朝鮮戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 07:58 UTC 版)
戦争の経過
北朝鮮の奇襲攻撃
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われず、北朝鮮の平壌放送は「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、李承晩政権から、韓国人民を解放する」と宣言した。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して江陵南側の正東津と臨院津に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみで、農繁期であったこともあり、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲から6時間も経ってからとなった。さらに韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。
開城・汶山方面の第1師団、春川・洪川方面の第6師団、東海岸の第8師団は奇襲攻撃を受けながらも健闘した[56]。特に第6師団は北朝鮮軍第2軍団の春川攻略を遅らせ、これによって6月25日中に春川を占領し、漢江沿いに水原に突進して第1軍団とともに韓国軍主力をソウル周辺で殲滅するという計画を大きく狂わせることになった[56]。マシュー・リッジウェイは「良く戦闘の準備をしていたこれら少数の韓国軍部隊のすさまじい勇気がなかったならば、1日ないし2日の貴重な時間が失われ、被害はさらに甚大なものとなったであろう。」と評している[57]。
連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。
トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの出国、および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。2日後には台湾不介入声明[45] を撤回して海軍第7艦隊が中立化を名目に台湾海峡に出動した。
国連の非難決議
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”国際連合安全保障理事会決議82が可決された際は賛成したのは9カ国で反対国はおらず、唯一棄権したのは社会主義国で当時ソ連と対立していたユーゴスラビアだった[58]。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、当時国際連合において「中国」を代表していた中華民国の中国国民党政府と、前年に誕生した中華人民共和国の中国共産党政府の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、この年の1月から安全保障理事会を欠席していた。
しかしスターリンには、この安保理決議が通過するのを黙認することで、アメリカ合衆国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、ヨーロッパにおける共産主義を強化するための「時間稼ぎにつなげる目論見」があった。これらのことは1950年8月27日付のスターリンからチェコスロバキアのクレメント・ゴットワルト大統領に宛てられた極秘電文によって、現在では明らかになっている[59]。
決議後、ソ連代表のヤコフ・マリクは、国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという[要出典]。これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。
保導連盟事件
1950年6月27日、李承晩は南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、保導連盟事件が発生、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された[60]。
韓国軍の敗退
南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、保導連盟事件と同日の6月27日、韓国政府は首都ソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは朝鮮人民軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破したため(漢江人道橋爆破事件)、漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力での脱出を余儀なくされた。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備は旧日本軍の九九式小銃などが中心であり、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しなかった。また航空機も、第二次世界大戦中に使用されていた旧式のアメリカ製観測機(L-4、L-5)とカナダから購入した複座の練習機(T-6)が少数あるのみだった。その結果、陸軍は瞬く間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。
ところが、韓国軍が総崩れの中で北朝鮮軍は突然南進を停止し、3日間の軍事的な活動の空白の時間を生んだ。結果的に、韓国軍は勢力を巻き返すための貴重な時間稼ぎをする事ができた。形勢有利な筈の北朝鮮軍が突然軍事活動を停止した理由について明確な理由は不明であるが、一説によると、韓国の農民が蜂起することを期待していたためともいわれる[61]。
アメリカ軍の出動
当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、マッカーサーは全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っている[62]。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオがアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行していた国務省のジョン・ムーア・アリソンはそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している[63]。
6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自信満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、ダレスとアリソンはその風貌の変化に驚き「わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後にアリソンは回想している[64]。
6月28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、6月29日に東京の羽田空港より専用機の「バターン号」で水原に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに着陸し、漢江をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった[65]。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに第8軍の他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった[66]。
一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(奉天軍官学校5期卒、日本陸士55期相当・元満州国軍大尉)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていたが、アメリカ軍の軍事顧問団に指導された韓国軍兵士は、街頭や農村からかき集められた若者たちで、未熟で文字も読めない者も多く、アメリカ軍の第二次世界大戦当時の旧式兵器をあてがわれて満足に訓練も受けていなかった。アメリカ軍の軍事顧問団の将校らは、そんな惨状をアメリカ本国やマッカーサーに報告すると昇進に響くことを恐れて、韓国軍はアジア最高であるとか、韓国軍は面目を一新し兵士の装備は人民軍より優れていると虚偽の報告を行った[67]。マッカーサーやペンタゴンはその虚偽の報告を妄信しており、北朝鮮軍侵攻10日前の1950年6月15日になってようやく、韓国軍は辛うじて存在できる水準でしかないとする報告が表となったという有様で、とても戦力として計算できるレベルにはなかった[68]。
