インド洋作戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 23:52 UTC 版)
1941年12月、第一航空艦隊(長官は南雲忠一中将)の指揮下で太平洋戦争劈頭のハワイ作戦に参加。戦争が起きなかった場合、第二航空戦隊は空母2隻(蒼龍、飛龍)、第12駆逐隊(叢雲、東雲)で編制される予定だった。10月には本格的な準備に取りかかるため、第一航空艦隊(南雲機動部隊)所属の各戦隊指揮官、幕僚、航空母艦艦長が赤城(旗艦)へ集められ、それとは別に各飛行長、飛行隊長も同様に佐伯海軍航空隊基地にて、作戦説明が行われた。 作戦前、軍令部からの要請に応じて、赤城・蒼龍・飛龍を外し、航続力の優れた空母三隻(加賀、翔鶴、瑞鶴)に最も優秀な第一航空戦隊、第二航空戦隊を乗せて作戦を行う案が作られたが、この案を知った第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、今まで訓練してきた人と飛行機を取られ、母艦だけ残されては部下に会わす顔がない、攻撃の後は置き去りにしてくれて構わないと反対した。結局、第一航空艦隊は最終的に空母6隻案でまとまっている。真珠湾までの道のりは燃料について問題があったが、それを解決するため軍務局の暗黙の了解を得て、南雲長官は自身の責任において軍紀違反である過剰な燃料の搭載を行い解決した。現場では重油を入れた一斗缶を通路に並べるなどして対処した。 第二航空戦隊所属の艦載機部隊は、艦上攻撃機隊32機が海軍航空隊出水基地、艦上爆撃機隊36機が海軍航空隊笠ノ原海軍航空基地を訓練基地として、そして第二航空戦隊ならび第一航空戦隊所属の艦上戦闘機隊72機は海軍航空隊佐伯基地を訓練基地として、錦江湾や志布志湾、佐伯湾で演習を行い、1941年(昭和16年)11月16日佐世保基地にいた加賀以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。 その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日午前4時、警戒隊旗艦の軽巡阿武隈(警戒隊指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官座乗)と麾下駆逐艦9隻(第18駆逐隊《不知火、陽炎、霞、霰》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第五航空戦隊《秋雲》)が動き出したのを皮切りに、時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を個別に目指し、飛龍は艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入った。 11月26日、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)は第一航空艦隊として、第一航空戦隊(空母:赤城、加賀)、第五航空戦隊(空母:翔鶴、瑞鶴)と共に単冠湾を出港し、南雲機動部隊の一翼として艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。この時の第二航空戦隊旗艦は蒼龍だった。航海中は無線が封鎖されゴミの海洋投棄も禁止されたが、山口司令官が「決死隊」であることを強調したため、食事は毎日豪勢、奇襲前夜には全員が日の丸鉢巻をしめ、機械にはしめ縄がはられた。 12月8日、真珠湾攻撃を実施。飛龍からの参加機は以下の通り。 第一次攻撃隊第一波 九七式艦攻18機(水平爆撃隊10機=指揮官:飛行隊長楠美正少佐、雷撃隊8機=指揮官:分隊長松村平太大尉)、零戦6機=指揮官:分隊長岡嶋清熊大尉 第一次攻撃隊第二波 九九式艦爆18機=指揮官:分隊長小林道雄大尉(発動機不調で引き返し不参加)、零戦9機=指揮官:分隊長能野澄夫大尉(零戦1機、故障で引き返す) 飛龍から発進した第一波攻撃隊に未帰還機はなかったが、重傷者が1名出た。