性の遺体が店舗用日除けに包まれ、ロープでしばられ、塩詰めされていた。脚の傷跡とひとつの金(きん)の環で遺体の身元はアダムズと確認された。
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