第1次山本監督時代とは? わかりやすく解説

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第1次山本監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:46 UTC 版)

広島東洋カープ」の記事における「第1次山本監督時代」の解説

1989年 開幕からはレッズ風の新ユニフォーム変更新外国人ロッド・アレンウェイド・ロードン加入アレン故障離脱するロードン小早川西田真二もしくは長内孝クリーンナップ形成した津田最優秀救援投手輝いた優勝した巨人と9ゲーム差2位に終わる。高橋慶彦は2対3トレードロッテ移籍1990年 野村謙二郎が1番・遊撃手定着し盗塁王に輝く。2年目アレン好調新加入のマイク・ヤング高沢秀昭振るわず開幕直後から巨人独走許し結果的に優勝した巨人22ゲーム差離され2年連続2位終わった新人佐々岡真司13連続セーブポイント新記録樹立などフル回転した。 1991年 この年リリーフ強化のために山本監督津田大野のダブルストッパー構想打ち出した。しかし、4月津田戦線離脱し闘病生活に入る(この年11月津田現役引退)。津田穴を埋めるべく大野一人抑えとしてリリーフ支える。野手陣では野村謙二郎が高打率盗塁王獲得してチーム牽引けんいん)。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番不在チーム最多本塁打規定打席達していない江藤智11本)の中、勝負強い西田真二山崎隆造などが少なチャンスの中奮闘した優勝決めた試合初回西田タイムリー1点を9回まで守りきった)。2年目前田智徳レギュラー定着江藤三塁手として出場し長打力片鱗覗かせた投手陣2年目佐々岡MVP最多勝最優秀防御率沢村賞川口和久最多奪三振北別府最高勝率となった大野最優秀救援投手獲得するなど投手力とする守り野球リーグ優勝投打にわたりチームのほとんどの選手一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会広島市民球場グラウンドファン観客席にいる中で行われた日本シリーズでは西武対戦し川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退したチームこの年以降2016年まで優勝から遠ざかることとなった1992年 この年ヤクルト最終成績最下位中日が9ゲーム差例年見ぬ大混戦で、優勝争いヤクルト巨人・阪神との四つ巴となった優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位となったため、1982年以来10年ぶりのBクラス沈んだ北別府200勝を達成達川光男引退した1993年 7月20日津田脳腫瘍のため32歳で死去した江藤智が初の本塁打王獲得するも、前年97試合本塁守っていた達川引退による捕手急な若返り影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊前半戦4月11勝4敗と好スタートした5月に8勝15となった不調投手陣打撃陣がカバーして6月7月と何とか5割前後を保っていたが、打撃陣に故障者が続出した後半戦9月には25年ぶりの12連敗喫するなど5勝19敗で急失速し10月も6勝13敗、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位転落山本監督責任取って辞任した山崎引退山本後任監督には三村敏之就任しチーフ打撃コーチ山本一義招聘した。

※この「第1次山本監督時代」の解説は、「広島東洋カープ」の解説の一部です。
「第1次山本監督時代」を含む「広島東洋カープ」の記事については、「広島東洋カープ」の概要を参照ください。

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