修行・痘苗輸入の歎願
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 21:17 UTC 版)
15、6歳の頃から福井藩の医学所へ通い、妻木陸叟から本草学を学んだ。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)にかけて江戸に出て磯野公道(漢方)に入門し、その後福井城下木田中町で開業。天保7・8年(1836年-1837年)頃、山中温泉で評判を聞き蘭方医の大武了玄(藤林普山、小石元瑞に学んだ大聖寺藩町医)に入門。さらに天保11年には、京都の日野鼎哉に入門して翌年まで修行した。 その後福井藩主松平春嶽に清国からの牛痘苗の輸入を弘化3年(1846年)、嘉永元年(1848年)の2度にわたって上申し、同年12月には福井藩から老中阿部正弘への内願を実現させた。翌嘉永2年(1849年)1月、藩江戸留守居中村八太夫から赴任直前の長崎奉行大屋明啓に対して長崎での尽力を依頼し、3月にも再び願書を送ったが、大屋からは100日を超える航海のなかで痘苗は毎回変性して効験がなくなるため、願書は取りあげがたい旨返答があった。
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