古代・中世~陵墓の地から山荘の地へとは? わかりやすく解説

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古代・中世~陵墓の地から山荘の地へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 15:19 UTC 版)

吉田 (京都市)」の記事における「古代・中世~陵墓の地から山荘の地へ」の解説

吉田」の地名平安時代文献登場する古くからの地名で、早いものでは『日本紀略』の貞元2年974年4月辛亥条に現れる。この時期には山城国愛宕郡錦部郷に属し、古い時代には「吉田野」と称され遊猟が行われたほか、平安京葬地であった神楽岡吉田山)の西側位置する関係もあって、天皇皇族貴族陵墓の地であった(現在でも多く陵墓残されている)。また藤原氏氏神である吉田神社貞観年間9世紀後半)建立され当時公家たちはしばしばこの地に参詣したその後平安末期から鎌倉時代にかけて公家山荘造営されるようになり、鴨川東岸面し近衛河原亭」と呼ばれた武将源頼政邸宅吉田下阿達町付近)のほか、現在の百万遍交差点付近に所在していたとされる西園寺公経小倉百人一首の「入道前太政大臣」)の別荘吉田泉殿」はよく知られている。室町時代には応仁の乱において細川勝元が東陣(東軍本営)をこの地においたとする説もある。 また鴨川対岸荒神口を起点とし、この地区斜めに貫いて北上する志賀越道は、隣接する白川村現在の北白川)を経て近江国方面とつながる古来からの重要な街道であり、戦国時代末期には織田信長がその上洛に際し東から大軍率いてこの街道を通っている。

※この「古代・中世~陵墓の地から山荘の地へ」の解説は、「吉田 (京都市)」の解説の一部です。
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