入信・出家
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麻原の著作『超能力の開発法』や空中浮揚写真に興味を持ち、1986年 3月にオウム神仙の会に電話をかけた。電話応対したスタッフの態度が悪く腹をたてるが、すぐに麻原彰晃本人から電話がかかってきた。麻原の真摯な説明ぶりに和み、4月に入会。当時の神仙の会は60人程度だった。「宗教っぽくなく軽い感じ」をうけて、1986年6月に丹沢で開催された集中セミナー」に参加し、麻原に対面。質素な格好ながら品位と風格を感じ「この人なら」と思った。このセミナーで、それまで欲求を満足させることが幸せだと思っていたが、麻原が観念を否定し、その上に満足がある、と言ったのに感銘を受けたという。麻原のシャクティーパットを浮けて以降、やめらなかったタバコと趣味だった読書がやめられ、テレビは見なくなり、夫婦生活もしなくなるなど、禁欲的な生活に変わっていった。麻原に胸のつまりを当てられるなど不思議な体験もした。 オウム神仙の会は1987年7月にオウム真理教に改称。宗教臭いのは嫌だったが「真理」という言葉は前から好きだった。 1987年4月に妻も入信し、麻原と早川夫妻で蕎麦を食べに行ったりした。その後1987年11月1日に出家。 1987年11月、当時の財産全部の1000万円弱を布施して出家、半年後には妻も出家した。出家にあたっては、一人っ子で両親と同居していたため、両親の老後の面倒を見られなくなるばかりか、両親の住まいを奪うことになるため悩んだが、瞑想指導を繰り返すうちに、自分の家族や友人のためではなく、もっと大きな社会や国のことを考えたいと心が変わっていったという。 早川は岡崎一明と共に建設班となる。道場建設や、音楽イベント「竜宮の宴」開催に取り組んだ。「竜宮の宴」は中川智正や青山吉伸が入信するひとつのきっかけとなった。
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入信・出家
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1988年2月24日オウム真理教に入信。 オウムと最初の出会いは、1986年11月にたまたま見かけた麻原の著作『超能力秘密の開発法』を読んだことである。当初は特に興味もわかず、本も途中までしか読まずに放置した。しかし医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場をのぞいたことが発端となった。1988年1月に宣伝ビラや情報誌で早川紀代秀らが企画したオウム真理教の音楽コンサート「龍宮の宴」の開催を知り、どうしても行かねばならぬように気がして、1988年1月に最終公演を観に行った。初めて麻原に会ったが、麻原に後ろからいきなり「中川」と声をかけられた。初めて会ったのになぜ自分の名前を知っているのだろうと驚きを感じた。直後大阪支部道場に行って早川紀代秀と話した。それでも入信する気は起きなかったが、「龍宮の宴」から数日後「お前はこの瞬間のために生まれてきたんだ」という幻聴が聞こえるなどの神秘体験を経験。その日から教団の道場に通い詰めるようになる。中川はこの神秘体験について「自宅でめい想中、光が体を突き抜け、あたり一面が真っ白になった。別の世界があると確信し、この世では生きていけない気持ちになった」と語っている。1988年2月に再び大阪支部に行き平田信、新実智光、井上嘉浩と話し、入信を決意した。 1988年5月に医師免許を取得し、研修医として大阪鉄道病院で一年ほど勤めたが、6月に体から意識が抜け出すのを感じて手術室で失神。精神科も受診したが通院は続かず、1989年8月31日、「人を救いたい。(麻原を)一生の師と慕っていく」と親や周囲の反対を押し切って退職し、看護師の恋人とともに出家(恋人はのちに中川とともにサリン生成に従事し逮捕され、殺人予備罪で起訴された)。知人によると、出家直前は蓮華座を組んで半泣きになりながらジャンプしたり、頭を触られるのを嫌がる(エネルギーが抜けると信じられていたため)など、異様な状態になっていたという。
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入信・出家
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1988年春、オウム真理教に入信した高校時代の友人を脱会させるために、説得したり話し合ったり、友人の様子を見るためオウムのセミナーに参加し始めた。当初は「オウムは弱虫の集まりみたいな集団だ」と両親へ話していたが、あっという間に麻原彰晃の説く四無量心・救済などの教えに感化され、同年7月に入信。入信した直接の契機となったのは新実智光の存在が大きく、彼に高飛車な態度で疑問をぶつけたら、あっけらかんと「入信しましょう」と返され、「すごい悟りの人なのでは」と思ったことだったという。12月31日には大学を3年で中退し、両親の猛反対を振り切って出家。家を出て行く際は正座して「21年間幸せに育ててくれてありがとう。でも戦争を止めなきゃ」と母親に話した。母親は心配のあまり大学に相談するなどしたが、その取り乱した様子に却って母親自身が心配され、結局は「何かあったら逃げ出しなさい」と言って見送った。
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入信・出家
