岡谷瑳磨介
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岡谷 瑳磨介(おかのや さまのすけ、1807年9月10日(文化4年7月29日) - 1865年5月20日(元治2年4月5日))は、江戸時代後期の武士(上野国館林藩士)。岡谷 勝益(おかのや かつます)とも[1]。家老として安政の藩政改革を推進したが、尊王攘夷派により失脚させられた。
生涯
出自と家老就任
1807年(文化4年)生まれ。上野国館林藩士[1]。1848年(嘉永元年)に家老に就任し、藩政改革に着手[2]。1856年(安政3年)には藩主・秋元志朝の命により安政の藩政改革を主導し、太陽寺典膳と共に改正係を務めた[2]。
断髪党事件と失脚
1863年(文久3年)、四国艦隊下関砲撃事件を機に、大久保鼎ら尊王攘夷派藩士(断髪党)から「保守的過ぎる」と批判され、辞職を強要される[3]。この事件には、藩内の改革反対派や尊王攘夷派との対立が背景にあった[2]。1865年(元治2年)、59歳で死去[1]。明治維新後の1924年(大正13年)に従五位追贈[4]。
親族
子孫には明治時代の実業家・南条新六郎(三男、第四十国立銀行(のちの第一銀行)頭取、日本製粉社長)や南条金雄(孫、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事)らがいる[5][6][7]。
関連文献
工藤三壽男・館林歴・文研究同好会著『岡谷瑳磨介ものがたり : 館林藩史話』(2000年)[8]
脚注
- ^ a b c “岡谷瑳磨介”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2024年7月12日閲覧。
- ^ a b c “館林藩の幕末(前編)”. 館林文化史談会. 2024年7月12日閲覧。
- ^ “大久保鼎”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2024年7月12日閲覧。
- ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.52-54
- ^ “南條新六郎”. 人事興信録 第4版. 日外アソシエーツ (1915年). 2024年7月12日閲覧。
- ^ “南條金雄”. 人事興信録 第4版. 日外アソシエーツ (1915年). 2024年7月12日閲覧。
- ^ “館林藩の幕末(後編)”. 館林文化史談会. 2024年7月12日閲覧。
- ^ “江戸期上州人物伝”. 群馬県立図書館. 2024年7月12日閲覧。
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