牛痘苗の輸入
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1823年に長崎出島にやって来たオランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、直後にオランダ領東インド(現在のインドネシア)のバタヴィアから持参した牛痘苗を用いて種痘を行ったが、成功しなかった。彼は翌年には鳴滝塾を開き、日本中から集まる医師たちに西洋医学を教授する。1826年の江戸参府の際には、再度輸入した痘苗を用いて種痘術を実演し、種痘の知識や具体的な手順を伝えたが、この際も痘苗が活着することはなかった。 天保9年(1838年)から天保13年(1842年)にかけて紀伊国(和歌山県)熊野地方で天然痘が猛威を振るった。これを目の当たりにした紀州出身の京の医者小山肆成は、家宝の刀などの家財を売り払って実験用の牛を購入し、妻を実験台にして牛痘による種痘法の研究に没頭した。小山は弘化4年(1847年)に牛痘法の書『引痘略』を、さらに『引痘新法全書』を著した。 福井藩(福井県)の町医者笠原良策は、その前年の弘化3年(1846年)、藩に対し牛痘苗を海外から入手する請願書を出したが、不採用となっていた。嘉永元年(1848年)12月に再度請願書を出し、書中にて従来のようなオランダ船経由では痘苗が活着しないため、清国からの取寄せを進言した。藩主松平春嶽はこれを受け入れ幕府に請願した。老中阿部正弘は長崎奉行大屋明啓にこれを伝達した。 長崎奉行の大屋からからオランダ商館に要望が伝達され[要出典]、嘉永元年のオランダ商館医オットー・モーニッケの来日赴任の際にモーニッケが牛痘を持参したが、これは上手くいかず、翌年に再度バタヴィアから取り寄せた。 一方、シーボルトの門人で鳴滝塾に学び、当時佐賀藩医であった伊東玄朴も痘苗の入手を藩に進言した。佐賀藩もまた出島のオランダ商館にこれを依頼していた。佐賀藩では1846年、藩医の牧春堂が上記の同名の『引痘新法全書』で牛痘の効果を説いていた。 嘉永2年(1849年)6月、バタヴィアから長崎に再度もたらされた牛痘苗を用いて、モーニッケによって佐賀藩医の楢林宗建やオランダ通詞らの息子たち計3人に種痘が施され、その一人が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、6か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播した。京都の日野鼎哉と桐山元中から依頼を受けていた長崎の唐通詞頴川四郎八は、自分の孫に種痘を施した。そこから得られた痘痂8粒を瓶に納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、同月16日に日野の手に届いた。これを日野は自分の孫に試すが上手く行かず、最後の一粒を桐山の息子に接種したところ、これは上手く行った[要出典]。これを元に同年10月、笠原良策と日野鼎哉が京都に「除痘館」を開設した。京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月初めに京都を訪ねるが、前出の経緯により痘苗は「福井藩の所有物」であったため、医師個人の権限での安易なやり取りには問題があったが、日野や笠原らと緒方は話し合い、当時は人から人へ移し続けることでしか保存できなかった痘苗を途絶えさせないためにも、なるべく多くの場所で運営保存することによりこれを相互のバックアップとする、という大義名分を考え出した[要出典]。これにより笠原・日野・緒方は6日に大坂に赴き、翌日の7日に「除痘館」を開設した。 佐賀藩では、8月には藩医楢林宗建が痘母となる子供をつれて佐賀に到着し、藩医の子らに接種した。佐賀藩は幕府から長崎警備を命じられていて西洋の情報収集や西洋医学の習得に熱心で、楢林宗建も長崎詰であった。伊藤玄朴の進言を受けた藩主鍋島直正は宗建に牛痘苗の入手を命じて実現すると、子の淳一郎(後の鍋島直大)にも接種させた。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられて医師11人が配され、医師の出張・宿泊費を藩が支給して無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に種痘医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸の伊東玄朴に送られた痘苗から、関東・東北地方の各地に広がることになる。 笠原良策は京都での種痘活動、大阪の「除痘館」の開設に関わったのち、福井藩への輸送を試みる。当時の種痘は子供から子供に7日目毎に植え継ぐ方法しかなかった。同年11月下旬、笠原らは子供とその親の総勢十数名を引き連れて京を出立し、雪深い栃ノ木峠をかき分け越え、福井藩のある越前国へ痘苗を持ち帰った。笠原は福井城下自宅の隣家にて帰国した当日から種痘を開始し、接種と鑑定方法を熟知することを条件に、越前国内の府中、鯖江、大野、敦賀のほか隣国加賀藩(石川県・富山県)の大聖寺、金沢、富山などへと分苗していった。その後、福井藩は嘉永4年(1851年)10月、70名を超える藩医・町医を組織した「除痘館」を開設した。 富山藩では、1840年代後半、前藩主である前田利保が種痘を聞くに及び、藩医の横地元丈を江戸に派遣、情報収集と種痘技術の習得を行わせた。