それを支えるはずのアメリカ軍も、第二次世界大戦終結後に大幅に軍事費を削減していたため戦力の低下は著しかった。アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎず、またひどい資金不足で砲兵部隊は弾薬不足で満足な訓練もしておらず、フォート・ルイス基地などでは、トイレットペーパーは1回の用便につき2枚までと命じられるほどであった[69]。しかし、この惨状でもマッカーサーら軍の首脳は、第二次世界大戦での記憶から、アメリカ軍を過大評価しており、アメリカ軍が介入すれば兵力で圧倒的に勝る北朝鮮軍の侵略を終わらせるのにさほど手間は取るまいと夢想していた[70]。熊本県より釜山に空輸された、アメリカ軍の先遣部隊ブラッド・スミス中佐率いるスミス特殊任務部隊(通称スミス支隊)が7月4日に北朝鮮軍と初めて戦闘したが、T-34戦車多数を投入してきた北朝鮮軍に対して、スミス支隊は60mm(2.36inch)バズーカで対抗したものの役に立たず、スミス支隊は壊滅した[71](烏山の戦い)。
国連軍の苦戦
7月7日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、加盟国にその軍事力と支援を統一部隊に提供するよう求め、アメリカにその司令官の任命を要請する国際連合安全保障理事会決議84を賛成7:反対0:棄権3で可決した(中立的なユーゴスラビアとインドとエジプトの3カ国は棄権した[72])。これを受け、マッカーサーを司令官とするアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成し、7月30日に国連安保理も国際連合安全保障理事会決議85を賛成9:反対0:棄権1で可決して国連軍の司令部を承認した。なお、この国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。
なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。
しかし、準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けた。アメリカ軍第24歩兵師団の本隊も到着したが、北朝鮮軍の戦車部隊に押されてついには師団長のウィリアム・F・ディーン少将が自らバズーカを持って戦うところまで追いつめられたうえに、アメリカ軍は敗北しディーンは捕虜となってしまった。第24師団がこうも脆かったのは、所属していた第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将がマッカーサーに信頼されておらず冷遇されており、優秀な士官が日本に派遣されると、第8軍からマッカーサーが自分の参謀に掠め取ったので、第8軍には優秀な士官が少なかった。朝鮮戦争開戦時の第8軍の9名の連隊長を国防長官ジョージ・マーシャルが評価したところ、朝鮮半島の厳しい環境で、体力的にも能力的にも十分な指揮が執れる優秀な連隊長と評価されたのはたった1名で、他は55歳以下47歳までの高齢で指揮能力に疑問符がつく連隊長で占められていた[73]。壊滅した第24師団は、士官の他、兵、装備に至るまで国の残り物を受け入れている最弱で最低の師団と見られていた。師団の士官のひとりは「兵員は定数割れし、装備は劣悪、訓練は不足したあんな部隊(第24師団)が投入されたのは残念であり、犯罪に近い」とまで後に述懐している[74]。
マッカーサーは、第24師団が惨敗を続けていた7月上旬に、統合参謀本部に11個大隊の増援を要求したが、兵力不足であったアメリカ軍は兵力不足を補うために兵士の確保を強引な手段で行った。まずは日本で罪を犯して、アメリカの重営倉に護送される予定の兵士らに「朝鮮で戦えば、犯罪記録は帳消しにする」という選択肢が与えられた[75]。またアメリカ国内では、第二次世界大戦が終わり普通の生活に戻っていた海兵隊員を、かつての契約に基づき再召集している。召集された海兵隊員は予備役に志願しておらず、自分らは一般市民と考えていたので再召集可能と知って愕然とした。強引に招集した兵士を6週間訓練して朝鮮に送るという計画であったが、時間がないため、朝鮮に到着したら10日間訓練するという話になり、それがさらに3日に短縮され、結局は訓練をほとんど受けずに前線に送られた[76]。
国連軍が押されている間に、アメリカ軍工兵部長ガソリン・デイヴィットソン准将が、釜山を中心とする朝鮮半島東南端の半円形の防御陣地を構築した(釜山橋頭堡)。ウォーカーはその防衛線まで国連軍を撤退させることをマッカーサーに報告すると、翌朝マッカーサーが日本から視察に訪れ、ウォーカーに対して「君が望むだけ偵察できるし、塹壕が掘りたいと望めば工兵を動員することができる。しかしこの地点から退却する命令を下すのは私である。この命令にはダンケルクの要素はない。釜山への後退は認められない」と釜山橋頭堡の死守を命じた。ウォーカーはそのマッカーサーの命令を受けて部下将兵らに「ダンケルクもバターン半島もない(中略)我々は最後の一兵まで戦わねばならない。捕虜になることは死よりも罪が重い。我々はチームとして一丸となって敵に当たろうではないか。一人が死ねば全員も運命をともにしよう。陣地を敵に渡す者は他の数千人の戦友の死にたいして責任をとらねばならぬ。師団全員に徹底させよ。我々はこの線を死守するのだ。我々は勝利を収めるのだ」といういわゆる「Stand or Die」(陣地固守か死か)命令を発している[77]。
追い詰められた韓国軍は、保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害し(保導連盟事件)[78]、日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている[79]。また、北朝鮮軍と左翼勢力は、占領した忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した[80]。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた[81]。
しかし、北朝鮮軍の侵攻も陰りが見え始めており、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化してどうにか戦力を補充して攻勢を維持していた[80](離散家族発生の一因となった)。一方で国連軍は撤退続きで防衛線が大幅に縮小されたおかげで、通信線・補給線が安定し、兵力の集中がはかれるようになっていた[82]。また、アメリカ本土より第2歩兵師団や第1海兵臨時旅団といった精鋭が釜山橋頭堡に送られて北朝鮮軍と激戦を繰り広げた[83]。アメリカ軍が日増しに戦力を増強させていくのに対し、北朝鮮軍は激戦で大損害を受けて戦力差はなくなりつつあった。特に北朝鮮軍は、アメリカ軍の優勢な空軍力と火砲に対する対策がお粗末で、道路での移動にこだわり空爆のいい餌食となり、道路一面に大量の黒焦げの遺体と車輌の残骸を散乱させることとなった[84]。
仁川上陸作戦
マッカーサーは1942年に日本軍の猛攻でコレヒドール島に立て籠もっていたときに、バターンに戦力を集中している日本軍の背後にアメリカ軍部隊を逆上陸させ背後を突けば勝利できると夢想して作戦を提案したことがあったが、その時は実現は不可能だった。マッカーサーは、バターンでは夢想にすぎなかった作戦が今度は実現可能だと思い立つとその準備を始めた。7月10日にラミュエル・C・シェパード・Jr海兵隊総司令が東京に訪れた際に、マッカーサーは朝鮮半島の地図で仁川(インチョン)を持っていたパイプで叩きながら、「私は第1海兵師団を自分の指揮下におきたい」「ここ(仁川)に彼ら(第1海兵師団)を上陸させる」とシェパードに告げている[85]。太平洋戦争で活躍した海兵隊であったが、戦後の軍事費削減の影響を大きく受けて存続すら危ぶまれており、出番をひどく求めていたため、シェパードはマッカーサーの提案にとびつき、9月1日までには海兵隊1個師団を準備すると約束した[86]。
アメリカ統合参謀本部議長オマール・ブラッドレーは大規模な水陸両用作戦には消極的で、マッカーサーの度重なる作戦要求になかなか許可を出さなかったが、マッカーサーは「北朝鮮軍に2正面作戦を強いる」「敵の補給・通信網を切断できる」「大きな港を奪ってソウルを奪還できる」などと敵に大打撃を与えうると熱心に説き、統合参謀本部は折れて一旦は同意した。しかし、マッカーサーから上陸予定地点を告げられると、統合参謀本部の面々は唖然として声を失った[87]。仁川はソウルに近く、北朝鮮軍の大兵力が配置されている懸念もあるうえ、自然環境的にも、潮の流れが速くまた潮の干満の差も激しい為、上陸作戦に適さず、上陸中に敵の大兵力に攻撃されれば大損害を被ることが懸念された[88]。8月23日にワシントンから陸軍参謀総長ジョーゼフ・ロートン・コリンズと海軍作戦部長フォレスト・シャーマン、ハワイからは太平洋艦隊司令長官アーサー・W・ラドフォードと海兵隊のシェパードが来日し、仁川の上陸について会議がおこなわれた。コリンズとシャーマンは上陸地点を仁川より南方の群山にすることを提案したが[89]、マッカーサーは群山では敵軍の背後を突くことができず、包囲することができないと断じ[90]、太平洋戦争中は海軍と延々と意見の対立をしてきたことは忘れたかのように「私の海軍への信頼は海軍自身を上回るかもしれない」「海軍は過去、私を失望させたこともなかったし、今回もないだろう」と海軍を褒め称え仁川上陸への賛同を求めた[91]。その後、マッカーサーが「これが倍率5,000倍のギャンブルであることは承知しています。しかし私はよくこうした賭けをしてきたのです」「私は仁川に上陸し、奴らを粉砕してみせる」と発言すると、参加者は反論することもなく、畏れによる静寂が会議室を覆った[92]。会議はマッカーサー主導で進み、とある将校は「マッカーサーの催眠術にかかった」と後で気が付くこととなった[93]。
