ランゴバルト系貴族による反乱 1009年–1022年とは? わかりやすく解説

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ランゴバルト系貴族による反乱 1009年–1022年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:35 UTC 版)

ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「ランゴバルト系貴族による反乱 1009年–1022年」の解説

1009年5月9日東ローマ帝国イタリアにおける権威ギリシア語版)の拠点であったバーリにて帝国対す反乱勃発した。 これを指導したのが現地のランゴバルト貴族の中で突出していたメロ・ディ・バリであり、反乱瞬く間その他の都市広がった同年後半ないし翌1010年にカテパノ(東ローマ帝国南イタリア地区最高司令官)であるヨハネス・クルクアス (カテパノ)(イタリア語版)が戦死した1010年3月その後継者であったバシレイオス・メセルドス(イタリア語版)は増援軍を伴って上陸して反乱軍籠る街を包囲した。街の東ローマ住民バシレイオス交渉してランゴバルド貴族首領メロとその義兄ダット・ディ・バーリ(イタリア語版)を強制的に追放したバシレイオス1011年6月11日に街に入城し東ローマ権威回復させたもののそれ以上行動起こすことはな勝利更なる追及をしなかった。バシレイオスのしたことといえば、メロ息子であるアルギロ(イタリア語版)をコンスタンティノープル送ったくらいであったバシレイオス南イタリア平和な状態を保つ形で1016年 以降没している。 同年バシレイオス後継者としてレオ・トルニコス・コントレオン(イタリア語版)が赴任したバシレイオス死去受けてメロは再び反乱起こしたが、今回は、ベネディクトゥス8世によって送り込まれたか、あるいはモンテ・カルガノにて自身が(あるいはグリエルモ助言抜きで会ったであろうノルマン人一団雇っていた。ノルマンランゴバルド混合軍に対抗する形で、レオはレオ・パシアノス(英語版率いる軍を派遣した。パシオナスとメロはアレヌラのフォルトレ(イタリア語版)にて邂逅して戦闘決定的ではなかったが(グリエルモ・ディ・プグリア)、メロ勝利(レオネ・オスティエンス)で終わったらしい。この時トルニコスは自らが指揮を執っており、チヴィターテにて自軍偶然に二度目戦闘に導くに至った。この二度目戦闘メロ勝利終わったが、ルポ・プロトスタパ(イタリア語版)や無名のバーリ年代記では敗北記録されている。 ヴァッカレツィアで起きた三度目戦闘は、メロ決定的な勝利終わった。フォルトレからトラーニに至る全域9月メロの手落ち12月着任したバシレイオス・ボイオアンネス(イタリア語版)の好意によりトルニコスは自らの任務から解放されることとなった。 ボイアニスの要請受けてノルマン人闘うために東ローマ帝国ヴァリャーグ親衛隊英語版)がイタリア派遣された。二つヴァイキング戦隊は、かつて紀元前216年ハンニバル勝利を収めたカンナエ付近オファント川にて激突し戦闘東ローマ側の決定的な勝利終わった。ボイアネスは、この戦いで得た戦果保持するためにアプリア平原入り口番兵まで直に至る巨大な要塞アペニン築いた1019年当時はそう呼ばれたトローイアにボイアネスのノルマン派遣軍が守備入ったが、これはノルマン人による正規傭兵という兆候であったノルマン人による戦闘による南方における勢力交替受けて教皇ベネディクトゥス8世1020年バンベルク赴いて時の神ローマ皇帝ハインリヒ2世協議したハインリヒ2世は、直接行動は取らなかったものの翌1021年出来事干渉決意させる。ボイアニスはランドルフォ4世ディ・カプア同盟結んで教皇とともにガエタ公国イタリア語版)の領域の砦を守備していたダットのもとに進軍したのである1021年6月15日ダット捕虜となり大袋中にサル雄鶏ヘビ一緒に入れられて海に放棄された。1022年ハインリヒ2世ケルンのピグリム(ドイツ語版)、ポポネ・ディ・ガリンツィア(イタリア語版)の三軍から成る神聖ローマ帝国大軍トローイア攻撃したトローイア陥落こそしなかったものの全てのランゴバルト系諸侯神聖ローマ帝国に連れ去られてランドルフォ4世ドイツ監獄へと運ばれていったかくしてランゴバルト系貴族による反乱時期終焉むかえたであった

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