ランゴバルド王国(イタリア)のカトリック改宗
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「古代末期のキリスト教」の記事における「ランゴバルド王国(イタリア)のカトリック改宗」の解説
「ランゴバルド王国」および「イタリア王#ランゴバルト時代」を参照 ノリクムとパンノニアにいたゲルマン民族ランゴバルド人は、ユスティニアヌス1世ビザンツ皇帝の東ゴート王国征服事業をたすけて、ナルセス総司令官のもとイタリアに従軍した。その後の568年にランゴバルド人は、モンゴル系アヴァール人から攻撃され、さらにユスティニアヌス1世の死後に東ローマ帝国でナルセスが失脚してナポリに退くと、アルボイーノ(アルボイン)率いるランゴバルド軍が北イタリアに侵入し、占領した。この土地は後世ランゴバルドという部族名からロンバルディア地方と名がつけられた。570年ランゴバルド人の諸侯は、トスカーナ、南イタリアのルカニア地方にまで進出し、スポレート公国、ベネヴェント公国を築き、さらに574年にはパビーアをおとしいれ、そこを首都としてランゴバルド王国を建国した。ランゴバルド人の侵入によってイタリア半島はランゴバルド王国領とビザンティン領とに切り分けられ、各地に独立性の強い35の諸公国、ドゥクス連が併存するようになった。 ランゴバルドは多くのゲルマン部族と同様にアリウス派であったので、ローマ教会は侵入を脅威と感じた。しかし、590年に即位したグレゴリウス1世(在位:590年- 604年)の施策によって、アングロサクソン、フランク、西ゴートと同様にランゴバルドでもカトリック改宗とそれにともなって、教皇権の確立が進んだ。グレゴリウス1世はランゴバルドとラヴェンナ太守との和平の仲介をおこない、また教皇領を整備させていった。 王アギルルフォ(在位590‐616)は607年に王妃テオドリンダの勧めでカトリックに改宗する。王妃テオドリンダにより「ロンバルディアの鉄王冠」が整備され、モンツァ大聖堂が造営される。ビザンティン帝国の制度をまねた行政機構も導入された。グレゴリウス2世やグレゴリウス3世がビザンツ皇帝から独立しえたのは、カトリックに改宗したランゴバルド王国が教皇の反ビザンティン政策を支持していたためでもあった。 8世紀半ばにはアストルフォ王がラベンナを併合したが、当時教皇権が拡大し、教皇領も増えて、ローマ教皇はイタリアでの勢力を確実なものとしていったのに対して、ランゴバルド王はリウトプランド以下退潮していった。そこで教皇はフランク王国と同盟を組み、カロリング朝のフランク王国宮宰ピピン3世が756年にラヴェンナのアストルフォ王を降して、その領地を教皇へ寄進し、教皇領が始まった。 ピピン3世の子カールとランゴバルド王デシデリウスとが新たに対立すると、教皇とフランク王国との同盟はさらにおしすすめられ、774年のカールのフランク王国との戦いで、スポレート公やベネヴェント公などの諸侯も冷淡ななか、ランゴバルド王国は敗れ、フランク王国に併合され、滅亡した。カール大帝は教皇領と教皇のローマ支配権を認めて、それを保護した。 フランク王国支配下のイタリアでもビザンツとの対立は継続したが、812年にイストリア地方と北部・中部イタリアがフランク王国、ヴェネツィアと南イタリアをビザンツ帝国が支配するという協定が成立した。
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