この会議の4日後に統合参謀本部から「朝鮮西岸への陸海軍による転回行動の準備と実施に同意する。上陸地点は敵の防衛が弱い場合は仁川に、または仁川の南の上陸に適した海浜とする」という、会議の席では唯一慎重であった陸軍のコリンズによる慎重論が盛り込まれた命令電文が届いた。しかし、統合参謀本部は自分らの保身を考えて上陸予定日8日前の9月7日になってから、マッカーサーの「倍率5,000倍」という予想を問題視したのか「予定の作戦の実現の可能性と成功の確率についての貴下の予想を伝えてもらいたい」という電文をマッカーサーに送っている。マッカーサーは即座に「作戦の実現可能性について、私はまったく疑問をもっていない」と回答したところ、ブラッドレーはその回答をトルーマンに報告し「貴下の計画を承認する。大統領にもそう伝えてある」と簡潔な電文をマッカーサーに返した。マッカーサーはこのトルーマンとブラッドレーの行動を見て、「この作戦が失敗した場合のアリバイ作りをしている」と考えて、骨の髄までぞっとしたと後年語っている[94]。
統合参謀本部は作戦が開始されるまで機密保持を厳重にしていたが、GHQの機密保持はお粗末であったうえ、当時の日本の港湾の警備は貧弱でスパイ天国となっており、アメリカ軍が大規模な水陸両用作戦を計画していることは中国に筒抜けであった。そこで毛沢東は参謀の雷英夫にアメリカ軍の企図と次の攻撃地点を探らせた。雷はあらゆる情報を検証のうえで上陸予想地点を6か所に絞り込んだがそのなかで仁川が一番可能性が高いと毛に報告した。毛は周恩来を通じ金日成に警告している。また、北朝鮮にいたソ連軍の軍事顧問数名も金に仁川にアメリカ軍が上陸する可能性を指摘したが、金はこれらの助言を無視した[95]。
マッカーサーは佐世保に向かい、司令船となるAGC(揚陸指揮艦)のマウント・マッキンリーに乗艦すると、仁川に向けて出港した。その後には7か国261隻の大艦隊が続いた[96]。艦隊は途中台風に遭遇したが、9月14日にマウント・マッキンリーは仁川沖に到着した。マッカーサーが到着する前までに仁川港周辺は、先に到着した巡洋艦や駆逐艦による艦砲射撃や空母艦載機による空襲で徹底的に叩かれていた。もっとも念入りに叩かれたのは仁川港の入り口に位置する月尾島であったが、金は中国やソ連の警告にも関わらず仁川周辺に警備隊程度の小兵力しか配置しておらず、月尾島にも350人の守備隊しか配置されていなかった[97]。9月15日の早朝5時40分に海兵第1師団の部隊が重要拠点月尾島に上陸したが、たった10名の負傷者を出したのみで占領された。損害が予想に反して軽微であったと知らされたマッカーサーは喜びを隠し切れず、参謀らに「それよりもっと多くの者が交通事故で死んでいる」と得意げに語ると、海軍と海兵隊に向け「今朝くらい光り輝く海軍と海兵隊はこれまで見たことがない」と電文を打たせ、自分は幕僚らとコーヒーを飲んだ[98]。月尾島攻略後も、ブラッドレーやコリンズの懸念に反して仁川上陸作戦は大成功に終わった。作戦はマッカーサーの計画よりもはるかに順調に進み、初日の海兵隊の戦死者はたった20名であった[99]。
また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。これまでアメリカ軍が苦しめられてきた北朝鮮軍の戦車についても、これまで戦場に投入されてきたM24軽戦車に代わって、第二次世界大戦でも大活躍したM4中戦車の長砲身戦車砲搭載型のM4A3E8(イージーエイト)やM26パーシングといった強力な戦車を投入したため、北朝鮮軍のT-34-85やSU-76は一方的に撃破されて、1950年中には殆ど壊滅状態に陥ってしまった[100]。
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺(en)が起きた[101][102]。
この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、南朝鮮での共産主義シンパの活動家などから構成されていた。指揮官の李鉉相は済州島「4・3蜂起」の指導者であった。南部軍のゲリラ活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは、朝鮮戦争停戦後の1953年12月であった。
国連軍の38度線越境
1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった[103]。
しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。しかし、ジョージ・マーシャル国防長官はマッカーサーに「貴下が38度線の北を進撃するのに、戦術的・戦略的に制限を受けていないと思われたい。」と曖昧な打電をしており、マッカーサーは自らの判断で38度線を越える権限があると思っていた[104]。その為、マッカーサーは韓国軍の独断専行を特に問題とは考えておらず、翌10月2日にその事実がアメリカのマスコミに公表されると[105]、ついで10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した[106]。また国連でも、ソ連が拒否権を行使できる安全保障理事会を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で総会により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた[105]。
10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中華人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した[107]。 しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた[108]。 中国からの警告は外交ルートを通じてもなされている。インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日の深夜に周恩来の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官のディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかったが、実際は正確な情報であった[107]。
中国が戦争介入の準備を進めている最中の10月15日、トラック島において、トルーマンとマッカーサーによる会談が行われた。この会談は中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンがマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要な話はなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報を聞いて以来気になっていた中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサーは「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1 - 2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している[109]。しかしこのマッカーサーの予想は大きく外れ、後にこの発言がマッカーサーに災いをもたらす事になった。
その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は、中国軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずに、敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、10月10日に韓国軍が軍港である元山市を激しい市街戦の上に奪取した。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸し、マッカーサーの作戦では第8軍と第10軍団が二方面より進撃する計画であった。ウォルトン・ウォーカーは、第10軍団の指揮は今まで第8軍司令官として前線の作戦全般を取り仕切ってきた自分が任されるものと考えていたが、マッカーサーは第10軍団の指揮をマッカーサーを心酔しているエドワード・アーモンドに継続して行わせる事とし、更にウォーカーの指揮下にあった韓国軍の半分をアーモンドの指揮下に移し、朝鮮半島の指揮権も二分、西部をウォーカー、東部をアーモンドの管轄にすることを命じた。しかし補給についての全責任は引き続きウォーカーが任される事となった。ウォーカーが現状よりも指揮権限が後退するのに、補給支援の負担だけ増大することに疑問を感じ、また、第10軍団を時間がかかり危険も大きい水陸両用作戦で元山に上陸させる事に統合参謀本部の参謀らも疑問を持ったが、仁川の成功で国民的喝采を浴びているマッカーサーに対し、作戦の疑問を呈する事は憚られた[110]。
