ランゴバルド王国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ランゴバルド王国の意味・解説 

ランゴバルド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:54 UTC 版)

ランゴバルド人」の記事における「ランゴバルド王国」の解説

詳細は「ランゴバルド王国」を参照 イタリア侵入したランゴバルド人とその連合諸部族総数は約300,000人、その内武装した兵力40,000人から50,000であった推定されている。諸部族寄せ集めであったランゴバルド王国は、建国直後から内紛さらされ572年には恐らく東ローマ帝国共謀した族内有力者によってアルボイン暗殺された。跡を継いだクレフクレーフィ)の時代内紛絶えず、573年には同行してきたザクセン人たちが「かれら自身の法の下に留まること」を許可されなかったため、ランゴバルド軍から離脱して故地シュヴァーベンへと去っていった。574年にはクレフ暗殺されその後10年に渡る空位の間に族内有力者たちが、それぞれ独立した領地実力確保していった。東ローマ軍反撃が始まると、各地ランゴバルド支配者たちはひとまずアウタリを王に選出しパヴィア首都とする王国体裁整えた。しかし、南部ベネヴェント公やスポレート公独立性強く北部でも首都から離れたフリウーリ公トレント公は同様であったこのため、ランゴバルド王国は「一つ国家であるよりも寧ろ諸国家のモザイクであったリシェ)」と評される。こうして高度に分権的な王国としてのランゴバルド王国の性格形作られた。 ランゴバルド王国はイタリア半島北部および中部大部分支配する王国としてその後2世紀にわたり存続した。773年フランク王国カール1世大帝)によって征服された後、カール1世フランク王兼ねてランゴバルド王に即位し、「フランク人ランゴバルド人の王」となった。彼は781年には、息子ピピンイタリア王国の王とした。このイタリア王国はランゴバルド王国とスポレート公領から成りベネヴェント公領独立した公国となった

※この「ランゴバルド王国」の解説は、「ランゴバルド人」の解説の一部です。
「ランゴバルド王国」を含む「ランゴバルド人」の記事については、「ランゴバルド人」の概要を参照ください。


ランゴバルド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 03:01 UTC 版)

モンツァ」の記事における「ランゴバルド王国」の解説

6世紀ランゴバルド人イタリア侵入する。これはこの町にとって大きな出来事であった。ランゴバルド王国の統治下、アウタリ王 (Authari) の王妃テオデリンダ (Theodelinda) は、ランブロ川のほとり小さな教会の建設行っている。この教会の場所は、現在モンツァ大聖堂 (Duomo of Monza) の一部となっている。 伝承によれば王妃夢枕現れてランブロ川のほとり示し、「ここ」(ラテン語: modo)に教会建てるように告げ王妃は「はい」(etiam)と答えた中世この地が Modoetia と呼ばれるのはそれに由来するのだという。

※この「ランゴバルド王国」の解説は、「モンツァ」の解説の一部です。
「ランゴバルド王国」を含む「モンツァ」の記事については、「モンツァ」の概要を参照ください。


ランゴバルド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 01:59 UTC 版)

