牛痘苗の輸入とは? わかりやすく解説

牛痘苗の輸入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:18 UTC 版)

種痘」の記事における「牛痘苗の輸入」の解説

1823年長崎出島にやって来たオランダ商館医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、直後オランダ領東インド現在のインドネシア)のバタヴィアから持参した牛痘用いて種痘行ったが、成功しなかった。彼は翌年には鳴滝塾開き日本中から集まる医師たちに西洋医学教授する1826年江戸参府の際には、再度輸入した痘苗用いて種痘術を実演し種痘知識具体的な手順伝えたが、この際痘苗活着することはなかった。 天保9年1838年)から天保13年1842年)にかけて紀伊国和歌山県熊野地方天然痘猛威振るった。これを目の当たりにした紀州出身の京の医者小山肆成は、家宝の刀などの家財売り払って実験用の牛を購入し、妻を実験台にして牛痘による種痘法の研究没頭した小山弘化4年1847年)に牛痘法の書『引痘略』を、さらに『引痘新法全書』を著した福井藩福井県)の町医者笠原良策は、その前年弘化3年1846年)、藩に対し牛痘海外から入手する請願書出したが、不採用となっていた。嘉永元年1848年12月再度請願書出し書中にて従来のようなオランダ経由では痘苗活着しないため、清国からの取寄せ進言した。藩主松平春嶽はこれを受け入れ幕府請願した老中阿部正弘長崎奉行大屋明啓にこれを伝達した長崎奉行大屋からからオランダ商館要望伝達され[要出典]、嘉永元年オランダ商館オットー・モーニッケ来日赴任の際にモーニッケが牛痘持参したが、これは上手くいかず、翌年再度バタヴィアから取り寄せた一方シーボルト門人鳴滝塾学び当時佐賀藩であった伊東玄朴痘苗入手を藩に進言した。佐賀藩もまた出島オランダ商館にこれを依頼していた。佐賀藩では1846年藩医の牧春堂が上記同名の『引痘新法全書』で牛痘効果説いていた。 嘉永2年1849年6月バタヴィアから長崎再度もたらされ牛痘用いて、モーニッケによって佐賀藩医の楢林宗建オランダ通詞らの息子たち計3人に種痘施され、その一人善感した。この痘苗は、長崎佐賀起点として複数蘭方医たちを中心とするネットワークによって、6か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸福井へと伝播した。京都日野鼎哉桐山元中から依頼受けていた長崎の唐通詞頴川四郎八は、自分の孫に種痘施した。そこから得られた痘痂8粒を瓶に納めて9月6日京都日野に向け発送し同月16日日野の手届いた。これを日野自分の孫に試すが上手く行かず最後一粒桐山息子接種したところ、これは上手く行った[要出典]。これを元に同年10月笠原良策日野鼎哉京都に「除痘館」を開設した京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月初めに京都訪ねるが、前出経緯により痘苗は「福井藩所有物であったため、医師個人権限での安易なやり取りには問題があったが、日野笠原らと緒方話し合い当時は人から人へ移し続けることでしか保存できなかった痘苗途絶えさせないためにも、なるべく多くの場所で運営保存することによりこれを相互バックアップとする、という大義名分考え出した[要出典]。これにより笠原日野緒方6日大坂に赴き、翌日7日に「除痘館」を開設した佐賀藩では、8月には藩医楢林宗建が痘母となる子供をつれて佐賀到着し藩医の子らに接種した佐賀藩幕府から長崎警備命じられていて西洋情報収集西洋医学習得に熱心で、楢林宗建長崎であった伊藤進言受けた藩主鍋島直正は宗建に牛痘入手命じて実現すると、子の淳一郎(後の鍋島直大)にも接種させた。同時期に種痘事業担当する引痘方が設けられ医師11人が配され医師出張宿泊費を藩が支給して無料藩領接種開始された。並行して熟達した医師種痘医業発行する制度導入された。10月佐賀藩江戸藩邸伊東玄朴送られ痘苗から、関東東北地方各地広がることになる。 笠原良策京都での種痘活動大阪の「除痘館」の開設に関わったのち、福井藩への輸送試みる。当時種痘子供から子供7日目毎に植え継ぐ方法しかなかった。同年11月下旬笠原らは子供とその親の総勢十数名を引き連れて京を出立し雪深い栃ノ木峠をかき分け越え福井藩のある越前国痘苗持ち帰った笠原福井城自宅隣家にて帰国した当日から種痘開始し接種鑑定方法熟知することを条件に、越前国内の府中鯖江大野敦賀のほか隣国加賀藩石川県富山県)の大聖寺金沢富山などへと分ていったその後福井藩嘉永4年1851年10月70名を超える藩医町医組織した除痘館」を開設した富山藩では、1840年代後半、前藩主である前田利保種痘聞くに及び、藩医横地元丈を江戸派遣情報収集種痘技術習得を行わせた。1850年嘉永3年)、富山戻った横地元丈は自分の子供に接種した翌年、藩内で天然痘が藩内で猛威を振るうと、前田利保自ら種痘有効性説き普及努めた江戸で嘉永2年1849年3月に、既得権益守りたい、または用例未だ少な蘭方医学対す不信感を持つ漢方医多紀元堅医学館関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及遅れた。しかし種痘需要は、下からの要望という形で増えていく。同年医師桑田立斎は『牛痘發蒙』という啓蒙書を出版している。立斎は江戸牛痘が伝わるより前に人痘法種痘行っていた桑田真の養子であり、坪井信道門下生であった幕臣世襲伊豆韮山代官であった江川英龍蘭学知識人として知られていた。嘉永3年1850年1月伊東玄朴依頼して息子江川英敏と娘卓子種痘を施させた。この結果良好とみた江川は、部下医師肥田春安にさらに試行を行わせた上で伊豆地域自身支配領内に『西洋種痘法の告諭』を発した肥田助手々を回り領民種痘施していった。この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子二人にも施したことに触れた上で当時民衆の間で流布していた、種痘対す得体の知れないものへの恐怖迷信、噂などを打ち消そうとした。 同じく幕府直轄領であった蝦夷地でもアイヌの間に度々大規模な流行があり、1807年流行の際にはアイヌ総人口の4割強が死亡した、とも伝わる。これを阻止するため、箱館奉行村垣範正安政4年1857年)に幕府種痘出来医師派遣要請した桑田立斎深瀬洋春らが派遣され国後場所にまで至る大規模かつ強制的な種痘が行われ、アイヌ人口半数種痘受けたと伝わる。これが世界初の、ある地域対象とした天然痘根絶のための強制義務による一斉種痘施術とされる当時の状況描いた平沢屏山筆『種痘施行図』がある。 このように幕府支配地域での種痘対す要望増したこと、すなわち幕府として種痘医の養成急務となったこと、および江戸で急速な開化ムード後押しし安政5年1858年)に蘭方蘭学解禁となった江戸幕府第13代将軍徳川家定脚気による重態際し7月3日漢方医青木春岱と遠田澄庵と共に伊東玄朴戸塚静海らの蘭方医奥医師幕府医官)に登用された。同7日には玄戦略的な進言により伊東寛斎と竹内玄同増員成功した。これにより蘭方内科奥医師は4名となり、さらに同年10月16日時のコレラ流行利用して松本良甫吉田収庵、伊東玄圭らを公儀蘭方医として採用させた。すなわち幕府将軍)が自ら、蘭学蘭方医学お墨付き与えたとなった。これら蘭学解禁世相の中で伊東玄朴戸塚箕作らは川路聖謨通して幕閣働きかけ安政5年正月種痘所開設許可下った伊東玄朴戸塚桑田箕作阮甫林洞海石井宗謙大槻俊斎杉田玄端手塚良仙蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日神田松枝町現・東京都千代田区神田岩本町2丁目にあった川路聖謨神田於玉ヶ池屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された(東京大学前身)。この種痘所は後に幕府直轄の「西洋医学所」とされた。 上州林藩では長澤理玄江戸上り嘉永2年1849年)に桑田立斎弟子となり、嘉永4年1851年)に種痘法を持ち帰ったが、藩主秋元志朝の命を受けてなお、藩の上下の者は皆、種痘を受けることを恐れた。理玄は普及急き焦り、親の承諾得ず通りすがりの子供に施術するなどして益々反対派増やしてしまった。翌年には藩飛び地羽州山形県漆山へ赴き、同地でも種痘施術行った。元々、秋元家山形藩から舘移されたばかりであり、山形では医師であった理玄の父の名声も高かったことから、種痘普及した。また舘では家老岡谷瑳磨介が率先して自身の子供4人に受けさせた。この後種痘反対していた重臣の子供らは次々と天然痘罹ったが、岡谷の子供らは大丈であった確実な効果目の当たりにしたこれ以降、他の藩士領民進んで種痘を受けるようになった。のち藩は岡谷献策により、理玄を中心とした大規模な医療施設設け、さらに舘林藩は藩内の幼児全て種痘受けさせることを義務化した。 こうして全国広まっていくと同時に、もぐりのいい加減な施術を行う牛痘種痘法者が現れた。緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。安政5年4月24日1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動対し大坂町奉行戸田氏栄通して幕府からの公認が行われ、牛痘種痘免許制とされた。 当時は、牛痘に対して打ったころから牛の頭が生える」「四つ足で歩くようになる」といった迷信流行した

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