古代中世における主権論の萌芽
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「主権」の記事における「古代中世における主権論の萌芽」の解説
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」、「教会改革」、「グレゴリウス改革」、および「叙任権闘争」も参照 古典期以前の君主政ギリシアには「主権」の概念はなかったが、少なくともアリストテレスの時代には主権概念の萌芽は存在した。古代ギリシアのポリスは国家とも訳されるが、明確にその意義は区別されていない。しかし、アリストテレスにとって人間はポリス的存在であり、また政治社会ポリスは人間集団または共同体の最高形態であった。ポリスは部族社会から十分に分離されたものではなかったし、国家の形態を生み出したわけではなかった。しかし、アリストテレスは『政治学』で、至高の権力を有する役(国政に携わる役職)を秩序づけたものを国制としており、ここに主権概念の萌芽を見ることができる。アリストテレスのこの定義はボダンの主権理論に影響を与えたが、ボダンのような「主権による統治」といった観念はみられない。 ローマのimperiumは主権概念に近いものであったが、市民権または軍事上の命令権にすぎなかった。ローマの法学者で『ローマ法大全』にその多くの学説が採録されたドミティウス・ウルピアーヌスは「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)と法解釈をした。このウルピアーヌスの命題についてダントレーヴはsummma potestas(最高の権力)の存在が前提とされているという。また、ウルピアーヌスのlegibus solutusは、法を超越した主権者という思想、法の拘束から解放された主権というボダンにも影響を与えた。 10世紀になるとフランスでsouvrainという言葉が使用されており、これはラテン語supremusに由来するもので「最上位のもの」であった。当時は国内の権力が多元化しており、国王のみを主権者とはみずに、「すべてのバロンは封土内において主権者である」として封建諸侯も主権者とよばれた。 1100年頃ボローニャに法学校ができ、やがて大学へと発展して、1240年にローマ法大全の標準注釈が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、ローマ法が普及していった。中世のフランスのレジスト(Legisten、レギステン)と呼ばれるローマ法の注釈学者の一派が主権概念に先鞭をつけたとされる。ローマ法普及に伴いカトリック教会は、宗教的権威を背景に教会法を制定し、独自に教皇領を持って世俗的な権力を行使するようになっていった。ダントレーヴによれば、主権概念が最初に整然と仕上げられたのは、教会を弁護する教会法の学説においてであった。教皇は地上における最高の権威・権力の完全性(plenitudo potestatis)を持つとされ、これは近代的な主権概念に近い。中世ヨーロッパはレス・プブリカ・クリスティアナ(キリスト教共同体)とよばれる普遍社会を形成していたが、教皇と皇帝の二つの焦点が秩序を支配する権威とみなされていた。 1302年に、フランス王フィリップ4世と課税問題で対立した教皇ボニファティウス8世はウナム・サンクタム教皇勅書を出し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越するとし、地上に二人の平等な代理者(教皇と皇帝)を置くことは異端とした。これは単一性論議といわれ、唯一の最高の権力の保持者という考えは、教皇と皇帝による世界の二重支配を不条理とするとともに、これこそまさしく主権の論理であったと、ダントレーヴはいう。しかし、アナーニ事件で教皇を襲撃するなど、フランス王はローマへの圧力を強め、教皇座をアヴィニョンに置いてアヴィニョン捕囚となり、さらに1378年から1417年まで教会大分裂となった 中世ヨーロッパの秩序においては、神聖ローマ皇帝や諸侯は、ローマ・カトリック教会の宗教的権威に従属し(参照:カノッサの屈辱)、世俗的支配関係は、土地を媒介として重層的に支配服従関係が織り成される封建制により規律されていた。例えば、神聖ローマ帝国においては、領邦君主は帝国等族として皇帝に従属し、領邦においては、領邦等族が領邦君主に従属していた。 ゲオルグ・イェリネックは中世において国家の独立を否定する勢力として教会、神聖ローマ帝国、大封地所有者(レーンストレーガー)および社団(ケルパーシャフテン)があり、この3つの勢力との戦いによって主権の観念が成立したとする。 封建時代には、封建的主従関係は幾重にも重なったため、古代ローマのインペリウムやポテスタスといった命令権のような公権力、支配権の公的な性質は消滅していた。そして、個々の国家の完全な独立という観念は中世末までに普遍的に承認されていたといわれ、主権概念誕生の条件は整っていたのである。
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