ランゴバルト系貴族による反乱 1009年–1022年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「ランゴバルト系貴族による反乱 1009年–1022年」の解説
1009年5月9日に東ローマ帝国のイタリアにおける権威(ギリシア語版)の拠点であったバーリにて帝国に対する反乱が勃発した。 これを指導したのが現地のランゴバルト貴族の中で突出していたメロ・ディ・バリであり、反乱は瞬く間にその他の都市に広がった。同年の後半ないし翌1010年にカテパノ(東ローマ帝国領南イタリア地区の最高司令官)であるヨハネス・クルクアス (カテパノ)(イタリア語版)が戦死した。1010年3月にその後継者であったバシレイオス・メセルドス(イタリア語版)は増援軍を伴って上陸して反乱軍が籠る街を包囲した。街の東ローマ系住民はバシレイオスと交渉してランゴバルド貴族の首領メロとその義兄ダット・ディ・バーリ(イタリア語版)を強制的に追放した。バシレイオスは1011年6月11日に街に入城して東ローマの権威を回復させたもののそれ以上の行動を起こすことはなく勝利の更なる追及をしなかった。バシレイオスのしたことといえば、メロの息子であるアルギロ(イタリア語版)をコンスタンティノープルに送ったくらいであった。バシレイオスは南イタリアが平和な状態を保つ形で1016年 以降に没している。 同年にバシレイオスの後継者としてレオ・トルニコス・コントレオン(イタリア語版)が赴任した。バシレイオスの死去を受けてメロは再び反乱を起こしたが、今回は、ベネディクトゥス8世によって送り込まれたか、あるいはモンテ・カルガノにて自身が(あるいはグリエルモの助言抜きで)会ったであろうノルマン人の一団を雇っていた。ノルマン=ランゴバルド混合軍に対抗する形で、レオはレオ・パシアノス(英語版) 率いる軍を派遣した。パシオナスとメロはアレヌラのフォルトレ(イタリア語版)にて邂逅して戦闘は決定的ではなかったが(グリエルモ・ディ・プグリア)、メロの勝利(レオネ・オスティエンス)で終わったらしい。この時トルニコスは自らが指揮を執っており、チヴィターテにて自軍を偶然にも二度目の戦闘に導くに至った。この二度目の戦闘はメロの勝利に終わったが、ルポ・プロトスタパ(イタリア語版)や無名のバーリ年代記では敗北と記録されている。 ヴァッカレツィアで起きた三度目の戦闘は、メロの決定的な勝利に終わった。フォルトレからトラーニに至る全域が9月にメロの手に落ち、12月に着任したバシレイオス・ボイオアンネス(イタリア語版)の好意によりトルニコスは自らの任務から解放されることとなった。 ボイアニスの要請を受けてノルマン人と闘うために東ローマ帝国のヴァリャーグ親衛隊(英語版)がイタリアに派遣された。二つのヴァイキング戦隊は、かつて紀元前216年にハンニバルが勝利を収めたカンナエ付近のオファント川にて激突し、戦闘は東ローマ側の決定的な勝利で終わった。ボイアネスは、この戦いで得た戦果を保持するためにアプリア平原の入り口の番兵まで直に至る巨大な要塞をアペニンに築いた。1019年に当時はそう呼ばれたトローイアにボイアネスのノルマン派遣軍が守備に入ったが、これはノルマン人による正規の傭兵という兆候であった。 ノルマン人による戦闘による南方における勢力の交替を受けて、教皇ベネディクトゥス8世は1020年にバンベルクに赴いて時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世と協議した。ハインリヒ2世は、直接行動は取らなかったものの翌1021年の出来事が干渉を決意させる。ボイアニスはランドルフォ4世・ディ・カプアと同盟を結んで教皇軍とともにガエタ公国(イタリア語版)の領域の砦を守備していたダットのもとに進軍したのである。1021年6月15日にダットは捕虜となり大袋の中にサルや雄鶏やヘビと一緒に入れられて海に放棄された。1022年にハインリヒ2世、ケルンのピグリム(ドイツ語版)、ポポネ・ディ・ガリンツィア(イタリア語版)の三軍から成る神聖ローマ帝国の大軍がトローイアを攻撃した。トローイアは陥落こそしなかったものの全てのランゴバルト系諸侯は神聖ローマ帝国に連れ去られてランドルフォ4世はドイツの監獄へと運ばれていった。かくしてランゴバルト系貴族による反乱の時期は終焉をむかえたのであった。
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