10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌(1948年から1972年まで法的効力を有した朝鮮民主主義人民共和国憲法ではソウルを法的な首都に定めていた)を制圧した。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りしたが、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面であった[111]。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し[112]、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していた[113]。マッカーサーは平壌入り前の10月17日には、中朝国境から40 - 60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった[114]。
その様な過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
日本の参加と日本特別掃海隊
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上[注釈 4]の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした[115]。
開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していた。アメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、元山上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請。10月7日、第一掃海隊が下関を出港した[116]。元山掃海作業では10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分する[116]。10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出した[116]。12月15日、国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。
特別掃海隊に対して北朝鮮外相朴憲永は非難、ソ連も国連総会で非難した[117]。李承晩韓国大統領も1951年4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた[118][119]。一方、日本側も掃海隊員を上陸させないよう指示していたが、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に見破られ問いただされた。隊員が理由を話すと、韓国兵は日本語で「ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎したという[120]。
米軍発注の朝鮮特需に、太平洋戦争で船舶を失った多くの船員たちは恩恵にあずかれず、仕事が無かった。GHQの在日米海軍司令部・在日米海軍部局の日本商船管理局の募集に多くの船員たちは応じた。GHQが日本人船員を募集した理由は、戦前、日本領だった朝鮮半島仁川海岸の地理にくわしく、国連軍の戦車揚陸艦(LST)運航に必要だったからであった[20]。仁川上陸作戦の内部資料には、朝鮮半島の地形を熟知する日本人が運航するLSTが作戦に大きく貢献したと記され[20]、仁川上陸作戦に参加した元海兵隊員のロバート・ワイソンは「日本人は朝鮮半島には何度も行っているから、海岸の地形について非常に詳しかったです。彼らは敵から攻撃を受けながら、ゲートを開き、荷下ろしを必死で担いました。我々は協力し合い、作戦を成功させたのです」とLSTの運航を担った日本人の存在なしには、仁川上陸作戦の成功は難しかったと述べている[20]。米国立公文書館海軍資料によると、LSTの約6割30隻以上が日本人によって運航され、日本人約2000人が運航従事しており[20]、GHQと外務省との間で交わされた通信記録などの資料から分かった日本人船員の死者は少なくとも57人に及ぶ[20]。
LT636号沈没事件
1950年1月15日、元山沖で大型曳船LT636号が触雷して沈没し、徴用の形でアメリカ軍に労務提供をしていた日本人船員27人中22名が死亡した。事件の発生はアメリカ軍から極秘として船員の労務管理をしていた神奈川県船舶渉外労務管理事務所へ伝えられた。アメリカ軍は船員の死亡の事実を公文書化しなかったため、事務所は所長名で市町村に死亡報告を出して戸籍の抹消手続きを行うとともに、遺族に対して給料受け取り用の印鑑を入れた骨壺と給料および特別葬祭料などを渡した。徴用されていた日本人船員は元商船の乗組員など約3000人と見られている[121]。
中国人民志願軍の参戦
金日成は北朝鮮が滅亡の危機に瀕するとまずソ連に援軍を求め、スターリンへ戦争への本格介入を要請したが、スターリンは「勝利には少しばかりの挫折や敗北は伴うものだ。北朝鮮は、アジアにおける帝国主義に対抗する解放運動の旗手だ。金日成同士よ、忘れないで欲しい。あなたは孤立していない」として矢面に立つことを避け[20]、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と回答してきた[122]。
当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てており[123]、この頃、スターリンはモスクワに東ヨーロッパの指導者を集めて「無敵と言われていたアメリカは北朝鮮にさえ勝てない。これでアメリカは今後2 - 3年、アジアで足止めされるだろう。これは我々にとって好都合だ。ヨーロッパにおける軍事基盤を固めるため、このチャンスを有効に活かすべきだ」と呼びかけており、アメリカをアジアに釘付けにすることでヨーロッパでの覇権争いを有利に進めようとした[20]。
ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めた。中国では、数名の最高幹部は参戦を主張したが、毛沢東共産党主席と林彪や残りの多くの幹部は反対だった。国連軍の反撃に遭い苦境に陥った金日成が、「敬愛する毛沢東同志! 我々の力だけでは、この危機を乗り越えることは困難です。中国人民解放軍を出動させ、敵と戦って下さい」と援軍を求めたが[20]、毛沢東は金日成を相手にせず、「慎重に検討した結果、軍事行動は厳しい結果を招くという結論に達しました。我が軍の装備は貧弱で、アメリカ軍に勝つ自信はありません。さらに中国が参戦すれば、アメリカとの全面戦争に突入する危険があります」として参戦は難しいとスターリンに弁明した[20]。反対理由としては次のようなものがあった。
- 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
- 長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
- 1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える蔣介石総統による中華民国の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など「国内問題」の解決を優先すべき
しかし、スターリンは毛沢東をとがめ、いずれ日本の軍国主義が復活し、朝鮮半島の戦火は中国に及ぶと揺さぶりをかけ、中国人民解放軍の参戦をけしかけ[20][21]、毛沢東にはスターリンから参戦をけしかける電報が届けられた[注釈 5]。そして、10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を特使の朴憲永から受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦を決意した。アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)総司令官は、第4野戦軍司令員兼中南軍区司令員林彪の予定だったが、林彪は病気を理由に辞退し、代わりに彭徳懐が総司令官に指名された。副司令官は北朝鮮で要職を務めていた朝鮮族出身で延安派の朴一禹が任命され、12月の中朝連合司令部の設置からは朴一禹が朝鮮人民軍を主導することになる[124]。中国参戦は10月5日の中央政治局会議で正式に決定された[125]。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に旧日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで26万人[20]、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。
参戦が成立まもない中華人民共和国に与えた影響として、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定され結果的に成果をあげ、国の内外で毛沢東の威信(カリスマ性)が高まり、独裁化に拍車がかかったという見方がある。
中朝国境付近に集結した中国軍は、10月19日隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始した。中国軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。