先に攻撃した第一航空戦隊の水平爆撃や雷撃によりアメリカ戦艦群が炎上したため飛龍の雷撃隊は目標視認が困難となり、小艦艇を狙った機が多かった。第二波攻撃隊は多数の被弾機を出し、九九式艦上爆撃機2機、零式艦上戦闘機1機が未帰還となった。このうち西開地重徳(一飛曹、零戦)は潜水艦回収地点に指定されていたニイハウ島に不時着して数日間生存していたが、最終的に零戦を自らの手で処分した後、住民により殺害された。西開地の死はニイハウ島事件として在米日系人社会に影響を与えた。 真珠湾攻撃は戦艦を多数撃沈する戦果を挙げる。一方で太平洋で航空機輸送に従事していた米空母レキシントン (CV-2)、エンタープライズ (CV-6)は不在で攻撃できなかった(真珠湾攻撃時、主力空母5隻(サラトガ、ヨークタウン、ホーネット、ワスプ、レンジャー)はアメリカ本土もしくは大西洋におり、開戦冒頭における米空母の一挙撃滅は当初から実現不可能だった。)。攻撃後は、南雲長官は一航艦参謀長の草鹿龍之介少将の進言もあり、予定通り離脱した。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は「第二撃準備完了」と再攻撃をそれとなく催促はしたが、意見具申を勧められると山口は「南雲さんはやらないよ」と言って意見申請まではしなかった。 南雲機動部隊は日本への帰路についた。この間、開戦と同時にウェーク島攻略に向かった攻略部隊(指揮官梶岡定道第六水雷戦隊司令官)は、アメリカ軍の反撃により予想外の被害(疾風、如月沈没)を出して撃退された。このため南雲機動部隊に上陸支援要請があり、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の6隻(第八戦隊《利根、筑摩》、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第17駆逐隊第1小隊《谷風、浦風》)は南雲機動部隊から分離、12月18日より南洋部隊(指揮官井上成美中将/第四艦隊司令長官:旗艦「鹿島)の指揮下に入った。別働隊は第六戦隊(司令官五藤存知少将:第1小隊《青葉《旗艦》、加古》、第2小隊《衣笠、古鷹》)と合流したのち、12月21日、22日、23日の第二次ウェーク島攻略作戦に参加した。飛龍からは12月21日に第一次攻撃隊(艦戦9、艦爆15、艦攻2)計26機、22日に第二次攻撃隊(艦戦3、艦爆17)計20機が発進してウェーク島とアメリカ軍海兵隊を攻撃した。23日にも飛龍から計36機(艦戦12、艦爆6、艦攻18)が波状攻撃を行った。対するアメリカ軍海兵隊は少数兵力ながら奮戦し、22日には2機だけ稼動状態にあったF4Fワイルドキャット戦闘機が日本軍空襲隊(艦戦6、艦攻33)を奇襲して「水平爆撃の至宝」と謡われた金井昇 一飛曹(蒼龍)以下艦攻2機を撃墜している。このF4F隊は田原力 三飛曹の零戦(飛龍制空隊3番機)と空中戦を行って撃墜され、ウェーク島の航空戦力は壊滅した。やがて地上のアメリカ海兵隊も日本軍に圧倒され、降伏している。第二航空戦隊は日本軍の勝利を見届けて12月23日に南洋部隊の指揮下を離れ、12月29日に日本本土に戻った。 1942年(昭和17年)1月7日(8日)、第二航空戦隊は南方部隊に編入された。1月12日、日本を出撃し、パラオ諸島に向かった。1月21日パラオを出港。1月23日、2隻からそれぞれ零戦9機、九九艦爆9機、九七艦攻9機がアンボン攻撃に向かったが天候が不良で、代わりに目標とされたテルナテでも攻撃対象がなかったため攻撃取り止めとなった。翌日、同数でアンボンの兵舎群や砲台を攻撃した。この攻撃で損害はなかった。1月28日、パラオに帰投した。 2月2日、バリクパパンに進出していた「飛龍」の九九式艦上爆撃機のうちの1機が索敵からの帰路オランダ潜水艦「K-XIV」を発見して爆撃している。