パヴィーア」の記事における「ランゴバルド王国」の解説

568年イタリア侵入したランゴバルド人のために、東ローマ帝国イタリア半島支配長く続かなかった。ランゴバルド人たちを率いアルボインアルボイーノ)王は、のちにランゴバルド人最初イタリア王となったアルボイン多く領土手に入れたが、569年、その成功要塞化された都市パヴィーアによって妨げられた。その百年上後書かれパウルス・ディアコヌスの『ランゴバルド史』 (History of the Lombards) は、この時代状況伝え貴重な史料のひとつである。「このときティキヌムパヴィーア)の街は勇敢に抗戦しランゴバルド軍勢西側から迫る中で3年に及ぶ攻囲に耐えた。アルボイントスカーナでも兵士追い出し財産を手を収めたが、ローマラヴェンナ、そして海岸沿いにある要塞化した場所のいくつか例外であった」。ティキヌム攻略戦 (Siege of Pavia (56972)) は、572年ランゴバルドパヴィーア陥落させて終了した。その戦略的な立地東ゴート残した宮殿群の存在によって、パヴィーアには620年代までにはランゴバルド王国の主要な首都置かれるようになり、あるいはランゴバルド人支配者たちの居所となったクレーフィ王(在位: 572年 - 574年死後の「公たちの時代」 (Rule of the Dukes) (574年 - 584年)と呼ばれる諸侯割拠時代には、フリウリザバン (Zaban) がパヴィーア治めたランゴバルド人統治下、パヴィーアには多く修道院尼僧院教会が、敬虔なランゴバルド人支配者たちによって建設された。初期ランゴバルド王たちはアリウス派キリスト教徒であったが、パウルス・ディアコヌスなどの同時代の史料ではアリウス派支配者カトリック教会信仰寛容であった記されており、690年頃までカトリックアリウス派共存していた。ランゴバルド王族貴族たちは、彼らの信仰心とともに豊かさを示すものとして、修道院尼僧院教会建てた多く施設装飾され、また多く場合教会内に個人の墓が作られた。たとえば、パヴィーアのサンブロージオ教会建設したGrimoaldは、その教会内に埋葬されている。ベルタリード王 (Perctarit) (在位: 661年 - 662年672年 - 688年)およびその子のクニペルト王 (Cunipert) (在位: 679年 - 700年)は、その治世においてパヴィーア尼僧院教会建てたランゴバルド教会はしばしばその設立かかわった人物の名がつけられた。たとえば、サン・マリア・テオドラ聖堂などである。パヴィーアにあるSan Michele alla Pusterla修道院は、ランゴバルド王の王修道院であったランゴバルド王がパヴィーア建設した教会で最も著名なもののひとつが、サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会 (San Pietro in Ciel d'Oro) である。この教会はリウトプランド王 (Liutprand) (在位: 712年 - 744年)によって建築命じられ、リウトプランド王の墓所となり、また2人著名なキリスト教徒の墓が移された。サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会建築においては、リウトプランド王の足の長さ単位として用いられた。サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会に移葬された最初キリスト教徒著名人ボエティウスで、聖堂クリプト埋葬されている。もう一人著名人で、教会内に最も大きな墓が作られているのが、聖アウグスティヌスのものであるアウグスティヌス5世紀前半活動した北アフリカ出身著述家で、キリスト教聖書解釈大きな影響及ぼし教父みなされるひとりである。アウグスティヌスの墓は1695年10月1日サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会の床の敷石一部取り替える作業行っていた職人たちによって再発見された。リウトプランド王は敬虔なキリスト教徒であり、他のランゴバルドの王たちと同様、聖人たちの聖遺物収集情熱傾けていた。もともとアウグスティヌスサルデーニャ島カリャリ埋葬されていたが、イスラム教徒サラセン人の手届かない安全な場所に移すため、リウトプランド王は多大な労力払ってパヴィーアまで移送しのである743年奉献された、リウトプランド王が築いたサン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会が、当時のままの姿をとどめるのはごく一部である。後陣屋根にはもともとモザイク装飾されていたが、これはランゴバルド教会モザイク装飾した最初の例である。今日では近代的な教会となっており、創建当時の姿を見ることが出来るのは後陣周辺のみである。ランゴバルド人たちは典型的なロマネスク様式教会築いたが、パヴィーアにおいて当時の姿をもっともよく残しているのは、サン・ミケーレのバシリカ (San Michele Maggiore, Pavia) である。 ランゴバルド王国の首都であるパヴィーアは、7世紀後半にはかれら独自の貨幣発行する中心地であった貨幣にはランゴバルドの王の肖像が、その権力と富を象徴するように刻まれた。 都市パヴィーアは、ランゴバルド王国と、フランク王国カール1世カール大帝シャルルマーニュ)の戦いで重要な役割果たした773年シャルルマーニュランゴバルド宣戦布告アルプス越えて北部イタリア侵攻して、ランゴバルドのデシデリウス王 (Desiderius) (在位: 757年 - 774年)を打ち破った773年秋から774年6月にかけ、シャルルマーニュパヴィーア、ついでヴェローナ攻囲ランゴバルド権力中枢下すと、ロンバルド王国北部城塞都市抵抗速やかに鎮定した。パヴィーア620年代からランゴバルド人たちの公式な首都であったが、イタリアにおけるランゴバルド王国終焉の地ともなったのである勝利とともにパヴィーア入城したシャルルマーニュは、かつてのパヴィーア王国領域王として自ら戴冠した。ランゴバルド王国とその北部領域は、以後フランク帝国構成する領邦となった一方、ランゴバルド王国の南部領にあったベネヴェント公国は、比較独立した自治領であったために、その後世紀存続した。 フランク王国分裂経て中世イタリア王国となり、神聖ローマ帝国一部みなされるようになったあとも、パヴィーアイタリア王国家首都として認識された。神聖ローマ帝国宗主権失われる12世紀までパヴィーアではロンバルディアの鉄王冠によって「イタリア王」の戴冠式が行われていた。

※この「ランゴバルド王国」の解説は、「パヴィーア」の解説の一部です。
「ランゴバルド王国」を含む「パヴィーア」の記事については、「パヴィーア」の概要を参照ください。


