第1次山本監督時代
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「広島東洋カープ」の記事における「第1次山本監督時代」の解説
1989年 開幕からはレッズ風の新ユニフォームに変更。新外国人のロッド・アレン、ウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成した。津田が最優秀救援投手に輝いたが優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。高橋慶彦は2対3のトレードでロッテへ移籍。 1990年 野村謙二郎が1番・遊撃手に定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング、高沢秀昭が振るわず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。新人の佐々岡真司は13連続セーブポイントの新記録樹立などフル回転した。 1991年 この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る(この年の11月津田は現役引退)。津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引(けんいん)。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤智の11本)の中、勝負強い西田真二や山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退した。チームはこの年以降、2016年まで優勝から遠ざかることとなった。 1992年 この年はヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、達川光男が引退した。 1993年 7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳で死去した。江藤智が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。前半戦は4月11勝4敗と好スタートしたが5月に8勝15敗となったが不調の投手陣を打撃陣がカバーして6月7月と何とか5割前後を保っていたが、打撃陣に故障者が続出した後半戦は9月には25年ぶりの12連敗を喫するなど5勝19敗で急失速し10月も6勝13敗、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には三村敏之が就任し、チーフ兼打撃コーチに山本一義を招聘した。
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