1971年岡崎市長選挙
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1971年(昭和46年)の市長選に向け、かたくなに3期引退を決意していたが、後援会幹部らに説得され立候補に踏み切った。対立候補者は前回戦った原嶋と、県議2期目の内田喜久。内田はデマを含むアジビラを大量にばらまき、その中には「太田は息子をスポーツガーデンのボウリング場業務にあてており、一族によるスポーツガーデン私物化への意図は歴然である」とするものもあった。息子まで巻き込む相手方の中傷に太田は激怒し、理性をも失い、それがために4選出馬に向かったとも言われている。投票は4月25日に行われ、内田に大差で敗れた。 ※当日有権者数:136,567人 最終投票率:87.50%(前回比:+1.73pts) 候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持内田喜久 46 無所属 新 73,275票 61.87% 太田光二 71 無所属 現 34,705票 29.30% 原嶋亮二 40 無所属 新 10,457票 8.83% 20万枚の文書が飛び交ったと言われた市長選は大きな傷跡を残した。「市役所ぐるみ」の選挙が批判された太田陣営からは、水道局係長が投票3日前に公選法違犯の容疑で逮捕され、その後腹心の水道局長も逮捕された。太田は広報紙に「年齢七十歳を越え、三期という長い在任、黒い霧を起すものに包まれさいなまれ、ムードに弱い婦人票のリードする時代と言ったものが私をずり下した」と書いて別れを告げ、5月1日、乗り慣れた自転車で新築工事中の市役所を去った。 広報紙には「市長日記」と民間人によるコラム「市政雑感」が順繰りに掲載されており、コラム執筆陣の一人である福岡寿一は1971年5月15日号で新市長の内田に向けて訴えた。「こういう場合、いつも下司の知恵として出てくる『何事も円満のため』ということは、問題を避けて通るのではなく、太田さんのいう『黒い霧を起』したものによって、全市の隅々までも浸透した『そのこと』が果して事実であるか否かを市民の前に立証することによってのみ正されるものであることをわれわれは知っている。まず、そのことが事実か否かをあきらかにせよ」 内田は1959年11月10日号から続く「市政雑感」を福岡の回で打ち切り、就任から間もない7月1日、太田を名誉市民に推挙することで幕引きを図った。スポーツガーデンをめぐる疑惑の真相はついに解明されることなく終わった。 1973年(昭和48年)1月7日、脳卒中により市内伊賀町7丁目の自宅で死去。72歳没。
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1971年岡崎市長選挙
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1970年春頃には「翌年の市長選は現職の太田光二と内田喜久の一騎打ちの公算が大きい」と報ずる新聞記事がすでに出始めていた。3期勇退を公約に掲げていた太田は、義弟の浅岡齋が県議選出馬の準備をすすめていたこともあり、当初引退の決意が固かったが、後援会幹部らに口説き落とされた。一説には、内田によって配布されたおびただしい数の中傷ビラに激怒し出馬に踏み切ったとも言われている。4月、前回の市長選で落選した元衆議院議員秘書の原嶋亮二が出馬の意向を表明し、6月には太田・内田・原嶋の出馬は公然の事実となった。10月3日、岡崎市議会議長と岡崎商工会議所会頭が発起人として名を連ねた太田の支援者の集会が岡崎市民会館で開かれる。国会議員や大臣代理、近隣市長らが多数招かれた同集会において、次期市長選挙候補に太田を推薦することが採択される。太田は12月10日、定例市議会の冒頭で正式に出馬を表明。12月18日、岡崎市総代会長連絡協議会は太田の推薦を決定。 当時、岡崎市の北部地域で、岡崎 - 多治見間の国鉄岡多線(現・愛知環状鉄道)の新設の工法をめぐって、高架か矢作川土手か、国鉄と地元住民が対立していた。建設促進委員長だった市長の太田は国鉄の意を受けて安価な土手方式の採用に傾いていた。衆議院議員の中野四郎は1969年の衆院選で太田一派の支持を秘密裡にとりつけ得票数2位で勝利を収めていたが、その後大門地区の住民から岡多線に関する陳情を受けていた。岡崎の票を落としたくない中野は内田に「君は高架をやるか」と尋ね、内田が「やります」と答えたことから、1971年1月20日、内田支持を表明した。 1971年4月25日に投票が行われ、4期目を狙う太田、原嶋亮二との保守三つどもえの戦いを制し初当選した。5月2日、市長就任。 ※当日有権者数:136,567人 最終投票率:87.50%(前回比:+1.73pts) 候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持内田喜久 46 無所属 新 73,275票 61.87% 太田光二 71 無所属 現 34,705票 29.30% 原嶋亮二 40 無所属 新 10,457票 8.83% 同年7月1日、愛知県住宅供給公社専務理事の鈴木弥一郎を助役に選任。太田派職員を部長から引きずり下ろすため、同日、部制を廃止して課長に降格。市役所内部の実権を確立すると、1973年4月に部制を復活させるなど、徹底した報復人事を行った。 1975年4月中旬より助役の鈴木弥一郎が病気のため欠勤。鈴木は6月30日の任期満了とともに退任する意志を固めた。後任選びで、鈴村正弘教育長を推す内田と大郷恒夫総務部長を推す議会各派のあいだで意見が対立したが、内田の後援会幹部の根回しにより7月1日、大郷が助役に就任した。内田は対抗策として7月22日に臨時議会を開き、機構改革を断行。理財部を新設してここに財政部門を集中させ、次いで規制を改正して助役から予算の査定権を奪い去った。また、大郷ははっきりものを言う性格から次第に内田に疎まれ、1期4年で助役を退任した。市役所4階の市長室は〝開かずの間〟と呼ばれ、落城の日まで内田は特定のブレーンを作らなかった。滅多に人を近づけなかったと言われている。 そればかりでなく、当選間もなくから汚職に手を染めた。1971年9月16日、内田は「指名競争入札の公正を期すため」と称して、「岡崎市入札参加者審査委員会」を設けた。委員会は助役を委員長とし、関係部課長ら16人で構成されていたが、内田は「指名業者のリストの原案は委員会に諮る前に見せろ」と職員に指示。内田は意のままに業者を選び、委員会はたちまち土建業者からワイロを搾り取る手段と化した。 1972年6月、竜美ヶ丘土地区画整理組合が整備を進める丘陵地帯の一角に「内田御殿」と呼ばれた巨大邸宅が建てられた。内田は同組合理事長の所有する大西町字広表(現・竜美旭町)の土地を借り、市内八帖北町のK建設に敷地約805平方メートル、延床面積約314平方メートルの木造2階建てかわらぶき住宅を施工させた。材料の木材は唐沢町のS工業が供出した。ところが当時の価格で7,000万円前後と言われた工費は一切支払われずに終わった。1977年から1979年にかけて行われた改修工事はいずれもS工業が請け負ったが、このときも代金計600万円は支払われなかった。内田は議会の追及をかわすため、関係業者を集めて帳簿を偽造し、建物の名義人を妻の父親に変えた。K建設の社長はのちに贈賄容疑で逮捕、S工業の社長も書類送検される(後述)。 1975年4月の市長選に、自民党・民社党・岡崎地区同盟の推薦と社会党・公明党・岡崎地区労協の支持を得て立候補。日本共産党推薦の新人らを破り再選。 岡崎は1955年を最後に、地元選出の保守系の代議士を持たなかった。内田の残された夢は国政に打って出ることだった。1976年12月、衆議院は解散が行われないまま任期満了により総選挙を迎えた。前回(1972年)の落選から再起をはかる中野四郎は、禅譲をにおわせ内田に接近した。系列としては依然として浦野幸男派(宏池会)に属していたが、内田はこれを期に中野派(福田派)に移る。中野は岡崎で1万3千票を増やし、トップで返り咲いた。 1977年1月16日朝、浦野幸男が心不全のため急死。同日夜、内田は側近の市議と浅井正三市議の自宅に集まり、浦野の後継者問題について密議を行った。1月20日、浦野後援会による臨時葬儀が豊田勤労福祉会館、岡崎市の六所神社、安城市民会館の三会場で開かれる。浦野後援会員でもあった浅井正三は六所神社で「後継者選びのときは、岡崎にも声をかけてほしい」と申し入れるが、娘婿の浦野烋興擁立を図っていた陣営は「喪が明けるまではその話はしないでほしい」と首尾良くかわした。3月2日、浦野派の服部貞弘市議と、猿投青年団で浦野幸男と活動した間柄の太田進市議の二人は豊田に出向き、豊田市議会の正副議長らと面会。服部と太田は「岡崎は全員一致で内田に決定した」と告げた。しかし時すでに遅く、同日夜、「浦野幸男後継者問題懇談会」の世話人会は浦野烋興の自宅を訪れ、正式に後継受託を要請した。3月14日、浦野幸男後援会の総会で烋興推挙の決議が可決される。内田らの計画は頓挫するが、党岡崎支部は6月初め、次期衆院選に内田を擁立することを改めて決議した。 同年、愛知新聞社と東海新聞社は合併し、東海愛知新聞社が設立された。1月19日に設立株主総会および取締役会が開かれ、同社の代表取締役社長に就任した。 1978年11月4日、5日の2日間、第1回岡崎まつりが盛大に開催される。この岡崎まつりに関し、前述の太田進が委員会で内田に質問すると、内田は市長室に呼び出し「共産党のいる委員会で何たる発言か」と叱責した。太田市議(井田町在住)の後援会長は、同時に井田学区の内田の後援会長を兼ねていた。内田は後援会長に、太田の選挙活動は手を抜けと指示。また、太田への市の施設の使用許可が滞るよう工作した。その結果、1979年4月22日に行われた市議選で太田進は候補者49人中47位で落選。内田が手を回していたことを太田はこのとき初めて悟るが、後の祭りだった。議長も務めた自民クラブの重鎮の落選は、他の市議たちを震え上がらせた。 1979年、市議選と同日執行の市長選で無投票により3選。「物言えば唇寒し」の空気はますます岡崎の市政を覆うようになった。自民クラブの市議は内田を「上司」と呼び始めた。同年6月、愛知県市長会長、東海市長会副会長に就任。 内田は職員の不正採用にも手を染めていた。市議、安城市議、幸田町議、旧幡豆町議、旧愛知4区選出の衆議院議員、岡崎地区労幹部、岡崎地区同盟幹部、市内管工事会社社長など有力者の子息子女を採用し続け、ときにはワイロも要求した。要求額は「カローラ1台分」とも言われ、内田は同年3月の市議会定例会で追及を受けるが、大きな問題とはならなかった。試験委員経験者はのちに「採用者のうち実力組は3分の1ほど」と証言している。 同年8月10日、日本社会党の太田一夫が高血圧悪化を理由に次期衆院選への立候補辞退を党愛知県本部に伝える。9月7日、衆議院解散。岡崎市は地元選出の国会議員を保革ともに失った。中野四郎は、中野後援会岡崎地区連合会長の元市議の柴田信市を遣わし、内田の衆議院転身を断念させ、さらには内田を自身の選対委員長に引き入れた。しかし選挙事務所の雰囲気は低調で、駆けつけた岡崎市議17人の動きも鈍かった。これを「内田の細工」と直感した中野は幹部に非常招集をかけ「岡崎は数に入れずに、15万票取れ」と命じ、「もう内田など来てもらわなくていい」と言い放った。衆院選は10月7日に行われ、中野は11回目の当選を果たす。
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