第1次巨人監督退任以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:57 UTC 版)
浪人時代は野球のみならずスポーツ全般の伝道者的役割、「スポーツ外交官」的役割を演じた。特に浪人1年目、1981年は、2月キューバ文化視察、同月(設立前の)韓国野球委員会での講演、同年6月中国棒塁協会での野球指導、同年10月ワールドシリーズ観戦などと世界中を駆け巡った。 この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組にも出演。独特のキャラクターが受け、「面白いオジサン」のイメージが定着。翌1982年1月に報知新聞社の客員評論家に就任するとともに、日本テレビ放送網系でもプロ野球中継の解説者として年数試合担当していた。1988年には一茂がヤクルトに入団した。 この間、他球団から相次いで監督就任の打診があったが、巨人への思いからそれらを全て断った。長嶋によると大洋・日本ハム・ヤクルトから監督就任の要請があったという。中でも大洋が長嶋の監督就任に最も積極的に動いていたが、最終的には「もう少し勉強していたい」という理由で断った。西武からも監督要請を受けるが即断り、3番目の候補だった広岡達朗が監督に就任した。一茂が在籍していたヤクルトから1989年オフに関根潤三の後任として監督要請を受けるが、家族の反対もあり辞退、野村克也が就任した。1990年オフにはオリックス・ブレーブスから監督の要請を受けるが断り、神戸出身で長嶋の大学・巨人の後輩土井正三を推薦し土井が監督に就任した。
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