1971年岡崎市長選挙とは? わかりやすく解説

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1971年岡崎市長選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:17 UTC 版)

太田光二」の記事における「1971年岡崎市長選挙」の解説

1971年昭和46年)の市長選に向け、かたくなに3期引退決意していたが、後援会幹部らに説得され立候補踏み切った対立候補者前回戦った原嶋と、県議2期目内田喜久内田デマを含むアジビラ大量にばらまき、その中には太田息子をスポーツガーデンのボウリング場業務にあてており、一族によるスポーツガーデン私物化への意図歴然である」とするものもあった。息子まで巻き込む相手方中傷太田激怒し理性をも失い、それがために4選出馬に向かったとも言われている。投票4月25日行われ内田大差敗れた。 ※当日有権者数:136,567最終投票率:87.50%(前回比:+1.73pts) 候補者年齢所属党派新旧得票数得票率推薦支持内田喜久 46 無所属73,275票 61.87% 太田光二 71 無所属34,705票 29.30% 原嶋亮二 40 無所属10,457票 8.83% 20万枚文書飛び交ったと言われ市長選大きな傷跡残した。「市役所ぐるみ」の選挙批判され太田陣営からは、水道局係長投票3日前に公選法違犯容疑逮捕されその後腹心水道局長も逮捕された。太田広報紙に「年齢七十歳越え三期という長い在任黒い霧起すものに包まれさいなまれムードに弱い婦人票のリードする時代と言ったものが私をずり下したと書いて別れ告げ5月1日乗り慣れた自転車新築工事中の市役所去った広報紙には「市長日記」と民間人によるコラム市政雑感」が順繰り掲載されており、コラム執筆陣の一人である福岡寿一は1971年5月15日号で新市長の内田向けて訴えた。「こういう場合、いつも下司知恵として出てくる『何事も円満のため』ということは問題避けて通るではなく太田さんのいう『黒い霧を起』したものによって、全市隅々までも浸透したそのこと』が果して事実であるか否か市民前に立証することによってのみ正されるのであることをわれわれは知っている。まず、そのこと事実か否かあきらかにせよ」 内田1959年11月10日号から続く「市政雑感」を福岡の回で打ち切り就任から間もない7月1日太田名誉市民推挙することで幕引き図った。スポーツガーデンをめぐる疑惑の真相はついに解明されることなく終わった1973年昭和48年1月7日脳卒中により市内伊賀町7丁目の自宅死去72歳没。

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1971年岡崎市長選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:47 UTC 版)

内田喜久」の記事における「1971年岡崎市長選挙」の解説

1970年春頃には「翌年市長選現職太田光二内田喜久一騎打ち公算大きい」と報ずる新聞記事がすでに出始めていた。3期勇退公約掲げていた太田は、義弟浅岡齋県議選出馬準備すすめていたこともあり、当初引退決意が固かったが、後援会幹部らに口説き落とされた。一説には、内田によって配布されおびただしい数の中傷ビラ激怒し出馬踏み切ったとも言われている。4月前回市長選落選した元衆議院議員秘書の原嶋亮二が出馬意向表明し6月には太田内田・原嶋の出馬公然事実となった10月3日岡崎市議会議長岡崎商工会議所会頭発起人として名を連ねた太田支援者集会岡崎市民会館開かれる国会議員大臣代理近隣市長らが多数招かれた同集会において、次期市長選挙候補太田推薦することが採択される。太田12月10日定例市議会冒頭正式に出馬表明12月18日岡崎市総代会長連協議会太田推薦決定当時岡崎市北部地域で、岡崎 - 多治見間の国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道)の新設工法めぐって高架矢作川土手か、国鉄地元住民対立していた。建設促進委員長だった市長太田国鉄意を受け安価な土手方式採用に傾いていた。衆議院議員中野四郎1969年衆院選太田一派支持秘密裡とりつけ得票数2位勝利を収めていたが、その後大門地区住民から岡多線に関する陳情受けていた。岡崎の票を落としたくない中野内田に「君は高架をやるか」と尋ね内田が「やります」と答えたことから、1971年1月20日内田支持表明した1971年4月25日投票が行われ、4期目を狙う太田、原嶋亮二との保守三つどもえの戦い制し初当選した。5月2日市長就任。 ※当日有権者数:136,567最終投票率:87.50%(前回比:+1.73pts) 候補者年齢所属党派新旧得票数得票率推薦支持内田喜久 46 無所属73,275票 61.87% 太田光二 71 無所属34,705票 29.30% 原嶋亮二 40 無所属10,457票 8.83% 同年7月1日愛知県住宅供給公社専務理事鈴木弥一郎を助役選任太田派職員部長から引きずり下ろすため、同日、部制を廃止して課長降格市役所内部実権確立すると、1973年4月に部制を復活させるなど、徹底した報復人事行った1975年4月中旬より助役鈴木弥一郎が病気のため欠勤鈴木6月30日任期満了とともに退任する意志固めた後任選びで、鈴村正弘教育長を推す内田大郷恒夫総務部長推す議会各派のあいだで意見対立したが、内田後援会幹部根回しにより7月1日大郷助役就任した内田対抗策として7月22日臨時議会開き機構改革断行理財部新設してここに財政部門を集中させ、次いで規制改正し助役から予算査定奪い去ったまた、大郷ははっきりものを言う性格から次第内田疎まれ1期4年助役退任した市役所4階市長室は〝開かずの間〟と呼ばれ落城の日まで内田特定のブレーンを作らなかった。滅多に人を近づけなかったと言われている。 そればかりでなく、当選間もなくから汚職手を染めた1971年9月16日内田は「指名競争入札の公正を期すため」と称して、「岡崎市入札参加者審査委員会」を設けた委員会助役委員長とし、関係部課長16人で構成されていたが、内田は「指名業者リスト原案委員会諮る前に見せろ」と職員指示内田意のまま業者選び委員会はたちまち土建業者からワイロ搾り取る手段化した1972年6月、竜美ヶ丘土地区画整理組合整備進め丘陵地帯一角に「内田御殿」と呼ばれた巨大邸宅建てられた。内田は同組合理事長所有する大西町広表(現・竜美旭町)の土地借り市内八帖北町のK建設敷地805平方メートル延床面積314平方メートル木造2階建てかわらぶき住宅施工させた。材料木材唐沢町のS工業供出した。ところが当時価格で7,000万円前後と言われ工費一切支払われずに終わった1977年から1979年にかけて行われた改修工事はいずれもS工業請け負ったが、このときも代金600万円支払われなかった。内田議会追及をかわすため、関係業者集めて帳簿偽造し建物名義人妻の父親に変えた。K建設社長はのちに贈賄容疑逮捕、S工業社長書類送検される(後述)。 1975年4月市長選に、自民党民社党岡崎地区同盟推薦社会党公明党岡崎地区労協支持得て立候補日本共産党推薦新人らを破り再選岡崎1955年最後に地元選出保守系代議士を持たなかった。内田残された夢は国政打って出ることだった。1976年12月衆議院解散が行われないまま任期満了により総選挙迎えた前回1972年)の落選から再起をはかる中野四郎は、禅譲におわせ内田接近した系列としては依然として浦野幸男派(宏池会)に属していたが、内田これを期に中野派(福田派)に移る。中野岡崎1万3千票を増やしトップ返り咲いた1977年1月16日朝、浦野幸男心不全のため急死同日夜、内田側近市議浅井正三市議の自宅集まり浦野後継者問題について密議行った1月20日浦野後援会による臨時葬儀豊田勤労福祉会館岡崎市六所神社安城市民会館三会場で開かれる浦野後援会員でもあった浅井正三は六所神社で「後継者選びのときは、岡崎にも声をかけてほしい」と申し入れるが、娘婿浦野烋興擁立図っていた陣営は「喪が明けるまではその話はしないでほしい」と首尾良くかわした3月2日浦野派の服部貞弘市議と、猿投青年団浦野幸男活動した間柄太田進市議二人豊田出向き豊田市議会正副議長らと面会服部太田は「岡崎全員一致内田決定した」と告げた。しかし時すでに遅く同日夜、「浦野幸男後継者問題懇談会」の世話人会浦野烋興自宅訪れ正式に後継受託要請した3月14日浦野幸男後援会総会で烋興推挙決議可決される内田らの計画頓挫するが、党岡崎支部6月初め次期衆院選内田擁立することを改め決議した同年愛知新聞社東海新聞社は合併し東海愛知新聞社が設立された。1月19日設立株主総会および取締役会開かれ同社代表取締役社長就任した1978年11月4日5日2日間、第1回岡崎まつりが盛大に開催される。この岡崎まつりに関し前述太田進委員会内田質問すると、内田市長室に呼び出し共産党のいる委員会何たる発言か」と叱責した。太田市議(井田町在住)の後援会長は、同時に井田学区内田後援会長を兼ねていた。内田後援会長に、太田選挙活動は手を抜け指示また、太田への市の施設使用許可滞るよう工作したその結果1979年4月22日行われた市議選太田進候補者49人中47位で落選内田手を回していたことを太田はこのとき初めて悟るが、後の祭りだった。議長務めた自民クラブ重鎮落選は、他の市議たちを震え上がらせた。 1979年市議選同日執行市長選無投票により3選。「物言えば寒し」の空気はますます岡崎市政を覆うようになった自民クラブ市議内田を「上司」と呼び始めた同年6月愛知県市長会長東海市長会副会長就任内田職員の不正採用にも手を染めていた。市議安城市議、幸田町議、旧幡豆町議、旧愛知4区選出衆議院議員岡崎地区幹部岡崎地区同盟幹部市内管工事会社社長など有力者の子息子女を採用し続けときにはワイロ要求した要求額は「カローラ1台分」とも言われ内田同年3月市議会定例会追及を受けるが、大きな問題とはならなかった。試験委員経験者はのちに「採用者のうち実力組は3分の1ほど」と証言している。 同年8月10日日本社会党太田一夫高血圧悪化理由次期衆院選への立候補辞退を党愛知県本部伝える。9月7日衆議院解散岡崎市地元選出国会議員保革ともに失った中野四郎は、中野後援会岡崎地区連合会長の元市議柴田信市遣わし内田衆議院転身断念させ、さらには内田自身選対委員長引き入れた。しかし選挙事務所雰囲気低調で、駆けつけ岡崎市17人の動き鈍かった。これを「内田細工」と直感した中野幹部に非常招集をかけ「岡崎は数に入れずに、15取れ」と命じ、「もう内田など来てもらわなくていい」と言い放った衆院選10月7日行われ中野11回目当選を果たす。

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