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1985年9月に雑誌「ムー」でオウム神仙の会を知る。1986年11月にオウム神仙の会に入信し、1987年8月に出家。出家後は教団の出版物の販売活動、サリン原材料を土谷正実の化学実験棟「クシティガルバ棟」に搬入する作業などに関わったのち、省庁制導入後は「建設省」を経て「自治省」に所属。同省次官となって、麻原彰晃及び家族の身辺警護、専用車運転手を務めた。ロシアでの射撃ツアー、大型ヘリコプターの操縦練習、軍事訓練などに参加した。ロシアから帰国後に菩師に昇格した。
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入信・出家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:09 UTC 版)
麻原彰晃の著書『超能力秘密の開発法』を東京駅の本屋で見つけたことをきっかけに、大学入学年の1986年9月からまだヨガ教室であったオウム真理教の前身オウム神仙の会に入会。当時豊田は「カレーとヨガのサークルに遊びに来ませんか」と女の子のオルグ要員に誘われていたという。1992年4月には博士課程に進学するが1ヶ月経たないうちに中退、出家信者となった。出家番号は962。豊田に出家を勧めたのは、高校・大学時代の先輩にあたる野田成人である。野田が生活していた寮に遊びに来ていた際に部屋にあった本を読んでおり、オウムのセミナーでばったり会う。友人の伊東乾は、豊田の出家の背景の1つに素粒子理論の研究室に属し、豊田は宇宙の本質的メカニズム、力の統一理論や宇宙論などに興味を持っていたが、当時の東大素研がオリジナルな研究をさせない指導力量不足で指導体制に大いに失望したことを挙げている。 周囲には「女の子の看病をする」と手紙を残し行方不明になり、その後オウムの本を送ってきたため出家していたことが分かった。 1990年2月の総選挙の時は象のお面をかぶりながら、麻原彰晃の側で歌って踊っていた。豊田自身は当時22歳で被選挙権がなかったこともあり、立候補はしていない。 教団にいた頃、乗っていた車が交通事故に遭って怪我をしてまぶたに傷が残ったが、豊田はこの怪我について一切の不平不満を言わなかったという。
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入信出家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:05 UTC 版)
1979年(昭和54年)に高校を卒業後7年間、幾つもの職場を転々とするが、そのほとんどは営業の仕事で、営業成績ばかりを気にする生活に嫌気を感じていた。そんな時に出会ったのがオウム神仙の会というヨガサークルを運営していた麻原だった。 1985年(昭和60年)の夏頃に、学研『ムー』や『トワイライトゾーン』誌上で麻原の写真と連載記事を読み、麻原の唱える「四無量心」「魂の救済」「大乗の発願」に感銘を受ける。「五体投地」や神仏に対する帰依心、「布施行・供養の姿勢」にも感動し、本物かどうか確かめてみようと直接オウム神仙の会に架電。その際に麻原本人が電話口に出た。岡﨑はこの時、今までの修行や宗教遍歴を語り、「私はセールスなどで相当の悪業を積んでいると思いますが、それでも解脱はできるのでしょうか?」と今生で自己の解脱が可能か否かを尋ねた。すると麻原は、こう答えたという。「はい、できます。あなたがそう思った時点から、あなたの罪は消えています。解脱を求めようとする時点から、その道に入っているんです。あなたにも解脱はできます」 1985年12月、神奈川県で行われたオウム神仙の会の丹沢セミナーに参加。岡﨑は麻原と直接会って、その大きな包容力、修行者然としたエネルギーと謙虚な有様に圧倒される。「心底から優しい、そしてなんて明るい人なんだろう。ああ、この人は違うな。本物かもしれない」、麻原と出会ってまもなく入信の決意に変わった。岡﨑はそれまで本物のグルを求め、新興宗教の教祖や神通力があるとされる著者及び活動家に直接架電しては解脱や救済について問答し、確かめていた。しかし当時、そのだれもが傲慢な態度で、麻原のような指導者は全くいなかったという。 1986年(昭和61年)9月、山口県から上京し、25歳で出家する。ようやく自分の居場所が出来たと感じた。 1986年2月9日、自動車を運転中、時速125キロで河川敷から7メートル下の一級河川の河原に突っ込む自損事故を起こす。岡﨑は頸椎を損傷し、意識障害を起こし、左顎関節複雑骨折及び下顎歯の大半を損壊。全治2ヶ月の診断を受け63日ほど入院した。 その頃、組織拡大のため積極的に信者獲得に乗り出していた麻原は、営業マンだった岡﨑に「君の営業の経験を是非生かして欲しい」と教団をPRする本の販売を担わせる。岡﨑はオウム出版の営業責任者となった(この時、麻原は複数の階級をもうけ信者同士を競わせる仕組みを作り上げていた。岡﨑は同時期に出家した新實智光と本の売り上げを競わされていた)当時の岡﨑にとって、その布教活動はセールスという意味とは全く違っていた。精力的に書店回りをして、麻原の著書『生死を超える』を取次ルートに乗せることに成功。続いて刊行された『超能力秘密の開発法』のヒットに貢献する。「麻原から褒められると一番うれしかった」、岡﨑は次第に麻原を絶対視する様になっていく。
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