信濃・川とは? わかりやすく解説

信濃川

越後平野潤す日本最長美しき大河
信濃川は、長野新潟県境で「千曲川」から「信濃川」と名を変え新潟県入り中津川清津川及び谷川岳に源を発する魚野川合流して越後平野潤しつつ、大河津分水路ならびに関屋分水路分派し日本海注ぎます流路延長水系全体で367kmと日本で最も長い河川です。水系全体流域面積新潟県面積ほぼ等しい11,900km2で、利根川石狩川次いで第3位となってます。

新潟県長岡市上空より信濃川(越後平野)を望む
新潟県長岡市上空より信濃川(越後平野)を望む

河川概要
水系信濃川水系
河川名信濃川
幹川流路延長367km
流域面積11,900km2
流域内人295万人
流域関係都県長野県

信濃川流域図
○拡大図
1.信濃川の歴史
"信濃川には、かつて「長岡船道」と呼ばれる船便長岡新潟の間を航行しており、陸路が全く発達していなかった時代には、大量年貢米を運ぶ運送路として重要な役割担っていました。同じ頃に長岡城下町を守るために築かれた「左近堤」が今も名残とどめてます。また、信濃川の洪水から生命財産を守るために先人築いた十日町市の「中山堤防」は現在も中魚沼地区全体守ってます。"

信濃川の舟運と今も残る先人築いた堤防

明治時代まで続いた信濃川の舟運
信濃川の豊富なは、取水して利用するという面だけではなく鉄道自動車が今のように普及する以前は、信濃川は食料燃料日用雑貨などを舟で運ぶための重要な運送路としても利用されきました。信濃川の舟運が最も栄えた江戸時代において舟運主な役割年貢米川下げであり、商人積み荷は、そのあい間にだけにしか許されていませんでしたまた、米の輸送は「湊定法」によって義務づけられ、舟運以外には一切許されていませんでした
長岡船道
江戸時代における越後の主要通船系統は信濃川筋では、「長岡船道」と呼ばれる船便長岡新潟の間を航行しており、長岡より上流十日町には「妻有船道」・六日町方面には「上田船道」や「蒲原船道」「加茂川船道」などがありました上流山岳地帯でとれた山の幸下流運び下流でとった海のものを上流に運ぶ物流や、大量年貢米を運ばなければならない幕府や藩にとって、信濃川の舟運貴重な存在となっており、信濃川の舟運中心であった長岡船道」という一大組織長岡新潟間の信濃川の舟運独占して大きな利益上げ長岡発展つながりました
長岡船道で信濃川を下った荷物は米、たばこ、織物下駄などが多く逆に新潟から運ばれたのは塩、、ござなどで海産物中心でした。塩や海産物信州まで送られいました
明治時代に入ると和船代わる発動機船が、格段速さ往来するようになりましたが、明治末期から大正時代にかけて信越線開通道路整備により陸上輸送が始まると舟運徐々に衰退し昭和34年最後川船廃業届け出して信濃川の舟運長い幕を降ろしました。

今も残る先人築いた堤防
左近
俗に左近土手」と呼ばれるのは江戸時代名残りとどめる堤防一部です。信濃川の右岸発達した長岡城下町は、築堤が不十分で毎年のように洪水襲われました。寛保3年(1743)には浸水から人々を救うために用心船を試みましたが、破堤防止第一考え洪水がもっと激しく当たる場所に「左近堤」を築きました
寛延元年(1748)、2万人を超す労力投入した大規模工事は、雪消えから半年足らず9月22日完成しました喜び湧いた人々新し提防踏み固めながら長岡甚句唄い踊ったといわれています。近代になって本格的な護岸堤防ができるまで、左近堤は人々生命財産守り続けました
左近堤
左近堤(写真左の大きな木の下の提防、現在残っているのはこの附近だけである )