中国軍の作戦構想は平壌-元山以北に二重、三重の防御線を構築し、国連軍が北上すれば防御戦を行い、国連軍が停止すれば攻勢に転ずるものであった[126]。しかし中国軍が北朝鮮に進撃した10月19日に平壌は占領されたため、これは不可能となった[126]。そこで彭徳懐は亀城-球場洞-徳川-寧遠の線で国連軍を阻止しようとしたが、これも韓国第2軍団の急進撃で不可能となった[126]。さらにこの時の中国軍の兵力は12個師団しかなく、国連軍の13個師団とほぼ同兵力であった[126]。このため彭徳懐は防御によって国連軍を阻止することは困難と判断し、国連軍の第8軍と第10軍団の間に間隙が生じている弱点を捉え、4個軍のうち3個軍を西部戦線に集中させて韓国軍3個師団を殲滅し、その成果として国連軍を阻止しようとした[126]。
それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。10月25日、クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報の報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた[127]。またマッカーサーの元にも同様な情報が届けられたが、この情報は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長チャールズ・ウィロビーにより、マッカーサーに届けられる前に、マッカーサーの作戦に適う情報に変更されていた。第10軍団参謀ジョン・チャイルズ中佐は「マッカーサーは中国が朝鮮戦争に参戦するのを望まなかった。ウィロビーはマッカーサーの望むように情報を作り出した[128]。」と指摘している通り、マッカーサーはウィロビーより下方修正された情報を報告され信じ切っており、鴨緑江を越えて北朝鮮に進撃した中国兵は30,000名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている[129]。
マッカーサーの作戦は朝鮮半島の西部をウォーカーの第8軍、東部をアーモンドの第10軍団、中央を韓国軍が鴨緑江を目指し競争させるものであった[130]。10月26日、韓国軍第6師団第7連隊の偵察隊が遂に鴨緑江に達し、マッカーサーはその報告に歓喜した[125]。同日に長津湖に向かって移動中だった韓国第1軍団の第26師団は上通で強力な敵と交戦したが、迫撃砲を中心とした攻撃に大韓民国国軍はこれを朝鮮人民軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国軍の大部隊が中朝国境の鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。韓国軍部隊は第8軍に中国軍の介入を報告したが、中国が公式に介入したという兆候が見られなかったため、私的に参戦した義勇兵と判断した[131]。10月28日には米第1海兵師団も中国軍第126師団所属部隊と交戦し、戦車を撃破し捕虜も捕まえたが、マッカーサーは少数の義勇兵の存在は、さほど重要性のない駒の動きであると楽観的に認識していた[132]。
前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった[133]。
さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた。清川江に後退した第8軍は橋頭堡を確保して防戦した。中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、11月5日に攻勢を中止した[134]。その後、前線から中国軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した[134]。中国軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった[134]。
毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ[135]。
マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた[136]。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった[137]。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍団が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍団の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、最もあてにならないと思われていた[138]。
11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散った[139]。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った[140]。中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍団のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している[141]。しかし実際には前進どころか、第10軍団の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた[142]。
ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し[140]、またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった[143]。
中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた[144]。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった[142]。
マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍団を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った[145]。退却した距離は10日で200kmにもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された[146]。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。
12月11日、戦況が悪化した為、李承晩政権は国民防衛軍法を発効させ直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した。
初のジェット機同士の空中戦
1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、北朝鮮軍はソ連軍の支援を受けつつもジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、洛東江(ナクトンガン)戦線では、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中の北朝鮮軍地上部隊に向け、98機のボーイングB-29が960トンもの爆弾で絨毯爆撃を加えるなど、B-29は一方的に北朝鮮軍を攻撃した。当時はまだ哨戒機や爆撃機はほとんどの機体がレシプロ機であり、F4Uコルセア、P-51、F6Fといった第二次世界大戦で活躍した機体も現役で作戦に従事しており、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機への時代の転換期であった。
しかし1950年10月19日、中国人民志願軍が参戦すると、ソ連により中国に供与されていた最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が戦闘空域に進出し、ついに1950年11月8日にはロッキードF-80とMiG-15が激突して、史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が発生した[147]。 後退翼を採用した先進的なジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力であり、同じジェット機であっても直線翼であった国連軍のリパブリックF-84やロッキードF-80、F9F、イギリス空軍のグロスター ミーティアなどを性能的に凌駕していた。これまで北朝鮮軍の脆弱な防空体制により悠々と爆撃していたB-29は、11月1日に初めてMiG-15から迎撃された。この日は損害こそなかったが、爆撃兵団の雰囲気はがらりと変わり、最高司令官のマッカーサーは政治的制約を破棄して、日本本土爆撃のときと同様に、戦略目標に対する焼夷弾攻撃を命じた[148]。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「アメリカ軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた[149]。
