修行僧として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:42 UTC 版)
「グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「修行僧として」の解説
1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤ(英語版)の修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフ(イタリア語版)に強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた。 1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ・ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは主教や上流階級の人々の注目を集める存在となった。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた。 その後、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校(英語版)のセルギウス1世(英語版)に寄付を求めた。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフ(英語版)に請われ、彼の宿舎に移り住む。 ロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤール(英語版)によると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポート(英語版)は1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある。
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