岡谷瑳磨介とは? わかりやすく解説

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岡谷瑳磨介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 01:03 UTC 版)

岡谷 瑳磨介(おかのや さまのすけ、1807年9月10日文化4年7月29日) - 1865年5月20日元治2年4月5日))は、江戸時代後期の武士上野国館林藩士)。岡谷 勝益(おかのや かつます)とも[1]家老として安政の藩政改革を推進したが、尊王攘夷派により失脚させられた。

生涯

出自と家老就任

1807年文化4年)生まれ。上野国館林藩[1]1848年嘉永元年)に家老に就任し、藩政改革に着手[2]1856年安政3年)には藩主秋元志朝の命により安政の藩政改革を主導し、太陽寺典膳と共に改正係を務めた[2]

断髪党事件と失脚

1863年文久3年)、四国艦隊下関砲撃事件を機に、大久保鼎ら尊王攘夷藩士(断髪党)から「保守的過ぎる」と批判され、辞職を強要される[3]。この事件には、藩内の改革反対派や尊王攘夷派との対立が背景にあった[2]1865年元治2年)、59歳で死去[1]明治維新後の1924年大正13年)に従五位追贈[4]

親族

子孫には明治時代の実業家・南条新六郎(三男、第四十国立銀行(のちの第一銀行)頭取、日本製粉社長)や南条金雄(孫、三井物産会長、三井合名筆頭常務理事)らがいる[5][6][7]

関連文献

工藤三壽男・館林歴・文研究同好会著『岡谷瑳磨介ものがたり : 館林藩史話』(2000年)[8]

脚注

  1. ^ a b c 岡谷瑳磨介”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2024年7月12日閲覧。
  2. ^ a b c 館林藩の幕末(前編)”. 館林文化史談会. 2024年7月12日閲覧。
  3. ^ 大久保鼎”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. 2024年7月12日閲覧。
  4. ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.52-54
  5. ^ 南條新六郎”. 人事興信録 第4版. 日外アソシエーツ (1915年). 2024年7月12日閲覧。
  6. ^ 南條金雄”. 人事興信録 第4版. 日外アソシエーツ (1915年). 2024年7月12日閲覧。
  7. ^ 館林藩の幕末(後編)”. 館林文化史談会. 2024年7月12日閲覧。
  8. ^ 江戸期上州人物伝”. 群馬県立図書館. 2024年7月12日閲覧。



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