B-29には戦闘機の護衛がつけられたが、その連携が乱れると大きな損害を被ることになった。ある日18機のB-29が護衛戦闘機との合流地点に向けて飛行していると、合流前に9機のMiG-15に襲撃された。B-29は10機が損傷して、墜落機こそなかったがそのうち3機は大邱に緊急着陸を余儀なくされた。1951年4月12日には、中朝国境の鉄橋を攻撃するため出撃した39機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、多数の戦闘機に護衛されていたにもかかわらず、その護衛を潜り抜けたMiG-15が2機のB-29を撃墜し8機を撃破している[150]。B-29は危険回避の為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムSHORANを使用しての夜間爆撃を行った[148]。MiG-15と会敵する可能性が高い中朝国境はミグ回廊と呼ばれ、中国領の安東飛行場などから出撃しているために追撃できなかった国連軍は苦戦を強いられた[151]。
なお、MiG-15を操縦していたのは戦争初期には中国軍に編入されていた第64戦闘航空団などに所属するソ連のパイロットが多かった[152]。ソ連軍パイロットは参戦の事実を秘匿するため、制服や国籍識別標識を中国軍に偽装し[153][154]、パイロットは機密保持の念書を書かされるなど緘口令が徹底された上に、作戦行動の際も通信は敵の傍受を警戒してロシア語は厳禁とされ、上、下、右、左といったできるだけ簡素な指示が中国語や朝鮮語で送られた[155]。ソ連空軍の本格参戦は長い間極秘事項となっていたが、グラスノスチによって詳細が明らかとなっており、ソ連空軍は朝鮮戦争に延べ12個航空師団72,000人、最大時で約25,000人の兵士を投入し、合計63,000回の出撃を行っている[156]。ソ連空軍は中国軍や北朝鮮軍のパイロット育成も図っており、王海らのような中国軍のエースパイロットも出現している[157]。後半には北朝鮮のパイロットもある程度が戦力化したが、中ソに比べて低い練度のまま参戦したこともあって、エースパイロットは殆どいなかった[158][159][160]。
アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速最新鋭機F-86Aセイバーを投入、制空権の回復に努めた。B-29も北朝鮮の飛行場すべてに徹底した爆撃を加えて、MiG-15を使用できないようにしている[161]。一方でMiG-15も、初期の生産型は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入するなど、両軍の間で激しい駆け引きが繰り広げられた。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。アメリカ空軍の統計によれば、朝鮮戦争におけるF-86の空戦による損失は78機であったが[162]、空戦でMiG-15を約800機撃墜し、キルレシオは10:1であったとされ、最終的にはF-86がMiG-15を圧倒し制空権は国連軍が確保した[163]。
しかし、実際に朝鮮戦争で失われたMiG-15はあらゆる戦闘要因を合計しても、ソ連軍335機[156]、中国軍224機[164]、北朝鮮軍約100機以上の合計約700機程度であり、アメリカ空軍の主張は過大である[165]。一方でソ連軍も1,100機のアメリカ軍航空機撃墜を主張しているが、アメリカ軍の戦闘機の空戦での損失機数は全機種合計でも121機、対空砲火を含む他の戦闘要因損失を合わせても604機に過ぎず、ソ連側の主張も過大となっている[166]。最近の調査ではF-86とMiG-15のキルレシオは当時のアメリカ空軍の主張の約半分となる5.6:1で、さらにソ連軍熟練パイロットが操縦した場合は1.4:1と互角に近い戦いであったと判明している[167]。
B-29も、当初はMiG-15に苦戦したが、国連軍が制空権を確保していくに従って損失も減り、北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。特に重要な目標となったのは、「中国人民志願軍」が中華人民共和国本土から続々と送り込まれてくるときの進路となる、中朝国境の鴨緑江に架けられた多くの橋梁であり、これらは日本が朝鮮半島を支配していた時に架けたもので非常に頑丈な造りであったので、B-29は最大で12,000ポンド(5,800kg)にもなる巨大な無線手動指令照準線一致誘導方式のASM-A-1 Tarzonで橋梁を精密爆撃して合計15か所の橋梁を破壊した[168]。朝鮮戦争休戦までにB-29は、日本本土爆撃任務に匹敵する延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下であり、日本軍を相手にしていたときの損失と比べると軽微であった[169]。しかし、第二次世界大戦終戦時に大量に生産したB-29の多くはすでに退役し、朝鮮戦争でのB-29の平均的な稼働機は100機程度と激減しており、たとえ対日戦の1/10以下の損失であっても、当時のアメリカ軍にとっては大きな損害となった[170]。
朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、初めて実戦投入された戦争ともなった。アメリカ陸・海軍のシコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士や、前線で負傷した兵員の搬送に従事し、のちに様々な機種が実戦投入された。
なお、世界初の本格的なジェット爆撃機であるボーイングB-47は実戦投入されなかった。また、朝鮮戦争後、余剰となったMiG-15は東側諸国に、F-86は西側のアメリカ同盟国を中心に多数の機体が供与された。そして徹底的に秘匿されて歴史から抹殺されていたソ連空軍パイロットは、その戦死すら秘匿されて、家族に知らされることもなく、極秘に旅順の墓地に葬られその数は202人にも達したが、ソ連崩壊と中国当局による旅順の開放で1990年代になってようやく明らかになった[155]。
国連軍の北進と中朝軍の攻勢
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)[172]。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が死亡した[171]。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。
37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ第1軍団、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国第1軍団を第一線に配置し、後方にアメリカ第1騎兵師団を配置、アメリカ第1海兵師団と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近のゲリラ討伐に任じていた[173]。
国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた[173]。 12月23日、さらに第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡するという不運に見舞われた。マッカーサーはウォーカーの訃報を聞くや、かつてよりこの状況を挽回できる唯一の人物として考えていた統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を後任として推薦した。トルーマンや統合参謀本部の評価はマッカーサーより高く「リッジウェイが司令官だったら、司令部が遠く離れた別の国にあって、何が起きているか実際には知らず、まったく別の気楽な戦争をやっているということはなかっただろう。」との評価で、アメリカ陸軍が得た最高の人物という評価であり、マッカーサーの推薦を承認しウォーカーの後任を命じた[174]。
リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた[175]。リッジウェイはウォーカーと異なりアーモンドの第10軍団も指揮下に置くことができた。マッカーサーはウォーカーの事故死の直前にあと4個師団の増援がないと前線を安定できないとワシントンに要求していたが、リッジウェイは現状で朝鮮半島にいると予想される共産軍48万名を現在の国連軍36万名で十分処理できると考えていた[176]。
リッジウェイは12月26日には朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させたが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけであった。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じた[173]。
1951年1月25日、第25師団と第1騎兵師団を基幹とする部隊が北上を開始した[173]。中国軍の抵抗は微弱で同日夕方に水原-利川の線に進出した[173]。1月27日、リッジウェイ中将は漢江南岸の中国軍を一掃するため、第一線部隊を5個師団に増加させ、威力偵察から大規模な攻勢に発展した[173]。北上するにつれて第50軍と第38軍の抵抗を受け、第8軍の進撃は遅々としたものになった。第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した[173]。
