入信と叙階とは? わかりやすく解説

入信と叙階

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:19 UTC 版)

羅文藻」の記事における「入信と叙階」の解説

1633年崇禎3年)、ドミニコ会宣教師ホアン・モラレス(P.Juan B.Morales, 中国名:黎玉範)神父フランシスコ会アントニオ・デ・サンタマリア・カバレロ(Antonio de Santa Maria Caballero, OFM, 1602年-1669年, 中国名:利安当)神父福安布教活動行っていた時点で、羅文藻はすでに教会求道者であった1633年から1634年18歲から24歳)の間に、カバレロ神父は羅に洗礼授けた洗礼名の「グレゴリウス」その修道会属する省名である「聖グレゴリウス」省を記念して命名された。その後羅はカバレロ神父に従って伝道師となり、南京での布教活動目指す失敗し、再び福建省戻った1636年崇禎8年)に、カバレロ神父従い台湾布教活動従事1637年崇禎10年6月20日にはガスパル・アレンダ(P.Gaspar Alenda, 中国名:雅達)とホアン・デ・サン・マルコス(P.Juan de San Marcos, 中国名:馬若望)の2人神父に従って福建省から北京出発し、そこでイエズス会士アダム・シャール中国名湯若望)は彼等朝鮮への宣教派遣計画した。だが北京では迫害遭遇し、3人は護送され福安戻り寧徳23日拘留されその後流刑によりマカオ流された。1639年崇徳4年)には中国各省迫害発生、羅はカバレロ神父従いフィリピンマニラ赴いた1650年マニラドミニコ会入会するその後1652年のまでの間に中国フィリピン往来して教務助け並びにマニラ聖トマス学院神学哲学学習する1654年5月29日から6月30日までに相次いで剃髪式侍者、副助祭助祭叙階秘跡を受け、同年7月4日マニラのポブレーテ(Mons. Poblete)司教によって司祭叙階される。翌年福建省故郷戻った

※この「入信と叙階」の解説は、「羅文藻」の解説の一部です。
「入信と叙階」を含む「羅文藻」の記事については、「羅文藻」の概要を参照ください。

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