中山堤防
十日町市周辺の中魚沼地区は、信濃川の流れ急に速くなる場所で昔から水害にあっていました。そのため付近に田畑を持つ人々は、自分たちで堤防作って水害から身を守っていました。しかし、自分土地を守るために作っているため、川全体のことを考えた堤防ではなく堤防つぎはぎだらけで決壊し易いものでした。そんな状況見た中山龍次は、中魚沼地区全体を信濃川の洪水から守る堤防必要だ考えました昭和23年起工した工事は、今まで魚沼地区作られていた堤防比べ大規模なものでした。ただ堤防作るだけではなく、川の島になっている部分掘ってを流すようにし、たくさんの流せるようにしました
十日町橋付近
十日町橋付近右側堤防中山堤防呼ばれてます。
2.地域の中の信濃川
"信濃川の流域には古くから川にまつわる祭りや行事がいくつもあり、大河津分水路行われるおいらん道中」、長岡市街地を貫流する信濃川河川敷打ち上げられる長岡まつり大花火大会」、魚野川行われる十五夜まつり」が代表的です。また、信濃川では、緩傾斜堤防や子供たち自然とふれあう場である。「水辺プラザ」や「つまりっこ広場」が整備され地域住民憩いの場として利用されています。"

信濃川と人々とのつながり

信濃川にまつわる祭り伝統行事
信濃川の流域には古くから伝わる、川にまつわる祭り伝統行事いくつもあります

 おいらん道中
おいらん道中
おいらん道中
分水町の「おいらん道中」は、大河津分水工事記念して植えられた3,000本の桜の木の下で催されます。祭りの始まりは、昭和8年4月発足した分水花路の会」がにちなん計画したお祭りです。芸妓一人おいらん見立て、かむろ役と共に仮装してねり歩きました観光客評判もよく昭和11年から桜並木の下で賑やかに行われてます。

長岡まつり
長岡花火
長岡花火
昭和20年8月1日長岡市上空B29襲来し空襲により旧市街地のほとんどが焼き尽くされ、その悲しい日を忘れない為に始まった長岡市戦災復興祭」が今の「長岡まつり」です。長岡まつりのビックイベントは信濃川河畔打ち上げられる発の花火です。色とりどりの花火が、休むことなく信濃川上空に打ち上げられます。毎年数多く観光客が信濃川河畔の緩い勾配堤防(「緩傾斜堤防」と呼ばれてます。)に集まり河川敷びっしり埋め尽くされます。
長岡まつり花火は、戦災犠牲者追悼花火でもあるのです。そのため、花火打上の際には、空襲警報鳴らされます。

神祭
王神祭
神祭
神祭は、古くから伝わる祭りで、いくつかの行事でできていますが、その要となるのが又倉行事年魚行事です。年魚行事とは、最高の神饌とされる信濃川を上ってきた雌のサケを、長い箸と包丁切り分け鳥居の形に並べ行事です。神に供えられるサケには一切手を触れず執り行われます。緊張感漂う伝統神事は、サケ媒介として王神に信濃川の治水豊穣祈った遠い昔想像させます

十五夜まつり
十五夜まつり
十五夜まつり
堀之内町で最も勇壮な祭りがこの、十五夜まつりと言われています。
踊り屋台屋台囃子民謡流し花火大会みこしパレード町内一周駅伝大会奉納演芸会と、楽しいイベント目白押しです。なかでも見どころは、魚野川でのみこし流しです。みこしを川に流すのは全国的に珍しく、みこしを担いだまま、魚野川急流水しぶき上げて進む様は勇壮です。
3.信濃川の自然環境
"信濃川中流部新潟長野県境から小千谷市にかけては河岸段丘が、さらに下流には越後平野広がる多様な地域環境であり、数多く動植物生息してます。新潟県生息するほとんどの鳥類確認できるほか、極めて貴重とされる注目種も多く生息してます。"