ランゴバルド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ランゴバルド王国」の解説

詳細は「ランゴバルド人」および「ランゴバルド王国」を参照 ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝支配服すこととなったが、その統一長く続かなかった。ランゴバルド族侵入し、彼らがイタリア半島王国築いたからである。彼らの文化水準低く、したがってその支配による影響文化的に大したことはなかったが、政治的に以後長く続くイタリア分裂端緒となったランゴバルド族1世紀までにエルベ川下流域定住しその後547年ビザンツ帝国によって、パンノニアノリクム境界地域定住許された。パンノニアゴート戦争開始によって生じた防備弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウム首都として王国築いた。そのため、ビザンツ帝国ゲピド族東ゴート王国への対抗の意味領内ランゴバルド族招き入れたであったランゴバルド族ゲピド族抗争繰り返し566年になってビザンツ帝国ゲピド族同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人結んでこれに対抗結果としてゲピド族567年滅亡した。しかし強大なアヴァール人圧迫を受けるようになったランゴバルド族568年になると、王アルボイン率いられイタリア半島侵入し、その年のうちにヴェネト地方大半占領した569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し後者首都としてランゴバルド王国が成立した572年アルボイン暗殺され王位継いだクレフ574年暗殺されると、ランゴバルド王国は30人上の諸公支配する連合政体へと変化した。しかしその勢い衰えず諸公一人ファロアルド1世イタリア語版英語版)はスポレート支配下においてスポレート公国築き、他の諸公ゾットーネ(イタリア語版英語版)はさらに南下してベネヴェント占領ベネヴェント公国打ち立てたランゴバルド諸公に対してビザンツ帝国金銭による懐柔外交展開するとともにフランク王国同盟してこれを打倒しようとしたフランク王国はすでに574年ランゴバルド王国を征討し、これを打ち負かし貢納領土割譲条件講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢保っていたのであるが、ビザンツ勧誘受けて585年588年イタリアへ侵入しクレフの子である王アウタリウス貢納条件589年これと講和した。590年にもフランク族大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まったフランクによる対外危機分裂する傾向にあったランゴバルド族結束の必要を認識させた。既述のように、574年以来ランゴバルド族は王を戴かず諸公合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウス選出されて王となったアウタリウス死後跡を継いだアギルルフスは591年毎年貢納条件フランク王国和解しビザンツ領を侵し始め593年にはローマ包囲してグレゴリウス1世交渉し598年には教皇講和した。アウタリウス治世首都パヴィア中心として王国としてのまとまり現れ始め次代のアギルルフスの治世下には統治制度整備され国家としての体裁をとるようになったパウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世実現された平和を賞賛している。 616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダ権力握ったテオデリンダカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく聖コルンバヌスによる修道院設立支援した。アギフルススがアリウス派捨てカトリック改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代国王は、三章書論争で三章書を支持して分離したミラノアクィレイア教会ローマ教会との調停尽力した。しかし626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位就いた。この簒奪背景にはビザンツ帝国との融和政策対すランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方イスラーム教徒争っているビザンツ帝国支配のゆるみをついて領土積極的に拡大し、リグーリア・コルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した。またロターリは643年に「ロターリ王の告示」、いわゆるロターリ法典編纂したが、これはランゴバルド人法慣習採録したものである。ロターリはランゴバルド王国の最盛期現出したが、652年その死後王国急速に分裂弱体化した彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年アギロルフィング家のアリペルトゥス1世王位移った。アリペルトゥス1世の死(661年に際して2人の息子王国分割されたが、これが内紛生じ662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世王位手に入れることとなった

※この「ランゴバルド王国」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
「ランゴバルド王国」を含む「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事については、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の概要を参照ください。


ランゴバルド王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:14 UTC 版)

イタリアの歴史」の記事における「ランゴバルド王国」の解説

ユスティニアヌス帝没して間もない568年ランゴバルド族アルボイーノ北イタリア侵入し南端を除くイタリア半島征服しランゴバルド王国(ロンゴバルド王国)を建国した。ただし、ローマ帝国総督府がおかれたラヴェンナから、教皇の居るローマにかけての南北細長い部分は、8世紀初頭まで征服できなかった。こうして後の教皇領となる部分出来上がった5世紀以降イタリア半島ローマ帝国ゲルマン人アラブ人などの勢力乱立して小さな公国王国乱立して相争う状態に陥ったイタリア半島政治的な統一性失われ再統一されるの19世紀を待つことになる。ゲルマン人ランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、その属国としてスポレート公国ベネヴェント公国建国した。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後ベネヴェント侯国称しサレルノ侯国イタリア語版英語版)やカープア侯国イタリア語版英語版)を成立させた。南イタリアではローマ帝国からナポリ公国イタリア語版英語版)、アマルフィ公国ガエータ公国イタリア語版英語版)などが独立した

※この「ランゴバルド王国」の解説は、「イタリアの歴史」の解説の一部です。
「ランゴバルド王国」を含む「イタリアの歴史」の記事については、「イタリアの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ランゴバルド王国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」からランゴバルド王国を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からランゴバルド王国を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からランゴバルド王国 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ランゴバルド王国」の関連用語

ランゴバルド王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ランゴバルド王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのランゴバルド人 (改訂履歴)、モンツァ (改訂履歴)、パヴィーア (改訂履歴)、中世ヨーロッパにおける教会と国家 (改訂履歴)、イタリアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS