第1次巨人監督時代とは? わかりやすく解説

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第1次巨人監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:57 UTC 版)

長嶋茂雄」の記事における「第1次巨人監督時代」の解説

1974年11月20日日米野球全日程を終了後川上監督退任表明。翌21日巨人後楽園球場にて記者会見し、川上監督退任し長嶋が新監督就任する正式に発表した長嶋はこの席で「クリーン・ベースボール」を標榜した。前監督川上築き上げた確率野球(自らの失策減らし相手失策誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て投・打力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチーム再編。そのためヘッドコーチ関根潤三投手コーチ宮田征典守備・走塁コーチ補佐黒江透修バッテリーコーチ淡河弘などをそれぞれ招聘した(黒江淡河現役引退後からの残留)。川上作戦コーチ牧野茂投手コーチ藤田元司残留要請し森昌彦コーチでの残留堀内恒夫トレードでの放出アドバイスしたが、長嶋川上時代コーチ陣一掃し川上アドバイスをすべて蹴っている。長嶋犬猿の仲であった黒江によると長嶋は「川上さんみたいな暑苦しい野球はしたくない」と言ったという。新背番号は「90」。新背番号考えていた長嶋当時小学生息子一茂相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順3番背番号3・三塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司付けていたため)。 長嶋現役最終年時点で、引退後に即監督就任考えておらず、現役2・3年続行したい思いがあったという。また、引退後数年バックネット裏から野球研究したり、コーチ経験したりしてからの監督就任考えていたが、チーム事情から引退後に即監督就任運びとなった球団としては戦後初の非日系外国人選手 であるデーブ・ジョンソン獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンメジャーリーグ情報長嶋伝えパイプとしての役割もあり、度々長嶋家メジャー試合録画したものを持ち寄り長嶋一家とともに鑑賞していた。この場に立ち会っていた息子一茂メジャー憧れ野球リトルリーグ)や、独学ウエイトトレーニング始めた1975年シーズンは、球団創設以来初の最下位終わった当時巨人選手だった柴田勲は、「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力落ちたのもあるが、コーチ陣一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」、「コーチ陣上手くいっているように見えなかった」と述べている。この時、長嶋自身野球人生は「波乱万丈」だと思ったという。 そのため1975年オフには「クリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジ行った日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲高橋一三富田勝との交換獲得。さらにトレード太平洋クラブ・ライオンズから先発抑えもできる加藤初獲得した(このとき東尾修トレード候補だった)外野名手である高田繁内野三塁手に、当時としては異例コンバートをし、ジョンソンを本来の二塁手移動するなど、チーム強化着手したコーチ陣前年から一軍コーチ留任したのは黒江のみで打撃コーチには二軍監督だった国松彰就任した投手コーチ就任した杉下茂鈴木龍二セ・リーグ会長からの要請就任したヘッドコーチには極秘長嶋とは同学年である南海選手兼任監督野村克也接触し巨人当時球団常務だったロイ佐伯広報担当の張江五が交渉し選手兼任ヘッドコーチというオファー打診当時チーム内の派閥抗争巻き込まれ孤立していた野村快諾した。ところが肝心長嶋が首を縦に振らなかった為、“巨人野村克也”は幻に終わり野村選手兼任監督南海残留した。 翌1976年には最下位から一転リーグ優勝果たした日本シリーズ阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた1977年シーズン中にヤクルトから倉田誠との交換当時巨人キラーと言われていた浅野啓司獲得するなどし、2位15ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす(V2)。日本シリーズは1勝4敗で2年連続阪急敗れたオフには大洋ホエールズからジョン・シピン獲得し正二塁手とした。 1978年シーズン当初から低迷続き8月後半、一旦は首位に立つものの力尽き結局、2ゲーム差OB広岡達朗率いヤクルト優勝した同年オフ江川事件起きており、江川卓との交換トレードで、エース小林繁阪神移籍1979年は5位に終わったこの年オフ退団した張本は、低迷の要因新聞記者問われ、「言いたいことはたくさんあるこれだけ断言できるチーム間違えた方向向かっている」と答えている。これについて著書で、「立つ鳥跡を濁さず別れた女の悪口など言わないつもりでいたが、コーチ陣保身目立った長嶋監督助けようとはせず、多くコーチフロントゴマをすって、地位守ろうとしていた。巨人コーチなら給料も高いし、マスコミにも多く取り上げられておいしい思いもできる。長嶋監督ナンバー2を置かなかったから、コーチ陣一つまとめ上げる人もいなかった。私が巨人ユニフォーム着た最後の年は5位に沈み長嶋監督の次は王だろう。王にすり寄る連中出てきた。私が間違った方向と言ったのは、そういったチーム内の雰囲気のことだった」と記している。 長嶋V9時代知らない若手選手を「シンデレラ・ボーイ」と呼び伊東スタジアム秋季キャンプ集結させた。これは後に地獄の伊東キャンプ呼ばれるようになった江川西本聖角三男藤城和明鹿取義隆赤嶺賢勇山倉和博笠間雄二中畑清淡口憲治篠塚利夫松本匡史平田薫山本功児中司得三河埜和正中井康之二宮至18人が参加キャンプ中に行われた練習試合若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初1976年オフ再来とも言われたが、このキャンプ若手結束力高まり、後に藤田元司時代主力選手となる。 張本ロッテオリオンズ放出されニューヨーク・ヤンキースプレーしたロイ・ホワイト獲得したホワイト張本代わり1980年シーズン中には40歳迎える王とともに打線中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋理解者であり、伊東キャンプでも臨時コーチ務めた青田昇ヘッドコーチ招請するなど、チーム再建企図した。しかし青田週刊誌インタビューで、暴力団自身交際認めるような発言したため問題となった青田舌禍事件)。この責任取り青田シーズン前辞任する野球マスコミファンの間では、栄光V9時代懐かしみ、前監督川上哲治待望論が徐々に出るようになっていった。実際に川上派と呼ばれる巨人OB長嶋チーム作り干渉前述1976年オフ柴田トレード失敗など)するようになり、また、1976年オフ山ごもりパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチ抜擢した淡河弘原辰徳ドラフト騒動時に失い(原の家に長嶋密書持っていったという理由解任された)、1979年オフには前述騒動青田昇失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロント11人のコーチ福田昌久須藤豊関根宮田淡河中村稔瀧安治黒江国松・町田行彦・鈴木章介)を解任にした。黒江1978年退任しているが長嶋から「片腕としてよくやってくれたけど、球団考えなんだ。申し訳ない辞めてくれ」と言われ黒江涙ながらに長嶋に「片腕黒江を切るなら私も辞めますと、なぜ言ってくれなかったのですか」と言ったという。 長嶋批判渦巻く中、1980年8月当の川上が、青田昇牧野茂藤田元司国松彰らを集めて週刊文春座談会開き取材担当瀧安治オフレコにする条件として長嶋後継監督について色々と話し合った。ところが数日後にその記事掲載され長嶋降ろしの波は避けられないものとなった最終的に球団オーナーである正力亨ではなく読売新聞社社長務臺光雄が、1980年シーズン終了前に長嶋監督解任決断した球団Aクラス確保すれば続投公言していたもの一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった川上派の批判晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作結果とみなし、長嶋川上への悪感情決定的なものになった川上OB会会長になった後はOB会への欠席続け1990年に、OB会から今年出席しない除籍という勧告受けてしぶしぶ出席したのをきっかけ川上と「和解」した。 長嶋辞任という名の事実上解任」後、正力からフロントへの入閣進められたが、フロント性に合わない拒否して退団届を提出し個人事務所「オフィスエヌ」を設立し浪人時代始める。 後継監督には藤田元司就いたが、藤田前述座談会参加しており、また同座談会で川上後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシング対象とされ、1981年日本一になった際にもそれは続いた1980年オフ西武監督根本陸夫から「西武監督やってくれないか」と声をかけられた。

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第1次巨人監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:18 UTC 版)

原辰徳」の記事における「第1次巨人監督時代」の解説

2001年シーズンオフ10月11日勇退し長嶋後任として巨人監督に正式就任巨人では初めて、戦後かつ1950年代生まれ監督となった背番号80長嶋の3を足した831年目シーズンとなった2002年キャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。当時オーナーだった渡邉恒雄打診して現役時代から親交があり、アメリカコーチ留学していた鹿取義隆ヘッドコーチとして招聘した。 2002年は、引退考えていた桑田真澄先発復帰故障一軍から離脱していた河原純一抑え転向清水隆行の1番起用など大胆な選手起用行い就任1年目にしてリーグ優勝導いた日本シリーズでは西武ライオンズ相手球団史上初でシリーズとして1990年西武以来12年ぶりとなる無傷ストレート4連勝で、「監督初年度での日本一」を達成したこの年松井秀喜清水以外の選手故障多かったものの、支配下選手70名中66名を一軍適材適所使い分け二軍好調だった選手昇格後即スタメン起用したり、積極的にエンドラン盗塁用い用兵結果残した6月19日の対横浜戦の11回表無死一塁で、打者投手左打者岡島秀樹相手投手が左投げ河原隆一場面ベンチ控え野手清原和博村田善則鈴木尚広残っている状況で、投手である桑田代打指名した横浜投手を右投げ東和政交代させ、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田初球バスターエンドランし、試合勝利した。 しかし翌2003年は、前年まで不動4番だった松井秀喜FA権を行使MLB移籍したことや、相次ぐ主力選手怪我による戦線離脱前年好調だった投手陣一転して不調に陥ったこと(チーム防御率は3.04から4.43に低迷)、更には阪神快進撃などもあり3位に終わる。当初は次シーズン指揮執ることが内定していたが、終盤中日抜かれ3位転落したことに加え球団代表三山秀昭との確執もあり、渡邉恒雄オーナー当時曰く読売グループ内の人異動”の名目同年9月26日監督辞任することを表明し特別顧問転任した

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