河岸段丘から扇状地平野流れ多様な自然環境

信濃川は、上流部千曲川として、渓谷盆地繰り返されるなかで清流合わせつつ流れまた、下流部では信濃川と名を替え河岸段丘抜けると、広大な平野緩やかに流れ豊かな自然環境良好な河川環境有してます。
新潟県内に入るとまず、9段にも及ぶ大規模な河岸段丘発達しまた、支川においては魚野川渓流とともに清津川清津峡代表される渓谷美を誇ってます。その後広大な越後平野開け、その上を信濃川がとうとうと流れます。その下流には大河津分水路があり、治水重要性語りかけています。信濃川流域は、日本海側特有の豪雪地域であり、その融雪により年間159億m3という日本で最も多い川の流れを創り出してます。信濃川は、厳しく豊かな自然に囲まれ全国屈指の米どころとして、また、清冽な育む酒どころとしても知られています。広大な河川敷には、その地域にある多様な自然が残されており、上流部にはハリエンジュアキグミ群落下流部にはヤナギヨシ群落分布し、その変化に富んだ植生と、広い河川敷地が、アユウグイオイカワサケといった魚類や、オオヨシキリホオジロカシラダカなど、新潟県内河川見られるほとんどの鳥類見られる豊かな自然を形成してます。信濃川流域には、国指定天然記念物である「オジロワシ」、環境庁新潟県レッドデータブックにおいて絶滅危惧種指定されている「タコノアシ」(植物)、「ミヤマシジミ」(昆虫)、「ウケクチウグイ」「イトヨ」(魚類)など 珍しい動植物見られます。
オジロワシタコノアシ
オジロワシタコノアシ
環境庁レッドデータブック絶滅危惧種ⅠB
新潟県レッドデータブック絶滅危惧種Ⅰ類
環境庁レッドデータブック絶滅危惧種
新潟県レッドデータブック絶滅危惧種
ミヤマシジミ
ミヤマシジミ
環境庁レッドデータブック絶滅危惧種
新潟県レッドデータブック絶滅危惧種
4.信濃川の主な災害
"大河津分水路は、越後平野水害から守るため、信濃川の洪水越後平野流れ込む前に日本海流し出す人工的な河川です。大河津分水路働きによってかつてのような水害がほとんどなくなり美田広がるとともに高速交通網の整備行われるなど、越後平野めざましい発展をとげました。"


信濃川で発生した主な洪水

発生発生原因被災市町村被害状況
明治29年7月梅雨前線新潟市含めた西蒲原郡全域湛水期間 3ヶ月
死者 48
床上浸水 約43000戸
昭和56年8月台風15号小千谷市床上浸水 1182戸
床下浸水 1281戸

5.その他

越後平野豊かな恵みをもらたす大河津分水路

大河津分水路は、越後平野水害から守る目的で、信濃川の洪水越後平野暴れまわる前に日本海流し出す人工的な河川です。
越後平野その昔海でした。それが、信濃川の運ぶ土砂によって沼地のような低い土地少しずつ作られてきたのです。このような地形なのでひとたび洪水になると河川はすぐにあふれ田畑家屋流し時には人々生命まで奪いました
大河津分水路完成までの歴史古く享保年間寺泊町本間屋数右衛門らの幕府への請願発端200年余り繰り返され請願がついに認められ明治42年1909年)に本格的な工事始められました。工事始まってからも大規模な地滑り発生通水後の自在堰(現在の可動堰役割をしていたもの)の陥没などの困難を乗り越え22年歳月をかけ昭和6年1931年)に完成しました
大河津分水路がなかった時は、平均3~4年1回起きていた信濃川の水害大河津分水路働きによって、ほとんどなくなりその後排水事業土地改良によって美田広がり上越新幹線北陸自動車道などの高速交通網の整備行われたことにより、越後平野めざましい発展をとげています。
特に昭和50年代後半には、越後平野のほぼ全域浸かったであろう考え幾つも洪水から、越後平野守ってます。
当時の工事現場風景・河口部右岸
運搬機関車レールがしかれている。">
明治29年の横田切れによる水害
当時工事現場風景河口部右岸
運搬機関車レールがしかれている
明治29年横田切れによる水害
絵巻横田切れ」の一部 松本湖風
自在堰の陥没(昭和2年)大河津分水路の完成により発展をとげた越後平野
自在堰の陥没昭和2年大河津分水路完成により
発展をとげた越後平野

(注:この情報2008年2月現在のものです)




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