ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立
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「ラヴェンナ総督府」の記事における「ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立」の解説
568年、アルボイン率いるランゴバルド人とその同盟部族集団が北イタリアに侵攻した。この地域は554年まで20年近くにわたり続いたゴート戦争による荒廃からほとんど復興していなかった。東ローマ軍の抵抗は弱く、569年にはメディオーラーヌム(ミラノ)を奪われた。さらに3年間の包囲戦の末572年にパヴィーアを落としたランゴバルド人は、ここをランゴバルド王国の首都とした。数年のうちにファロアルド1世やゾットらランゴバルド人が中央イタリアや南イタリアを征服し、それぞれスポレート公国とベネヴェント公国を建てた。しかし572年にアルボインが、574年にその後継者クレフが暗殺されランゴバルド王国が諸公の時代に入ると、ランゴバルド人の勢いが一時的に弱まった。 これを好機と見た皇帝ユスティヌス2世は娘婿のバドゥアリウスをイタリアに派遣したが、バドゥアリウスはランゴバルド人に敗れ戦死した。またバルカン半島も混乱の渦中にあり、もはや東ローマ帝国はイタリア政策に注力することができなくなった。ランゴバルド人に食い破られた帝国領イタリアは飛び地ばかりとなり、580年にティベリウス2世はイタリアの大部分を喪失した事実を認め、イタリアの領土を5つの州(エパルキエス)に分割した。すなわちアンノナリア(ラヴェンナ)、カラブリア、カンパニア、エミリア、ウルビカリア(ローマ周辺)である。6世紀が終わるまでに、この5州ではそれぞれ新たな支配体系が成立した。ラヴェンナには総督府がおかれ、総督にはラヴェンナ市、港、その周辺(北はポー川でヴェネツィア公国に接し、南はマレッキア川でペンタポリス公国に接する領域)における、内政と軍事、教会管理の権限が与えられた。
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