舌禍
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関連項目
舌禍事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:04 UTC 版)
2006年9月24日の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)では、5年連続2桁勝利と6年連続規定投球回到達の記録がかかっていたが、立ち上がりから投球が安定せず、4対1(日本ハムの3点リード)で迎えた5回裏に2死満塁のピンチを迎えると、トレイ・ヒルマン監督に交代を命じられた(試合は最終的に8対4で敗戦)。この後のレギュラーシーズン中の登板予定がなかったため、シーズン成績9勝6敗、投球回数134回2/3(規定に1回1/3不足)が確定し、記録が共に途切れることとなってしまった。 試合後、金村は降板させられたことについて「外国人の監督は個人の記録なんてどうでもいいんじゃない。絶対に許さない」「(首脳陣の)顔も見たくない」と発言し、ヒルマンの采配を激しく批判。球団は出場選手登録抹消に加え、(翌25日に行われた)チーム練習への参加も禁止。さらに25日には「罰金200万円」と「プレーオフ終了までの出場停止」という厳しい処分を下した。なお、ヒルマン本人は試合後の記者会見で、金村の発言内容については言及せず、「金村の記録は当然知っていた。勝ちをつけてあげたかった」「すべて私が決断したこと。私が責任を取ること」とコメントした。 一方、金村も冷静になって事の重大さに気付き、チームOBの岩本勉に泣きながら電話をかけている。また同日の夜、日本ハム時代の先輩だった片岡篤史・下柳剛(当時、ともに阪神に在籍)から呼び出され、直接「(俺たちは)お前にそんな事を教えたか!目を覚まさせてやる!」と厳しい叱責を受けたが、最後には「こういう経験がないと大きくなれない。いい勉強と思って前向いてやれ。成長するステップと思って頑張れ」と励ましの言葉をかけられた。金村はレギュラーシーズン終了後に選手・首脳陣などに謝罪し、事態は収拾された。ヒルマンも金村に対し「君の9勝がなければ、我々はこの位置にいられなかった」とし、謝罪を受けて「わだかまりはない。来るべき時の準備を進めてほしい」とエールを送り、決して金村を責めることはなかった。 日本シリーズでの復帰が決まり、10月25日の第4戦(札幌ドーム)に先発投手として登板、マウンドに向かう時にスタンドから歓声が起きた。そしてマウンドに上がると、1塁側、本塁側、3塁側、そして左翼席と5度頭を下げた。この試合では5回を5安打、2奪三振、2四球、82球で無失点に抑え勝ち投手となった。試合後のヒーローインタビューでは「全国のファンの皆様、この場をお借りして改めて謝罪したいと思います、本当にどうもすいませんでした」と深々と頭を下げ、インタビュー終了後にヒルマンと抱き合った。そして、チームも第5戦に勝利して44年ぶり日本一に貢献した。 しかし、翌年はチームはリーグ連覇したが、金村は夏場の不調でわずか5勝にとどまり日本シリーズでも登板できず、ヒルマンの監督辞任と同時に阪神へ放出された。
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舌禍事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:06 UTC 版)
1920年(大正9年)12月24日、いはらき新聞社の主催で『国民道徳と個人道徳』と題し講演を行った。講演内容は速記録ではなく文責在記者としていはらき新聞に連載された。講演は翌1921年(大正10年)1月にも水戸の名士会でも行っている。 1921年(大正10年)1月5日、茨城神道団が講演内容を不謹慎であるとして、調査を決議、「舌禍事件」となる。中心は県内務部長守屋源次郎で、「舌禍事件禍事件なるものも守屋サイドからの難癖であり、菊池という敵対勢力をつぶそうという政治的暴力であったといえよう」という見方もある。守屋は前年の県会議員改選における選挙干渉を行い、県内外で行った数々の自由教育に対する過度の抑圧・干渉については、後述のように文部省から批判されるに至る。 謙二郎は「生徒の自主独立の精神を養う」必要性を強調した。