古代中世における主権論の萌芽とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 古代中世における主権論の萌芽の意味・解説 

古代中世における主権論の萌芽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:11 UTC 版)

主権」の記事における「古代中世における主権論の萌芽」の解説

中世ヨーロッパにおける教会と国家」、「教会改革」、「グレゴリウス改革」、および「叙任権闘争」も参照 古典期以前君主政ギリシアには「主権」の概念はなかったが、少なくともアリストテレス時代には主権概念萌芽存在した古代ギリシアポリス国家とも訳されるが、明確にその意義区別されていない。しかし、アリストテレスにとって人間ポリス存在であり、また政治社会ポリス人間集団または共同体の最高形態であったポリス部族社会から十分に分離されたものではなかったし、国家形態生み出したわけではなかった。しかし、アリストテレスは『政治学』で、至高権力有する役(国政携わる役職)を秩序けたもの国制としており、ここに主権概念萌芽を見ることができる。アリストテレスのこの定義はボダン主権理論影響与えたが、ボダンのような主権による統治」といった観念みられないローマimperium主権概念に近いものであったが、市民権または軍事上の命令にすぎなかった。ローマ法学者で『ローマ法大全』にその多く学説採録されたドミティウス・ウルピアーヌスは「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首意思法律としての効力有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)と法解釈をした。このウルピアーヌス命題についてダントレーヴはsummma potestas(最高の権力)の存在前提とされているという。また、ウルピアーヌスのlegibus solutusは、法を超越した主権者という思想、法の拘束から解放され主権というボダンにも影響与えた10世紀になるとフランスでsouvrainという言葉使用されており、これはラテン語supremusに由来するもので「最上位のもの」であった当時国内権力多元化しており、国王のみを主権者とはみずに、「すべてのバロン封土内において主権者である」として封建諸侯主権者よばれた1100年ボローニャ法学校ができ、やがて大学へと発展して1240年ローマ法大全標準注釈編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、ローマ法普及していった。中世フランスレジスト(Legisten、レギステン)と呼ばれるローマ法注釈学者一派主権概念先鞭をつけたとされるローマ法普及に伴いカトリック教会は、宗教的権威背景教会法制定し独自に教皇領持って世俗的な権力行使するようになっていった。ダントレーヴによれば主権概念最初に整然と仕上げられたのは、教会弁護する教会法学説においてであった教皇地上における最高の権威権力完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い。中世ヨーロッパはレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会形成していたが、教皇と皇帝二つ焦点秩序支配する権威みなされていた。 1302年に、フランス王フィリップ4世課税問題対立した教皇ボニファティウス8世ウナム・サンクタム教皇勅書出し教皇権威は他のあらゆる地上権力優越するとし、地上二人平等な代理者教皇と皇帝)を置くことは異端とした。これは単一性論議といわれ、唯一の最高の権力保持者という考えは、教皇と皇帝による世界二重支配不条理とするとともに、これこそまさしく主権論理であったと、ダントレーヴはいう。しかし、アナーニ事件教皇襲撃するなど、フランス王ローマへ圧力強め教皇座をアヴィニョン置いてアヴィニョン捕囚となり、さらに1378年から1417年まで教会大分裂となった 中世ヨーロッパ秩序においては神聖ローマ皇帝諸侯は、ローマ・カトリック教会宗教的権威従属し参照カノッサの屈辱)、世俗的支配関係は、土地媒介として重層的支配服従関係が織り成される封建制により規律されていた。例えば、神聖ローマ帝国においては領邦君主帝国等族として皇帝従属し領邦においては領邦等族領邦君主従属していた。 ゲオルグ・イェリネック中世において国家の独立否定する勢力として教会神聖ローマ帝国大封地所有者(レーンストレーガー)および社団(ケルパーシャフテン)があり、この3つの勢力との戦いによって主権観念成立したとする。 封建時代には、封建的主従関係幾重にも重なったため、古代ローマインペリウムやポテスタスといった命令のような公権力支配権公的な性質消滅していた。そして、個々国家の完全な独立という観念中世末までに普遍的に承認されていたといわれ、主権概念誕生条件整っていたのである

※この「古代中世における主権論の萌芽」の解説は、「主権」の解説の一部です。
「古代中世における主権論の萌芽」を含む「主権」の記事については、「主権」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「古代中世における主権論の萌芽」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古代中世における主権論の萌芽」の関連用語

1
6% |||||

古代中世における主権論の萌芽のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古代中世における主権論の萌芽のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの主権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS