ケネディ【John Fitzgerald Kennedy】
John F. Kennedy
(35) John F. Kennedy
(ジョン・F・ケネディ)
民主党 (1961-63)
( )内の年は在任期間
ジョン・F・ケネディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 05:30 UTC 版)
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(英語:John Fitzgerald Kennedy、1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第35代大統領(在任: 1961年1月20日 - 1963年11月22日)。名前のイニシャルをとってJFKないし通称であるジャック(Jack)と呼ばれることも多い。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。
注釈
- ^ 背骨の障害については生まれつきという説と後に治療に使ったステロイドが原因とする説もある。
- ^ 19世紀末になるとアメリカの東海岸のエリートたちはイギリスのパブリックスクールを真似て私立の寄宿学校をこぞって設立した。チョート校もその一つでプロテスタントの学校であった。父・ジョセフがカトリック系でなくあえてジョセフ・ジュニアもジョンもプロテスタント系の学校に入学させたのは、息子たちがこの学校に通うことで自分が冨を得ても破ることの出来なかった社会の壁を乗り越えられるように願ったためであった[7]。
- ^ 後に1952年と1956年の民主党の大統領候補となり、ケネディ政権では国際連合大使を務めたアドレー・スティブンソンや俳優のマイケル・ダグラスも同校を卒業している。当時ユダヤ人は入学を許さず、カトリック教徒は余程優秀な成績でないと入学できなかった。ジョンのそれまでの成績では入学は出来なかったはずだが、父の財力と兄が飛び抜けて優秀であったことが力になったとされている[8]。
- ^ 潰瘍性大腸炎とされている。
- ^ 現在の医学では消化器系の潰瘍にはステロイドは効き目があるが、長期的使用には有害な副作用があるとされている。炎症は緩和しても骨粗鬆などの原因となり脊髄に異常が生じたり、副腎機能に障害を生じたりする[11]。
- ^ ちなみにジョン・ハーシーの妻フランシス・アンは学生時代にケネディと交際、婚約まで考えた関係であった。
- ^ この旅行には弟ロバートと妹パトリシアが一緒に同行して、旅行の最後は日本を予定していたが、沖縄で急な高熱で病院に運び込まれ、結局日本訪問は断念している[26]。
- ^ ケネディは18年後にエヴァンズをホワイトハウスでの大統領就任式に招待している。ガサとクマナも招待されていたものの、式典に間に合うように出立することが出来なかった。クマナは『ケネディのPT109の捜索』 ('The Search for Kennedy's PT-109') で「救出の後に、ケネディは、彼が再び私たちに会うと言いました」と述べている。そして「彼は大統領になったとき、我々を招待してくれた。しかし、空港に着いた時、我々はある事務員に引き会わされ、我々が出国出来ない旨を告げられた。ビウクと私が英語を全く話せないことが理由だった。私の気持ちはひどく沈んでしまった。」という証言を残している。Ted Chamberlain National Geographic News, 20 November 2002
- ^ ジョン・F・ケネディの娘キャロラインは2013年、駐日大使就任直後に応じた日本の新聞へのインタビューにて、ケネディは自らの魚雷艇を撃沈した天霧の艦長を大統領就任式に招待したと語っているが、実際に就任式に招待されたのは、衝突時の天霧の艦長が花見弘平少佐であることを突き止めた人物で国際政治学者である当時の青山学院大学教授、細野軍治であった。
- ^ 通称INS社。後にUP通信と合併してUPI通信となった。1963年秋のダラスでのパレード中にケネディが狙撃された直後に、後方の車に乗っていたUPI通信の記者がケネディ撃たれるの速報を発信して、これが最初の情報として全米のテレビ・ラジオでのニュース速報として流れた。
- ^ この現職議員の市長選へのくら替えは、当時カーレイ議員自身が詐欺などの容疑でその弁護料の支払いで財政的に非常に苦しい立場に追い込まれていたため、父・ジョセフがその借金の返済を肩代わりする、そのかわりに下院議員選挙への出馬を取り止めボストン市長選に出馬してその選挙費用はケネディ家が全て賄うという裏取引であった。そしてボストン市長選挙で当選して晴れてボストン市長になったカーレイだったが、市長になってすぐに連邦補助金に絡む着服で詐欺罪として有罪が確定して刑務所に収監されている[29]。
- ^ このネル―首相の指摘は、その後ケネディが大統領に就任後の「平和部隊」「進歩のための同盟」などの政策として実現した。
- ^ この旅行には弟ロバートと妹パトリシアが一緒に同行して、旅行の最後は日本を予定していたが、沖縄で急な高熱で病院に運び込まれ、結局日本訪問は断念している[26]。
- ^ 兄ジョセフ・ジュニアのガール・フレンドだったとジョン自身が親友のワシントンポストの元編集者ベン・ブラッドリーに語っていたが、ずっと後になって、ジョンが22歳の時にハドソン川を渡ってニュージャージー州フォートリーへ駆け落ちし、ジュリーとの結婚届を出してその後離婚届をしているとしている。ジュリー・マルコムは戦後の一時期もジョンと関係があったとする説があり、真偽は詳らかではない[34]。またケネディの親しい友人のチャールズ・スポールディングも戦前に父・ジョセフが怒り狂い、裁判所に行って結婚届を手に入れて処分してくるように命令された、と語っている[35]。
- ^ 一説には、当時ロッジ陣営は100万ドルの資金で戦ったがケネディ陣営は数百万ドルを使ったとされている。またもともと共和党支持の「ボストン・ポスト」紙が経営難に陥り、ジョセフが50万ドルの支援と引き換えに共和党支持から民主党支持に鞍替えさせたとも言われている[36]。
- ^ 二人の出会いは、もっと早くジャクリーンが大学生だったころでその後再会の機会はあったが特に進展は無かったという説もある[39]。しかし一般的には記者となってから知り合ったという説が多い。
- ^ このホテルはホー・チ・ミンが若き日にシェフを務め、マルコムXがテーブル片付け係として働いていたホテルでもある。[41]
- ^ ただし、ギャレス・ジェンキンス著の『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』では、当時ロンドンで行われたエリザベス二世の戴冠式にジャクリーンが取材で滞在中に電報でプロポーズした、と述べており、またネリー・ブライ著『ケネディ家の悪夢』では1953年5月23日にニューヨークのセントパトリック大聖堂で行われた妹ユーニスとサージェント・シュライバーの結婚式の際に教会からプロポーズの電報を打った(ジャクリーンはこの時ロンドンでエリザベス二世の戴冠式の写真を撮りに行っていた)とされており[42]、土田宏著『ケネディー神話と実像』でもロンドンにいたジャクリーンにプロポーズの電報を打ったとしており、いずれにしてもプロポーズの返事をジャクリーンがジョンに伝えたのがこのホテルではないか、と思われる。
- ^ この10年後にクッシング大司教はケネディ暗殺後の国葬でセント・マシューズ教会の告別式を取り仕切ることとなった。
- ^ しかし1960年の大統領選挙の民主党予備選挙で同じ民主党のジョンソン陣営から副腎機能低下症にケネディが罹っているとの情報が流されている。そして、1963年11月22日ダラスで凶弾を受けて瀕死の状態で担ぎ込まれたパークランド記念病院で、救急の医師が大統領が副腎機能低下症に苦しんでいることを新聞で既に知っており、この医師はすばやくハイドロコーチゾンを注射している。
- ^ ギャレス・ジェンキンスの著書では容態の悪化だが、ソレンセンの著書では10月の手術で挿入された金属板を取り除くためで、これはまた危険な手術でもあった。
- ^ ホワイトハウスに入ってから大統領執務室に置いたロッキングチェアにケネディはよく座っていたが、この椅子はケネディの腰痛を和らげるためであった。フレデリック・ケンペ著「ベルリンの危機1961」上巻 293P
- ^ プロカインは一時的な知覚麻痺によって痛みを鎮めるが、その後一層痛みが激しくなり、ますます強力で多量の麻酔薬が必要となる。フレデリック・ケンペ著「ベルリンの危機1961」上巻 293P
- ^ マックス・ジェーコブスン博士は疲労と抑鬱の治療として、もっぱらホルモン、動物の器官細胞、ステロイド、ビタミン、酵素、そしてアンフェタミンを含んだ注射をケネディに行っていた。これらの薬は中毒性があり、活動過多、過度の精神緊張、認識障害、神経過敏といった副作用を起こす場合があった。また自信過剰から抑鬱の発作へと気分が大きく揺れ動くかも知れなかった。そしてジェーコブスン博士は後に1969年にケネディの友人マーク・ショーをアンフェタミン中毒で死亡させ、1975年に医師免許を失っている。フレデリック・ケンペ著「ベルリンの危機1961」上巻 294P
- ^ ケネディは1度だけノーベル賞推薦人としてノーベル平和賞への推薦を提出した。それは1962年のことであり、ケネディはエレノア・ルーズヴェルトを推薦した。ケネディも1度だけノーベル平和賞に推薦されたことがあり、1962年C. J. ハンブロ(C. J. Hambro)による提出である[53]。
- ^ これは2年後の1960年の大統領選挙の時には声高にニクソン候補にソ連に比べて遅れていると批判したが、選挙後にはこのミサイルギャップについては一切触れていない。政権に就いてから調べてみるとそのようなギャップは無かったことになる。
- ^ この予備選挙でハンフリー陣営が選挙に投じた額が2万5000ドルに過ぎないのに比べケネディ陣営は27万4000ドルであった。およそ10倍であったが実際はもっと多くの金が使われたと信じられている[61]。
- ^ プロボクシングやプロレスリングの試合会場としてつとに有名である。1968年6月に西城正三はここで世界フェザー級タイトルマッチを戦い、判定勝ちで日本人初の海外で世界チャンピオンを獲得した。またプロレスでは力道山が1958年ルー・テーズを破ってインターナショナルチャンピオンとなり、また1962年にフレッド・ブラッシーを破って当時のWWA世界チャンピオンを獲得したのもこの会場である。
- ^ 1932年と後の1984年のロサンゼルスオリンピックのメイン会場となった競技場である。この競技場は当時ロサンゼルス・ドジャーズの本拠地として野球場として使用されていて、前年のワールドシリーズでシカゴ・ホワイトソックス戦を開催し、今も残る9万人の観客動員のワールドシリーズ最高記録を残している。そしてこの日は8万人が集まった。
- ^ 土田宏は、妹ユーニスの夫のサージェント・シュライバーの助言としている。
- ^ 残りの1州であるミシシッピ州ではハリー・F・バード候補が州選出の全大統領選挙人を獲得した。
- ^ この選挙運動に関するセオドア・ホワイトの1961年の著書『The Making of the President 1960 』は、ベストセラーであるだけでなく、しばしば高校と大学のアメリカ政治と歴史のコースの中で補足のテキストとして使用されている。
- ^ これより12年後の1972年の大統領選挙で、民主党大会で大統領候補マクガヴァンの指名で副大統領候補になったイーグルトン候補が同じような過去の受診歴を明らかにしなかったことで批判されて副大統領候補を辞退している。
- ^ ただし、仲晃 著「ケネディはなぜ暗殺されたか」によると、逆でアイゼンハワーは敗北を認めず一部の州の再集計を連邦選挙委員会に申し入れるように促したがニクソンは応じなかったという。また1978年になってニクソンが回顧録を出版し、この中で「大規模な不正投票が行われたことには疑問の余地がない」と書いている。仲晃 著「ケネディはなぜ暗殺されたか」153-154P参照
- ^ ただし、アーサー・シュレジンジャーが後に語ったように仮にイリノイ州とウェスト・ヴァージニア州をひっくり返しても選挙人の数ではケネディが上であり、(全く逆転するにはイリノイ州とテキサス州の勝利が必要であった)また選挙人の過半数の確保に至らなくても、翌年早々の新議会での下院議員による決選投票に持ち込まれると民主党が多数を占めているのでどちらもケネディ有利であることに変わりはないという意見もある。
- ^ ケネディの私的な顧問弁護士でケネディ政権時代は外交顧問、後にジョンソン政権時代の末期にマクナマラの後任として国防長官を務めたクラーク・クリフォードから紹介された人物。スタットは予算局や大統領特別補佐官などの経験者であり、この時期にケネディから大統領権限と官職への人選などの懸案事項についての相談相手であった[83]。
- ^ ただし、別にアチソンがケネディに国務長官時代の部下であったラスクを紹介したという説もある。アチソンとケネディの関係はジョージタウンの自宅の隣人であり、もっと近い関係で、大統領就任後にすぐにNATO大使にとケネディから要請を受けたがこれも断ったが、緊急の最重要課題であったベルリン問題で主導的な役割を果たした。フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」上巻 200-201P参照
- ^ 第26代大統領セオドア・ルーズベルトはケネディより若い42歳で大統領になったが、前任のウィリアム・マッキンリーが1901年に暗殺されたあとに副大統領からの昇格であったので、選挙で選ばれた大統領はケネディが史上最年少である。
- ^ この2年10か月後のケネディ暗殺事件の直後に、大統領直属の暗殺調査委員会が設置されて委員長に就任した人物でもある。
- ^ 演説全文はwikisource:John F. Kennedy's Inaugural Addressに見ることができる。
- ^ EECはその後EC(ヨーロッパ共同体)となり、今日のEU(ヨーロッパ連合)となった。この時代の加盟国はフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6か国で、イギリスは当初EECに対抗してEFTAを作ったりしたが結局EECへに加盟を目指し、マクミラン首相がEECに加盟申請をしたが、フランスのドゴール大統領が拒否し、1973年になってやっと加盟を認められた。
- ^ 戦後の欧州やアジア、そして発展途上国への海外援助額が大きく、貿易収支はずっと黒字を維持したが資本収支を含めた国際収支の赤字は、この後もアメリカを悩まし、ベトナム戦争での軍事費の増大がドル不安を呼び、ドル防衛が常となり、やがて1971年に国際収支どころか貿易収支が戦後初の赤字になった時に当時のニクソン大統領が金とドルの交換を停止し、ドルの実質切り下げに踏み切った。これがニクソンショックである。
- ^ ケネディ大統領が進めていたベトナムへの軍事援助の増加が原因という説があるが、ケネディの時代はむしろベルリン危機やキューバ危機でソ連との対決に備えるための軍事予算が必要になったのであって、ベトナムへの軍事援助が増加したのはジョンソン大統領の時代になってからである。
- ^ これらのことに合わせて、内政、外交におけるいくつかの大きな失策により、もし暗殺されていなかったとしても1964年の大統領選挙での再選は絶望的とする見方が有力であったとする陸井三郎の解説(『日本大百科全書』(小学館))があるが、しかし当時の彼の人気と共和党内の混乱で有力候補がいない状況(翌年に超保守派のゴールドウオーターが共和党大統領候補となって惨敗した)では再選されただろうとする見方の方が多い。
- ^ ここでは経営側と組合側とが同席しての話になっているが、落合信彦は著書『2039年の真実』の中で、この鉄鋼産業との対決について、ケネデイはまず鉄鋼組合や自動車組合やAFL-CIOの幹部に対して自重を促した。この間経営者側は傍観していた。経営者側にとっては値上げをしないなどという約束は大統領とはしていない、と述べている。ふつう労使間で約束したことを簡単に覆すことはあり得ないことで、まず労働組合側との話を進めたため、経営者側にとっては頼みもしないのに勝手に大統領が片側だけと交渉したことがこのような結果になった、とも考えられる。落合信彦著『2039年の真実』146〜147P参照
- ^ ケネディの提案は必ずしもタックス・ヘイヴンだけでなく海外の子会社が持つ留保所得の繰延べを問題としたもので完全廃止を主張したとされるが、もともと最初から発展途上国などを含めていない。
- ^ これは当時の日本にとっても影響のあることであった。
- ^ ジョン・グレン中佐はこの翌年ケネデイ大統領の国葬に参列し、その後合衆国上院議員となり、1998年にスペースシャトル「ディスカバリー」に乗って77歳で再び宇宙飛行士となった。
- ^ メレディスは一年前から州政府と法廷で争い、地方裁判所から連邦最高裁までことごとくメレディスが勝訴してきた。しかしミシシッピ州知事ロス・バーネットは裁判所の判決を拒否したため、連邦控訴院はバーネットに法廷侮辱罪で有罪を宣告し、連邦政府に対して裁判所の命令を実行するよう要請した。司法長官ロバート・ケネディはバーネットや大学当局に対し説得を開始し、大学側はメレディスの入学受け入れを決定した。しかしバーネットはあくまでも拒否の姿勢を貫き、州兵を動員して大学の周囲を固め、メレディスが大学へ入るのを妨害した。ケネディは州兵を連邦化する行政命令を出し、連邦保安官にメレディスを目立たぬように夜中に大学の寮内に連れ込ませた。しかしこれを知ったクー・クラックス・クランメンバーをはじめとする人種差別主義者約2,500人が暴動を起こした。ケネディはこの件に関する演説を行ったが、連邦保安官や連邦化した州兵では対処し切れなかったのでついに軍隊を動員してこれを鎮圧した。
- ^ アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」であると断じた。ケネディは議会に対する説得にも力を入れた。6月19日に法案を議会に送るとともに、法案に関する特別メッセージを送った。その中でケネディは「この法案の提出は、単に経済的効率のためでも、外交的配慮のためでも、ましてや国内の平穏を保つためでもない。ただ何よりもそれが正しいことだからだ」と訴えた。
- ^ 上院議員のフルブライトは反対した。
- ^ ケネディ大統領のスピーチライターで大統領顧問であったセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」の中で、事前の爆撃でキューバ空軍機を損耗させられなかったことで、制空権を確保したキューバ空軍の攻撃が沖合の艦船を撃沈させて、弾薬補充が出来なかったことが上陸作戦の失敗につながった要因の一つであると指摘している。ただし、これだけが作戦全体の失敗の原因ではない。
- ^ ロバートはキューバでの最初の大失敗でCIAにも亡命キューバ人に対してもケネディ兄弟に対する反感が根強いと感じていた。実際、ピッグス湾事件に参加し捕虜となりその後身柄をアメリカに送られた亡命キューバ人グループは反カストロ感情とともに、ピッグス湾で最後に裏切った?ケネディに対する反感は強いものがあった。後に亡命キューバ人グループの指導者ハリー・ウィリアムズに向かってロバートは「君のところの誰かがやったんだろう」と声をかけている[107]。
- ^ 2005年にキューバの諜報機関の元高官のファビアン・エスカレンテ将軍はギャレス・ジェンキンズとのインタビューで、「私は反革命主義者の裁判がケネディ暗殺の謎を解くと確信している」と語ったがしかし「彼を撃ったのがキューバ人であることは断言したくない」とも語っている。キューバ系アメリカ人マフィア、亡命キューバ人グループ、そして反カストロ反革命グループの存在はピッグス湾事件から始まっている[108]。
- ^ この時フルシチョフは、ソ連首相でありソビエト共産党第一書記でもあった。もともとスターリン死後にフルシチョフが党第一書記で、首相はマレンコフとブルガーニンが歴任した後で首相兼務となった。スターリンは首相で書記長兼務であったが、フルシチョフは「第一書記」の役職である。1964年秋のフルシチョフの失脚後はブレジネフ第一書記でコスイギン首相の体制が続き、その後ブレジネフが役職を書記長と改めて首相も兼務している。
- ^ ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である[113]。
- ^ その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った。「ベルリン危機1961」 フレデリック・ケンプ著 280P
- ^ この期間にアメリカはケネディの知らない間に、CIAと軍部で密かにマングース作戦を立て、キューバを攻撃する準備としてカストロ暗殺や政府転覆および破壊活動を企てていた。丁度キューバのミサイルが発見された10月14日の翌日も作戦実行を予定していた[118]。
- ^ 翌15日に分析の結果ソ連製中距離ミサイル(IRBM)と確認されて、建設台と運搬車であることがわかった。
- ^ 空軍参謀総長カーチス・ルメイ。第二次世界大戦では日本への空襲を指揮し、後にベトナム戦争で北爆を強く主張していた。
- ^ スティーブンソン国連大使は翌18日にニューヨークに戻る前に大統領に文書を送り、キューバへの攻撃はソ連がトルコやベルリンに報復行動に出る可能性が高く、結果として核戦争になると強調した[119]。
- ^ この直後、ケネディは「お偉いさん達の意見をその通りにして間違っていたら、間違っていたと言おうにも誰も生きていないことになる。」と補佐官のケネス・オドンネルに吐き捨てるように言い残した[121]。
- ^ 日本では当時も現在もこのキューバ危機では封鎖という言葉を使用している。
- ^ ケネディの封鎖声明後、人口600万人のキューバでは武装した戦闘員が40万人動員され、アメリカは25万人の動員で2000機の戦闘機が万が一のため配置についた。
- ^ 1952年と1956年に民主党大統領候補としてアイゼンハワーと争い、いずれも敗れ、しかも1956年にはケネディがその下の副大統領候補を目指したこともあり、ケネディ政権下で国務長官にという下馬評もあったスティーヴンソンだが、しかし予想に反して国連大使の任用であった。しかしこの時の安保理で厳しくソ連大使を追及する姿は後に「アドレイ・スティーヴンソンの瞬間」という言葉がアメリカ政界の語録に刻まれて、彼が最も脚光を浴びた瞬間でもあった[123]。
- ^ この時代は米ソ冷戦の時代であり、米ソ間にホットラインを設けて首脳同士が直接対話する機会はなかった。このキューバ危機以降に米ソ間でホットラインが設置されて両国の首脳が初めて電話での会談がいつでも開かれることとなった。
- ^ 皮肉な話だが2年前の大統領選挙で米ソ間でミサイルギャップがあるとケネディは共和党政権を攻撃する材料に使ったが、実際はアメリカの方が圧倒的に優位であった。
- ^ ドブルイニンを司法省に呼び会見した、という言説はおよそ当時の緊迫した状況では不可能であり、しかもトルコに設置しているミサイルの撤去についての密約の話であったので秘密を要するものであった。なおドブルイニンとロバートはこの前に封鎖が始まった10月23日にも密会している。
- ^ キッシンジャー著「外交」の中でキッシンジャーは、「このような情勢視察は常に、ある決定({{{1}}}アメリカ軍「軍事顧問団」の増派)が既になされていたということを示すだけのものである」と、情勢視察を行う前にアメリカ軍「軍事顧問団」の増派が決定されていたことを指摘している。
- ^ 「ケネディ政権のかつてのメンバーの中には、ケネディがアメリカ軍(軍事顧問団)を完全撤退させる決定を1964年の大統領選挙の後にするつもりだったと論じている人もいるが、その他の同様の要職に就いていた人はこれを否定している」[134]
- ^ この時に大統領は衣類を身につけず、素っ裸で泳いでいた。そしてスタッフや時には記者、愛人までが誘われて泳ぐこともあった。誘われた方は光栄だが難点は自分も素っ裸で泳がねばならないことだった。ビル・オライリー著「ケネディ暗殺50年目の真実」40P参照
- ^ ソ連がキューバにミサイル基地を建設していたことで、キューバを海上封鎖することを宣言した1962年10月22日の夜も、テレビ演説が終わった後、ジャクリーンの妹リーやデザイナーのオレグ・カッシーニを交えてのディナーパーティーとなった[139]。
- ^ 1962年10月27日土曜日のいわゆる『暗黒の土曜日』と後に名付けられた日の夜、核戦争の危機感を誰もが感じながら夜を過ごした時に、ケネディはこの映画館でオードリー・ヘプバーンの映画『ローマの休日』をデイブ・パワーズと一緒に見ていた[139]。
- ^ フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある。
- ^ これは後の検証により単に危機回避をはかり車外に飛び出ようとしていただけではないかという説や意見もあるが、実はザプルーダー・フィルムから見ると、大統領の頭部に当たってからほとんど1秒も置かずに動いているのは、全くとっさの反射的な行動であって意図を持った行動として見るのは不可能という見方もある。
- ^ 大統領の骨と脳組織の一部は前列の知事コナリーも被っており、ザプルーダー・フィルムを見ると前方に血が噴き出ているように見える。
- ^ ジーン・ヒル(Jean Hill)はグラシー・ノールから銃声がしたとウォーレン委員会において証言した。1980年代には、男が銃撃したと述べている。ウォーレン委員会において、トリプル・アンダーパスの陸橋にいたサム・ホランド(Sam Holland)はアーケードの背後の木立から煙が上がったと証言し、同じ場所にいたオースティン・ミラー(Austin Miller)も煙かスチームを見たと証言した。ウォーレン委員会において、ダラス市警の制服警官ジョー・スミス(Joe Marshall Smith)はグラシー・ノールで当日は配置されていなかったシークレットサービスを名乗る私服の男を見たと証言した。エイブラハム・ザプルーダーの秘書マリリン・シッツマン(Marilyn Sitzman)はジョサイア・トンプソン(Josiah Thompson)のインタビュー(1966年)において、昼食を取っていた黒人のカップルが走っていくのを見たが、他には誰もいなかったと証言した。
- ^ 1975年に設置された下院暗殺調査委員会はオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下したが、重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。
- ^ ジム・ギャリソンとクレイ・ショー裁判については、ジム・ギャリソン著、岩瀬孝雄訳、『JFK ケネディ暗殺犯を追え』、早川書房、1992年およびオリバー・ストーン、ザカリー・スクラー著、中俣真知子、袴塚紀子訳、『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』、テンプリント、1993年など参照。また、クレイ・ショー裁判を批判した著作としてEdward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)。
- ^ 陸井三郎は、目撃証言者12人が変死または怪死していると述べている[142]。
- ^ 『ダラスの熱い日』は、事件後に3年間で18人が死亡したとする説を引用している。この説には批判もある[143]。
- ^ 後の1968年に首相となる。
- ^ 翌年10月に総選挙で勝利して首相となる。
- ^ 後の1969年に西独首相となる。
- ^ 後の1978年に首相となる。
- ^ この前月に大統領選挙に当選していたが、この日までにはまだ就任していない。当時は国家再建最高会議議長であった。
- ^ この国葬の日がちょうど満3歳の誕生日であった。
- ^ 彼女が20歳の時にケネディ議員の事務所に勤め、夜間に彼女の下宿先までケネディは押しかけている。この時に大家のレナード&フローレンス・ケーター夫妻が夜に物音で気づき、敬虔なカトリック教徒であったケーター夫妻はやがて相手が上院議員で大統領候補に目される人物であることに驚き、その情事を録音し(そのテープはFBIのフーバー長官へ)、帰ろうとするケネディの姿を写真に撮り、ワシントンでケネディの女性関係を公表するように各メディアに依頼したがワシントンスター紙を除いて全く黙殺された。ワシントンスター紙は彼女の写真を掲載したが何の反応も無かった。パメラは後にジャクリーンの秘書となった[144]。
- ^ 通称「フィドルとファドル」と呼ばれた飛びぬけて元気な若い女性二人。雑誌「ルック」でも紹介された。ホワイトハウスのプールに昼間から飛び込んでいた[145]。
- ^ 1920年生まれ。彼女の夫はCIA高官のコード・マイヤーで、キューバ危機のさなかの1962年10月22日に、ケネディは彼女と電話連絡をしていたことさえあった。ただこのキューバ危機の間に会ったという記録は無い[146]。しかし、メアリー・ピンショー・マイヤーはケネディ暗殺事件の翌年1964年9月にワシントンのジョージタウンにあるアパートで死体となって発見された。落合信彦著「2039年の真実」P244-245。また夫のコード・マイヤーとはすでに離婚していて、ケネディと親しい関係になったのは1962年1月ごろとされている。彼女の義兄はベン・ブラッドリーでワシントンポストの元編集者であった[147]。
- ^ おそらく西独外交官の妻と思われるが、1963年7月にフーバーFBI長官からこの女性が東ドイツのスパイである情報をつかんだという通告を受けている。この外交官夫妻はすぐに母国に返された[35]。
出典
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ジョン・F・ケネディ
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