これは、従来の個人道徳が君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の実践などを説いていたのに対し、他者との関係をとりつくろうのではなく、自分の意志に基づく個人道徳として、自主、自立、自発などの諸徳の必要性を説いたのである。この考えにもとづき、水戸中学では1920年(大正9年)に定期試験の廃止や成績の付け方の変更するなどの改革を行ったしかし、1920年(大正9年)いはらき新聞社の招きによる講演『国民道徳と個人道徳』で上記の考えを発表すると、茨城神道団が講演の主旨が不謹慎であるとして調査に乗り出した。その理由として「神祇崇敬、祖先崇拝、家族組織、忠孝両道の所徳」をことごとく非難し、「教育勅語の趣旨」を根底より排斥したも同然であるというものであり、そのビラが市内各地にまかれた。さらに、茨城県選出の小久保喜七ら政友会の代議士10名と県内務部長の守屋源次郎は、力石雄一郎茨城県知事をはじめ、文相、内相、法相といった政府中央にも校長の処分を要請した。このため知事は文部省や内務省に詰問され、知事から謙二郎に対し7か条の質問を行うに至った。謙二郎はその答弁書を書いたところ、力石知事も守屋内務部長も反論・非難するところ無しと回答した。(しかし、後に生徒委員が謙二郎の校長復職を求めた際には、「講演の正否は人々の見解によって異なるが、大義名分に関して問題は極めて重大」として、復職は出来ないと回答している。)その流れを受け、謙二郎は辞表提出を見合わせたい旨内務部長に電話すると、困ったと連発するのみであったため、その「官吏の境遇」に同情して辞表を提出した。しかし、その後も話は二転三転し、結局1921年(大正10年)依願免職。 2月5日、衆議院予算委員会で取り上げられ、茨城県当局は文部省から厳重な照会を受け、内務省警保局長から厳しく問い質された。県は謙二郎の辞職を希望するが、処分理由がなく忠三郎を通じて辞職を勧めた。8日、謙二郎が県当局に同情し、知事に辞表を提出、9日、依願免職発令。 2月11日、生徒は紀元節の式典の日に校長が出校しなかったため校庭に集合、同盟休校を決議したとされる。翌日は午後から講堂で謙二郎の告別式があり、謙二郎が生徒との訣別への衷情を告げ壇上で泣き伏すと生徒も慟哭した。生徒は謙二郎の進退に関し、同盟休校とデモを行うまでの、絶大な支持を示し、13日には生徒が復職要求のビラを市内で散布、生徒代表による知事への請願も拒否されると、同盟休校に突入した。生徒、保護者との話合いも重ね、21日謙二郎が自宅前で行った演説に生徒が応じ休校は終了した。 4月25日、謙二郎は一連の経緯について『危険視せられし道徳論と辞職顛末』を著し、逐一論拠を提示し反論・説明した。同書には謙二郎側に立った中村是公による貴族院での質問も収録されている。住所は水戸市上市梅香582番地である。 地元では謙二郎と生徒の支持者も多く、茨城女子短期大学では、水戸の歌人、小松原暁子が『水戸中学の盟休』として詠んだ三首を記している。 1922年(大正11年)3月5日、「水戸においてなお畏敬の対象とされた」謙二郎を会長とする水戸市教育会が自由教育講演会を主催、知事となった守屋の下、自由の一切を認めないとする茨城県当局は教員の聴講を禁止する等の抑圧を行った。教育会の調査活動等の結果、文部省では、勅任参事官が自由教育を適当な教育方法であり、自由教育に対する茨城県当局の解釈を遺憾であり、守屋の名前をあげ、聴講禁止は甚だ無用な心配とし、前勅任参事官も同様に茨城県当局を批判した。
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舌禍事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 07:18 UTC 版)
建設大臣在任中の1975年10月12日、自民党青森県連のパーティーで「私はここでは国会答弁のようないい加減なことは言わない」と舌禍事件を起こし、野党から反発を招き、国会が空転した。10月17日に仮谷は国会で遺憾の意を表明し、国会は正常化した。 この事件では仮谷が一方的に批判されることが多いが、一方で野党には舌禍事件まで仮谷の「国会答弁におけるいい加減さ」を見抜けなかったという批判がある。
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