西部でサンダーボルト作戦を行っている頃に中東部戦線の国連軍は偵察活動によって洪川付近に中国軍が集結していることを掴んだ[173]。その報告を受けた第8軍は、サンダーボルト作戦の成果を東部にも拡張し、洪川付近の中国軍を包囲してその後の本格的な攻勢を行うためのラウンドアップ作戦を発動させ、アメリカ第10軍団と韓国第3軍団、第1軍団に洪川-大関嶺-江陵の線に進出するように命じた[173]。2月5日から北進を開始し、順調に進展していたが、横城付近で強力な抵抗を受けたため北進は停滞した[177]。
2月11日夜、中朝軍が横城正面に第40、42、66軍の3個軍を集中して攻勢に転じ、助攻として西方の第39軍で砥平里の第23連隊を包囲し、東方では北朝鮮軍3個軍団が平昌方向に進撃した[177]。横城の韓国軍3個師団は撃退されたが、砥平里の第23連隊は陣地を死守した[177]。
攻勢開始から1週間ほど経つと衝力は衰え始め、2月18日には後退の兆候も見られるようになった[178]。国連軍は中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、漢江-砥平里-横城-江陵に進出して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動した[178]。2月21日、国連軍は全線にわたって北進を開始した。豪雨と中朝軍の抵抗を受けながらも3月初めには漢江南岸-砥平里-横城-江陵に進出し、キラー作戦の目標を達成したが、中朝軍の撃滅はかなわなかった[178]。
リッジウェイ中将はキラー作戦の成果を不十分と考え、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパー作戦を命じた[178]。3月7日、アメリカ第9軍団、第10軍団、韓国第3軍団、第1軍団が北進を開始した[178]。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回した[178]。一方、西部では韓国第1師団が15日に漢江を渡河しソウルを収復した[179]。
4月9日、ラギット作戦が開始され、アメリカ第1軍団と第9軍団、韓国第1軍団はカンザス・ライン(臨津江-全谷-華川-襄陽)を越えて進出し、4月20日には次の目標線であるユタ・ライン(臨津江-金鶴山-広徳山-白雲山)を占領した[180]。中東部の第10軍団と第3軍団は険しい地形と補給に悩まされながらもユタ・ラインに進出した[180]。各軍団は21日からワイオミング・ライン(漣川-鉄原-金化-華川)を目指して北上した[180]。
4月22日夜、中朝軍の4月攻勢が開始された。4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線にわたって攻勢を開始した[180]。中国軍は11個軍をソウル攻略に向かわせた[180]。国連軍は空軍と砲兵の支援で中朝軍に損害を与えつつ逐次にノーネーム・ライン(ソウル北側-清平南側-洪川北側-襄陽北側)まで後退した[181]。新たに第8軍司令官として着任したヴァンフリート中将は400門の火砲を集め、海軍と空軍に協力を要請して、中国軍を火力で撃滅した[181]。第8軍は中朝軍に休む暇を与えないため、直ちに反撃を命じ、5月初めには4月攻勢で失った土地の半分を回復した[181]。ここでヴァンフリート中将は、再びカンザス・ラインに向かう攻勢を計画した[181]。
国連軍の偵察部隊が北進したが、5月10日頃になると激しい抵抗を受けるようになり、中朝軍の攻勢を予感したヴァンフリート中将は全軍に進撃を停止させ、中朝軍の攻勢に備えさせた[181]。5月15日夜、中朝軍による5月攻勢が開始された。西部に第19兵団、東海岸沿いに北朝鮮第3軍団をもって牽制させ、中東部戦線に第3兵団と第9兵団、北朝鮮軍3個軍団の総計は30個師団であった。そして北朝鮮軍は半島東部の太白山脈沿いの韓国第3軍団に攻撃の矛先を向けた。韓国第3軍団(ROK III Corp)が強力な防衛線を張る国連軍の弱点と見抜いていたのである。攻撃を受けた韓国軍は戦うことなく砲、重火器を放棄しただけでなく敵の目につきやすい輸送トラックもあきらめ、携帯武器も捨てながら山岳地帯を南に逃走。将校には捕虜になった際の用心として階級章をもぎ取る者が続出した[182]。去る11月の鴨緑江の再現である[183]。17日に韓国第3軍団は崩壊し、東部戦線は崩壊の危機に瀕した。ヴァンフリート中将はアメリカ第3師団と韓国第1軍団に反撃を命じた。第3師団と第1軍団は中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた[183]。5月末に各軍団はカンザス・ラインを回復した[183]。5月26日から4日間にわたり破虜湖ダム付近で張都暎が率いた韓国軍第6師団と中国軍第63師団が交戦し、中国軍を大きく撃破して中国軍に2万人を超える死者、2,617人の捕虜が出た[184]。
カンザス・ラインを確保した第8軍は、同ラインに防御陣地を構築し、さらにこの陣地戦を完全なものにするために前方20キロに連なるワイオミング・ラインを占領して防御縦深を確保すべく、パイルドライバー作戦を発動した[183]。各軍団は北進を続け、6月11日には鉄原、金化を占領した。東部では亥安盆地(パンチボール)南側まで進出したが、同地に北朝鮮軍が堅固な防御陣地を築いていたため、それ以上の進撃を控えた[183]。
7月29日、国連軍は東部戦線で限定目標に対する攻勢を開始した[185]。しかし6月中旬から防御を固めていた中朝軍の陣地は強固で、第10軍団正面の蘆田坪、血の稜線、亥安盆地では激戦となり、数キロ前進するのに約3千人の死傷者を出した[185][186]。10月初旬に国連軍は再び攻勢を開始した。アメリカ第1軍団は10キロ前進して漣川-鉄原の兵站線を安全にし、アメリカ第9軍団は金城川南側高地、韓国第1軍団は月比山、アメリカ第1軍団は断腸の稜線、1211高地を占領して陣地戦を推進した[185]。
膠着状態に
中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だった。だが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。
それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、3月14日にはソウルを再奪回した[187] ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。
中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した[188]。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した[188]。
1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった[188]。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた[188]。
マッカーサー解任
リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、実際にマッカーサーから指揮権を譲り受けると、中国軍の攻勢を押しとどめて1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。しかし、昔から自己顕示欲が強く部下の活躍を素直に評価することができないマッカーサーはそれを不服と思っていた。マッカーサーは自分が指揮全権を委ねたはずのリッジウェイの戦いぶりを批判し始め、「これはアコーディオン戦争に過ぎない」と侮蔑的な評価をマスコミに対して公言していた。リッジウェイは少ない戦力で最大限の効果を上げるために、前進に拘ることはなく、戦力に勝る中国軍の攻勢を誘発して大損害を与えるという地道な作戦を繰り返し、着実にキルレシオ10~15:1と圧倒的に大きい人的損害を中国軍に与えていたが、この作戦に対してマッカーサーがケチをつけたものであった[189]。
そのようなマッカーサーに対してリッジウェイは、部下の兵士たちがかなりの成功を収めていると士気も上がっている中で、最高司令官がそれを貶してるのであれば、もはや味方の最高司令官であるはずの人物が、前線で戦っている兵士の士気を挫こうと画策しているのに等しいと憤慨し、マスコミに対して「我々は中国征服に乗り出したわけではない。我々は共産主義を食い止めようとしたのである。我々は戦場における我が兵士の優位を立証した。中国が我々を海に追い落とすことができなければ、それは中国にとって計り知れないほどの敗北である」という見解を発表し、真向からマッカーサーに対抗した[190]。のちにリッジウェイはマッカーサーに対して、自伝で「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している[191]。
しかしマッカーサーはリッジウェイからの批判を意に介することはなく、自分の存在感をアピールするために「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を主張し始め、さらに「最長でも10日で戦勝できる」と嘯くようになった[192]。その構想とは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって、50個もの原子爆弾を投下して壊滅させた後、アメリカ海兵隊と台湾の中国国民党兵力合計50万名を共産軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第8軍と包囲して朝鮮半島の共産軍を殲滅し、中国と北朝鮮国境に放射性コバルトを散布して放射能汚染させて、共産軍の侵入を防ぐというもので、マッカーサーはこの戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てると主張していたが、実現性の怪しいものであった[193]。リッジウェイはこのマッカーサーの計画に対しては「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と朝鮮戦争の解決から逸脱して共産勢力の減殺を目論んでいたと推察していた[194]。
