古代・中古
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上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期の製塩土器が見つかっているほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性を指摘している。下室浜からも、古墳時代の祭祀に用いられたとみられる滑石製勾玉が採集されている。 弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺(大聖院の前身)は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある。 平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。 入り海(いりうみ)の 二十浦(はたうら)かけて十島(としま)なる 中(なか)に香(か)深(ふか)き島(しま)は七浦(ななうら) ── 小野篁 恩賀島(たぐひなきしま)の姿(すがた)は自(おの)ずから 蓬の山(よもぎのやま)も此処(ここ)にありけり ── 在原業平 伝承では推古天皇元年(西暦換算〈以下同様〉:593年)、豪族佐伯鞍職がイチキシマヒメの神託によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌しており、後に厳島神主家となった。文献上の初出は弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。 厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、保元6年(1156年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱で源頼朝が捕らえられ、清盛は正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、仁治2年(1241年)の造営による(現在の本社社殿は元亀2年〈1571年〉、毛利元就の再建によるもの)。さらに四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。 清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市の倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。 清盛の庇護によって京の雅な文化が移入され、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、宋の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。 1990~1991年に発掘調査が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半の土層から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この頃には島をご神体とする信仰が広がっており、祭祀のために滞在する神職や貴族がいた他は島に住む者はいなかった。[要出典] 厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾経塚(清盛塚)からは、1944年(昭和19年)に開墾された際に銅製経筒と陶製甕の外容器、経巻、青白磁合子、古鏡、刀片、青磁片などの遺物が出土したほか、研究者による踏査でも青白磁合子や白磁小壺、中世須恵器甕などの破片が採集されており、12世紀前半以降に埋納された経塚とみられている。
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古代・中古
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美術史上の飛鳥時代は、6世紀半ば、日本へ仏教が公式に伝来した時期から、7世紀後半の天智天皇の治世辺りまでを指す。この時代に入っても古墳の造営は引き続き行われているが、一応、仏教公伝の時期をもって古墳時代と区切っている。飛鳥時代の終期については、政治史上の区分では710年の平城遷都の年とするのが通常である。美術史上の区分でも710年までを飛鳥時代とする場合もあるが、法隆寺が火災で炎上した(『日本書紀』による)670年、ないし天武天皇即位の673年辺りを始期として、以後平城遷都までの期間は「白鳳時代」または「奈良時代前期」として別の時代と見るのが通例となっている。 この時代は、日本が初めて外来の宗教である仏教を受け入れ、その後の文化の下地を作ったという点で重要な時期である。仏教が百済経由で日本へ公式にもたらされた(仏教公伝)時期については、公式の史書である『日本書紀』には552年、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』には538年とあるが、今日では後者の538年を仏教公伝の年とするのが定説である。仏教の受容をめぐっては有力氏族である蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)の間に対立があり、ついには武力抗争に突入するが、結果は崇仏派の蘇我氏が勝利した。6世紀末には日本最初の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の建設が蘇我氏によって始められた。用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子の名で広く知られる)は、仏教に深く帰依し、6世紀末に四天王寺、7世紀初めに法隆寺を建立した。聖徳太子は日本における仏教興隆の祖として神格化され、日本の仏教寺院では宗派を問わず崇拝の対象となっている。法隆寺の西院伽藍は現存する世界最古の木造建築として著名だが、『日本書紀』によれば、法隆寺は670年に一度焼亡しており、現存する同寺の伽藍はその後(7世紀末頃)の再建であることは発掘調査の結果等からも定説となっている。 彫刻銅造釈迦三尊像(法隆寺金堂、止利作) 木造観音菩薩立像(法隆寺、百済観音) 木造観音菩薩立像(法隆寺夢殿、救世観音) 木造弥勒菩薩半跏思惟像(広隆寺、半島からの渡来像とも) 工芸玉虫厨子(法隆寺)、天寿国繡帳(中宮寺) 建築当代の遺品なし(法隆寺西院伽藍は飛鳥時代様式だが7世紀後半の再建)
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