1850年(嘉永3年)、富山に戻った横地元丈は自分の子供に接種した。翌年、藩内で天然痘が藩内で猛威を振るうと、前田利保自ら種痘の有効性を説き、普及に努めた。 江戸では嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい、または用例が未だ少ない蘭方医学に対する不信感を持つ漢方医(多紀元堅ら医学館の関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし種痘の需要は、下からの要望という形で増えていく。同年に医師の桑田立斎は『牛痘發蒙』という啓蒙書を出版している。立斎は江戸に牛痘苗が伝わるより前に、人痘法で種痘を行っていた桑田玄真の養子であり、坪井信道の門下生であった。 幕臣で世襲の伊豆韮山代官であった江川英龍は蘭学知識人として知られていた。嘉永3年(1850年)1月、伊東玄朴に依頼して息子江川英敏と娘卓子に種痘を施させた。この結果を良好とみた江川は、部下の医師肥田春安にさらに試行を行わせた上で、伊豆地域の自身の支配領内に『西洋種痘法の告諭』を発した。肥田と助手が村々を回り、領民に種痘を施していった。この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子供二人にも施したことに触れた上で、当時の民衆の間で流布していた、種痘に対する得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂などを打ち消そうとした。 同じく幕府直轄領であった蝦夷地でもアイヌの間に度々大規模な流行があり、1807年の流行の際にはアイヌ総人口の4割強が死亡した、とも伝わる。これを阻止するため、箱館奉行の村垣範正が安政4年(1857年)に幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請した。桑田立斎と深瀬洋春らが派遣され、国後場所にまで至る大規模かつ強制的な種痘が行われ、アイヌの人口の半数が種痘を受けたと伝わる。これが世界初の、ある地域を対象とした天然痘根絶のための強制・義務による一斉種痘施術とされる。当時の状況を描いた平沢屏山筆『種痘施行図』がある。 このように、幕府支配地域での種痘に対する要望が増したこと、すなわち幕府として種痘医の養成が急務となったこと、および江戸での急速な開化ムードも後押しし、安政5年(1858年)に蘭方(蘭学)解禁となった。江戸幕府第13代将軍・徳川家定の脚気による重態に際し、7月3日に漢方医の青木春岱と遠田澄庵と共に伊東玄朴や戸塚静海らの蘭方医が奥医師(幕府の医官)に登用された。同7日には玄朴の戦略的な進言により伊東寛斎と竹内玄同の増員に成功した。これにより蘭方内科奥医師は4名となり、さらに同年10月16日、時のコレラ流行を利用して松本良甫、吉田収庵、伊東玄圭らを公儀の蘭方医として採用させた。すなわち幕府(将軍)が自ら、蘭学・蘭方医学にお墨付きを与えた形となった。これら蘭学解禁の世相の中で伊東玄朴・戸塚・箕作らは川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、安政5年正月に種痘所開設の許可が下った。伊東玄朴、戸塚、桑田、箕作阮甫、林洞海、石井宗謙、大槻俊斎、杉田玄端・手塚良仙ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)にあった川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された(東京大学の前身)。この種痘所は後に幕府直轄の「西洋医学所」とされた。 上州舘林藩では長澤理玄が江戸に上り嘉永2年(1849年)に桑田立斎の弟子となり、嘉永4年(1851年)に種痘法を持ち帰ったが、藩主秋元志朝の命を受けてなお、藩の上下の者は皆、種痘を受けることを恐れた。理玄は普及を急き焦り、親の承諾も得ずに通りすがりの子供に施術するなどして益々反対派を増やしてしまった。翌年には藩飛び地の羽州(山形県)漆山へ赴き、同地でも種痘施術を行った。元々、秋元家は山形藩から舘林に移されたばかりであり、山形では医師であった理玄の父の名声も高かったことから、種痘は普及した。また舘林では家老の岡谷瑳磨介が率先して自身の子供4人に受けさせた。この後、種痘に反対していた重臣の子供らは次々と天然痘に罹ったが、岡谷の子供らは大丈夫であった。確実な効果を目の当たりにしたこれ以降、他の藩士や領民も進んで種痘を受けるようになった。のち藩は岡谷の献策により、理玄を中心とした大規模な医療施設を設け、さらに舘林藩は藩内の幼児全てに種痘を受けさせることを義務化した。 こうして全国に広まっていくと同時に、もぐりのいい加減な施術を行う牛痘種痘法者が現れた。緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動に対し、大坂町奉行の戸田氏栄を通して幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。 当時は、牛痘に対して「打ったところから牛の頭が生える」「四つ足で歩くようになる」といった迷信も流行した。
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