2月15日、パラオを出港、2月19日にダーウィン空襲に飛龍艦載機計44機(零戦9、艦爆17、艦攻18)が参加し、零戦1機が不時着・未帰還となった。未帰還となった零戦搭乗員豊島一(一等飛行兵)はオーストラリア軍日本人捕虜一号となり、後にカウラ事件(集団脱走事件)の指導者となって自決した。攻撃からの帰投中に「赤城」機が特設巡洋艦1隻を発見し、「蒼龍」と「飛龍」からそれぞれ艦爆9機が発進。「飛龍」の艦爆はフィリピン貨物船「フローレンスD」(2638トン)を沈めた。一方、「蒼龍」の艦爆はアメリカ客船「ドン・イシドロ」(3200トン)を攻撃し、「ドン・イシドロ」はバサースト島に擱坐した。この2隻は物資を積んでフリピンへ向かおうとしていた船であった。 2月21日、スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾に入港する。2月25日出港し、ジャワ島攻略を支援すべくインド洋へ進出する。任務はジャワから逃走する連合軍艦隊の捕捉撃滅であった。だがスラバヤ沖海戦の結果、米英蘭連合軍艦隊が全滅したため南雲機動部隊の出番はなかった。3月1日、第三戦隊(比叡、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)等と共に飛龍航空隊が給油艦ペコス(USS Pecos, AO-6)、駆逐艦エドサル(USS Edsall, DD-219)を攻撃し、撃沈した。ペコスに対しては九九艦爆9機が午後4時頃に攻撃し、8機が被弾、1機は着艦時に火災事故を起こして投棄された。エドサルに対しては九九艦爆9機が午後6時45分頃に攻撃し、こちらは1機の被弾喪失もなく撃沈している。3月5日、ジャワ島南岸の都市チラチャップ港を空襲して停泊中の船舶を撃沈した。 詳細は「日本軍のクリスマス島占領」を参照 3月6日10時30分、南雲司令長官は残敵掃蕩を命じ、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(3番艦金剛型戦艦榛名、4番艦同型金剛)、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)の8隻は別働隊を編制、機動部隊本隊から分離した。第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残し、4隻(第三戦隊第2小隊《金剛、榛名》、17駆第1小隊《谷風、浦風》)は3月7日早朝にクリスマス島に艦砲射撃を行う。約20分間の砲撃で、イギリス軍守備隊は白旗を掲げた。同日、空母部隊は索敵攻撃を実施、オランダ商船を蒼龍攻撃隊と共同して撃沈した。9日午後2時、飛龍以下8隻は南雲機動部隊主隊と合流、山口司令官から報告を受けた南雲司令長官は『クリスマス島の攻略は小兵力を以て容易に実施可能』と結論づけている。クリスマス島攻略は3月下旬〜4月上旬にかけて実施されたが、その際に第四水雷戦隊旗艦那珂が米潜水艦の雷撃で大破した。 3月11日、機動部隊はスターリング湾に戻った。基地訓練のためトラック島に向かったという回想もある。艦攻搭乗員の金沢によれば、トラック島は南方に向かう航空機の重要中継地点のため満足な訓練ができず、飛龍と共にペリリュー島へ移動したという。その後セレベス島ケンダリー基地に移動し、搭乗員の間に幽霊騒ぎが起きている。西太平洋方面に連合軍は有力な航空兵力も艦艇も配置しておらず、日本軍攻撃隊は目標の選定に迷い、爆弾の捨て場所に困ったほどである。淵田美津雄中佐・総飛行隊長は「戦力に余裕もないのに、こんな道草をしてていいのか」と感じ、淵田が山本五十六凡将論を抱くきっかけとなった。
※この「インド洋作戦前」の解説は、「飛龍 (空母)」の解説の一部です。
「インド洋作戦前」を含む「飛龍 (空母)」の記事については、「飛龍 (空母)」の概要を参照ください。
- インド洋作戦前のページへのリンク