追悼記事
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1997年3月9日付日本経済新聞の文化面(阿部良、宝玉正彦)によれば、「高い知名度、展覧会の人気にもかかわらず、その後も作品の出来栄えが正面切って論じられることは少なかった。あまり不平を言うことのない人だったが、1人になると、画壇がまともに取り上げてくれない不満を漏らすこともあった」。 美術評論家の中原佑介は「確かに池田はマルチタレントだった。しかし、日本では岡本太郎もそうだったけれども、多才な美術家ほど美術家としては信用されないというムードがある。池田に対する美術界の対応にもそれがあった。この国では、この道一筋の純粋主義が信用されるのである」「しかし、それ以上に、こうしたマルチタレントの美術家がマルチタレントというだけで正当に評価されない風土を不毛だと思わざるを得ない」(1997年3月17日付朝日新聞夕刊)。 詩人の松永伍一は「日本の美術界は各種美術団体の有力者たちが牛耳っている。(中略)この道一筋を看板にしているからあれもやりこれもやることを避けてきた。美術評論家たちも(中略)やりたいことをやりまくる池田満寿夫のような旺盛な遊び心を持つ芸術家を軽蔑してきた」「ではピカソやミロはどうなるだろう。絵をやり彫刻をやり版画をやり陶器をつくった。池田満寿夫はその上小説を書き、随筆を書き、浮世絵を研究し、脚本を書き、映画をつくったから、この多才ぶりを美術界は俗物扱いにしてきた。余技というものがなかった。どれを見ても一流だった。美術批評を業としている連中はおそらく内心嫉妬していただろう」(1997年4月5日付山形新聞)。
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