一方でトルーマンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示しておらず、むしろ、リッジウェイが戦況を挽回したことで停戦の機が熟したと考えて、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望しており[195]、自らの計画を実行するために原爆の使用許可を求めてくるマッカーサーをずっと黙殺していた。さらにトルーマンは、朝鮮問題解決の道を開くため、1951年3月24日に「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしており、事前の3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、3月24日のトルーマンが声明を出す前に、一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国へ「我々が中国を破壊する前に、今すぐ戦争を止めろ」と迫った実質的な「最後通牒」に等しく[195]、中国を強く刺激した[196][197]。
さらにマッカーサーは、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア前下院議長に対し、トルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙を出していたことが発覚、マーティンがその手紙を議会で読み上げたことで、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われたことが判明した。トルーマンは一瞬にして講和交渉をぶち壊されたのに続き、大統領の自分に対して叛旗を翻すマッカーサーに対し「もはや我慢の限界かもしれない。とんでもない反逆だ」と激怒した[198]。またこの頃になるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した[199]。
4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた[200]。4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊で報じるという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言い放って、公表を急ぐこととし、急遽4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行ってマッカーサー解任を発表した[201]。
日本時間の午後には日本にも第一報が届いた。マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた[202]。周囲にいた日本人、アメリカ人を問わず、ほぼ全員がその知らせを聞いて動揺したが、当のマッカーサーは冷静に受け止めた[203]。翌12日に、トルーマンから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行き、昼食中のマッカーサーに泣きながら封筒を手渡した。マッカーサーは感情を表に出すことはなくその封筒を開けてトルーマンからの指示を読んだ[204]。
大統領として、そして合衆国軍の最高司令官として、誠に遺憾ながら、貴殿を連合国軍最高司令官、国連軍最高司令官、極東方面軍最高司令官、アメリカ陸軍極東司令部総司令官の職から解く。貴殿の指揮権を、速やかにマシュー・リッジウェイ中将に移譲されたい。
マッカーサーはトルーマンからの指示を読んだ後もなんの感情を見せることなく、しばらく沈黙した後に夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った[205]。
解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。
韓国軍の強化
1951年5月末、カンザスラインをほぼ確保した時点で、再び機動戦が展開されることはないと判断され、第8軍と韓国陸軍本部は協議して韓国軍の再訓練に取り掛かった[206]。
1951年7月、野戦訓練団が束草の南側に創設され、アメリカ軍から第9軍団副軍団長のトーマス・クロス准将をチーフとする教官、助教あわせて150人が派遣された[207]。訓練期間は9週間を予定し、各個教練、小銃射撃、分隊訓練の基本から師団司令部の幕僚勤務まで、あらゆる訓練をやり直した[208]。最初の訓練対象は第3師団となり、9週間後の検閲で合格し、アメリカ軍第10軍団に編入されて第一線に復帰した[209]。1952年末までに全10個師団が訓練を受けた[210]。
既存部隊の再訓練と並行して各兵科の専門教育の充実も計られた[209]。何千人もの将校、下士官がアメリカの陸軍歩兵学校や砲兵学校などの実施学校で受け、高級幹部はアメリカ陸軍指揮幕僚大学にも留学している[211]。5 - 10ヵ月の短期課程を終えて帰国した要員は、17の各種実施学校の教官、助教となった[211]。済州島に開設された第1訓練所には負傷して前線勤務が出来なくなった者を教官や助教に充て、新兵には16週間の基本教練が行われ前線に補充された[212]。
1952年1月に正規4年制の陸軍士官学校が鎮海で開校され、4月から教育を始めた。また1951年12月には大邱に幕僚学校が開設されて参謀の育成も始まった[212]。
戦線では再訓練の効果が現れ、東部戦闘地区と中央東側戦闘地区における国連軍の攻撃作戦の多くは、ほとんど韓国軍の部隊で実行された[213]。
将来予想される休戦線の長さ、韓国の国力、期待できる軍事援助などを考慮し、20個師団が必要と算定し、1952年11月から新師団の編成が始まった[214]。1952年末の時点で前線部隊の4分の3近くを韓国軍が占めるようになり、前線に配備された16個師団のうち、11個師団は韓国軍、3個師団は米陸軍、残りの2個師団はそれぞれ米海兵隊と英連邦軍であった[215]。他の韓国軍部隊は、韓国海兵連隊をアメリカ軍第1海兵師団に編入させるなどして、いくつかのアメリカ軍師団を補強した[215]。またヴァンフリートは予備として韓国軍1個師団とアメリカ軍3個師団を用意した[215]。20個師団体制は休戦後の1953年11月に確立した[216]。
停戦
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
休戦協定
アメリカの空爆と核攻撃の脅威にさらされた金日成は休戦を望んだが、毛沢東は一切譲歩しようとせず、「金日成同志よ! 休戦は敗戦につながる一歩だ。我々は、戦争のおかげで鍛えられ、アメリカ帝国主義と戦う貴重な経験を得ているではないか」と休戦を拒否した[20]。金日成はスターリンにも直談判を試みたが、スターリンは「我々は中国の代表団とこの問題を討議し、休戦には応じないという結論に達した。以上だ」と取り合わなかった[20]。
しかし1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去して両陣営の指導者が交代して状況が変化し、共産主義陣営を主導してきたスターリンが死去したことで残された毛沢東は、ようやく戦火を収めることに同意した[20]。
1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。
中立国停戦監視委員会
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
注釈
- ^ 1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している。#国連の非難決議
- ^ 金九は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、「自ら独立を勝ち取ることができなかったことが、今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろう」と述べたと言われている。[要出典]
- ^ 「つい先頃、中国戦線からペンタゴンに帰ってきた若い将校ディーン・ラスクが、38度選沿いの行政分割ラインを引いた」ディーン・アチソン回想録[要出典]
- ^ ただしこの数字は、期間、場所、延べ人数など明確な定義を設定せず概数を加算したものである。(石丸、2010)を参照
- ^ 「戦争に巻き込まれることを恐れるべきではない。戦争が不可避なら、むしろ今起こせばいいのだ。さもなければ、数年後には、日本がアメリカの同盟国として再び軍事力を持ち、中国大陸への足場を築くだろう[20]」
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