古代・中古とは? わかりやすく解説

古代・中古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:46 UTC 版)

厳島」の記事における「古代・中古」の解説

上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期製塩土器が見つかっているほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代焼塩土器数多く採集されており、盛んに作りが行われていた事が窺える大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる瑞花双鳥八稜鏡」が採集され古瀬清秀広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性指摘している。下室浜からも、古墳時代祭祀用いられとみられる滑石勾玉採集されている。 弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊周辺山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器土師器瑪瑙勾玉鉄鏃などの祭祀遺物採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろ祭祀が行なわれた磐座比定する説がある。弥山本堂付近からは奈良平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した弥山水精寺(大聖院前身)は従来鎌倉時代対岸から移設したとされていたが、より古い時代創建された可能性がある。 平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する入り海いりうみ)の 二十浦(はたうら)かけて十島(としま)なる 中(なか)に香(か)深(ふか)き島(しま)は七浦ななうら) ── 小野篁 恩賀島(たぐひなきしま)の姿(すがた)は自(おの)ずから の山(よもぎのやま)も此処(ここ)にありけり ── 在原業平 伝承では推古天皇元年西暦換算〈以下同様〉:593年)、豪族佐伯鞍職イチキシマヒメ神託によって厳島神社創建されたと伝えられる佐伯氏佐伯直出で伴造として安芸国佐伯郡管掌しており、後に厳島神主家となった文献上の初出弘仁2年811年)に名神預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。 厳島神社現在の威容構築したのは平氏一門後ろ盾得た平安時代末期である。久安2年1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛事業受け継いで高野山大塔再建すすめていたが、保元6年1156年)の落慶法要際し高野山高僧に「厳島神社厚く信奉して社殿整えれば、必ずや位階極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱源頼朝捕らえられ清盛正三位に列せられると、さっそく厳島神社寝殿造様式造営した海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、仁治2年1241年)の造営による(現在の本社社殿元亀2年1571年〉、毛利元就再建よるもの)。さらに四天王寺から舞楽移し入れ、また多く甲冑刀剣などの美術工芸品奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華装飾施した平家納経国宝)である。また社領対岸佐伯郡などに加増されていった清盛大きな狙い日宋貿易にあった。父・忠盛舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊平氏政権拠点摂津国福原外港現在の神戸港一部)を開いて自ら瀬戸内海航路掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じ航路守護神ともいえる重要性をもつようになった呉市倉橋島本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日招き返し」て、開削1日で終わらせたという伝説残されているが、このときの航路整備関連するものである。 清盛庇護によって京の雅な文化移入され後白河上皇高倉上皇建春門院建礼門院皇族貴族多く社参する一方上述した貿易航路開拓により、宋の文物もたらされた。清盛は宋船による厳島参詣行っている。 19901991年発掘調査が行われた菩提院遺跡宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半土層から屋敷跡とみられる遺構土器片が出土したことから、神社維持管理為に清盛造営同時期に建てられ施設跡と考えられている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この頃には島をご神体とする信仰広がっており、祭祀のために滞在する神職貴族がいた他は島に住む者はいなかった。[要出典] 厳島神社北西300メートル地点にある経尾経塚清盛塚)からは、1944年昭和19年)に開墾された際に銅製経筒陶製甕の外容器経巻青白磁合子古鏡、刀片、青磁片などの遺物出土したほか、研究者による踏査でも青白磁合子白磁小壺中世須恵器甕などの破片採集されており、12世紀前半以降に埋納された経塚とみられている。

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古代・中古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 19:48 UTC 版)

日本美術史」の記事における「古代・中古」の解説

美術史上の飛鳥時代は、6世紀半ば日本仏教が公式に伝来した時期から、7世紀後半天智天皇治世辺りまでを指す。この時代入って古墳造営引き続き行われているが、一応、仏教公伝時期をもって古墳時代区切っている。飛鳥時代終期については、政治史上の区分では710年平城遷都の年とするのが通常である。美術史上の区分でも710年までを飛鳥時代とする場合もあるが、法隆寺火災炎上した『日本書紀』による)670年、ないし天武天皇即位673年辺り始期として、以後平城遷都までの期間は「白鳳時代」または「奈良時代前期」として別の時代と見るのが通例となっている。 この時代は、日本初め外来宗教である仏教受け入れその後文化下地作ったという点で重要な時期である。仏教百済経由日本へ公式にもたらされた(仏教公伝時期については、公式の史書である『日本書紀』には552年、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』には538年とあるが、今日では後者538年仏教公伝の年とするのが定説である。仏教受容めぐっては有力氏族である蘇我氏崇仏派)と物部氏(排仏派)の間に対立があり、ついには武力抗争突入するが、結果崇仏派の蘇我氏勝利した6世紀末には日本最初本格的仏教寺院である法興寺飛鳥寺)の建設蘇我氏によって始められた。用明天皇皇子である厩戸皇子聖徳太子の名で広く知られる)は、仏教深く帰依し6世紀末に四天王寺7世紀初めに法隆寺建立した聖徳太子日本における仏教興隆の祖として神格化され日本の仏教寺院では宗派問わず崇拝対象となっている。法隆寺西院伽藍現存する世界最古木造建築として著名だが、『日本書紀』によれば法隆寺670年一度焼亡しており、現存する同寺の伽藍その後7世紀末頃)の再建であることは発掘調査結果等からも定説となっている。 彫刻釈迦三尊像法隆寺金堂、止利作) 木造観音菩薩立像法隆寺百済観音木造観音菩薩立像法隆寺夢殿救世観音木造弥勒菩薩半跏思惟像広隆寺半島からの渡来像とも) 工芸玉虫厨子法隆寺)、天寿国繡帳中宮寺建築当代遺品なし(法隆寺西伽藍飛鳥時代様式だが7世紀後半再建

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