19世紀以前
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597年 - ローマから英国(イングランド)に派遣されたオーガスティンが、初代カンタベリー大司教(大主教)に着座。聖公会の起源の一つ。 1534年(天文3年)- 英国国教会(イングランド国教会)がローマ・カトリック教会から独立して成立。 1693年(元禄6年)- イングランド王ウィリアム3世と女王メアリー2世の勅許により、ウィリアム・アンド・メアリー大学がイングランド国教会の機関として創設。 1784年(天明4年)11月14日 - アメリカ独立に伴い、サミュエル・シーベリーがイギリス諸島以外で最初の聖公会主教となり、米国聖公会が成立。 1789年(寛政元年)- 米国聖公会がイングランド国教会から正式に分離され、イギリス諸島以外で最初のイングランド国教会となる。 1837年(天保8年)- ウィリアム・ブーンが米国聖公会から中国への遣清宣教師に任命され、ジャワ島のバタヴィアに到着。 1842年(天保13年)- ブーンが、廈門(アモイ)で中国伝道を開始。 1844年(天保15年)10月26日 - ブーンが中国諸地域管轄の主教(米国聖公会初代海外伝道主教)として選出される。 1850年(嘉永3年)- 立教大学創設者チャニング・ウィリアムズがウィリアム・アンド・メアリー大学に入学。 1852年(嘉永5年)- チャニング・ウィリアムズ、バージニア神学校に入学。 左:東インド艦隊司令長官 マシュー・ペリー 中央:ペリー艦隊通訳 サミュエル・ウィリアムズ 右:ペリー艦隊 サスケハナ号 1853年(嘉永6年)7月 - マシュー・ペリー(米国聖公会信徒)が浦賀に来航。サミュエル・ウィリアムズが主席通訳官として帯同。 秋 - 初代海外伝道主教のウィリアム・ブーンが母校のバージニア神学校を訪れ、チャニング・ウィリアムズは海外伝道を決意する。 1854年(嘉永7年)- 日米和親条約が調印。 1856年(安政3年)6月 - ジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズが米国聖公会宣教師として中国・上海に到着。 8月21日 - タウンゼント・ハリス(米国聖公会信徒)が初代米国総領事として下田に来航。 1858年(安政5年)7月29日 - 日米修好通商条約が調印。 9月10日 - 米国軍艦ポウハタン号付きの牧師ヘンリー・ウッドが来日し、長崎奉行の要請により英語学校を開設し、長崎通詞に2か月間英語教育を行う。活動にはタウンゼント・ハリスのサポートがあった。 9月20日 - 米国軍艦ミネソタ号が長崎に入港。エドワード・サイル(米国聖公会遣清宣教師)と、サミュエル・ウィリアムズが日本宣教の可能性を探る目的を持って来日。サイルはウッドの英語学校を見学。サイルが長崎奉行に英語学校の開設を提案。 9月30日 - サミュエル・ウィリアムズが、米国聖公会内外伝道協会外国委員会宛に、江戸か長崎で宣教師が英語を教え、長崎で学校を開設する有効性を伝える。 11月13日 - 米国総領事ハリスが、エドワード・サイル(米国聖公会遣清宣教師)宛の返書で神奈川で英語教育の学校開設を勧める。 1859年(安政6年)2月 - 米国聖公会は、日本が開国する状況下、米国聖公会内外伝道協会外国委員会で日本ミッション開設を決議。米国聖公会宣教師として1856年(安政3年)より中国・上海で活動するジョン・リギンズ、チャニング・ウィリアムズおよび医療宣教師の日本への派遣を決定。 5月2日 - リギンズが長崎に来日。米国聖公会日本ミッションの開設。立教大学の起源。(日本で最初のプロテスタントミッション) 6月末 - ウィリアムズが米国軍艦ジャーマンタウン号で長崎に来日。 11月 - グイド・フルベッキが長崎へ来日。崇福寺広徳院に居住するリギンズ、ウィリアムズに迎えられ同居。 長崎奉行からの要請もあり、リギンズは長崎通詞の教師として英語を教え、ウィリアムズも長崎洋学所などで英語を教える。 リギンズ、ウィリアムズ、フルベッキが何礼之に英語を教える。 1860年(万延元年)4月7日 - 英国聖公会のジョージ・スミス主教が長崎に来日。 7月 - ウィリアムズが出島からシーボルトに書簡を送る。 8月 - 米国聖公会宣教医H.E. シュミットが長崎に来日。診療所を開設し、医療活動および医学、英語教育を行う。近世日本の布教史における最初の宣教医。 1861年(文久元年)4月 - アメリカ南北戦争開戦。1865年4月の終戦までの間は、米国人は日本伝道への母国からの援助が途絶え、米国宣教師たちの一部は退職の余儀なきに到った。 7月 - ウィリアムズとシュミットは整備された東山手居留地に引っ越す。 ウィリアムズやフルベッキが暮らした崇福寺内に唐通事たちが拠金し、その子弟のために訳家学校が設置され、中国語と英語の学習教授が行われる。 1862年(文久2年)5月 - 高杉晋作がウィリアムズの元を訪ね、欧米事情を学ぶ。 大隈重信、前島密らにウィリアムズが英語や数学など英学を教える。 10月26日 - 長崎・山手居留地内(東山手11番地)に外国人のための英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)が完成。ウィリアムズが教会の初代チャプレンとなる。2代目チャプレンはフルベッキ。教会の管理人の一人をトーマス・グラバーが務める。 1863年(文久3年)- 荘村助右衛門がウィリアムズの元で学ぶ。 1864年(文久4年、元治元年)ウィリアムズの教え子の何礼之が、長崎の自邸で英語の私塾を開く。塾長は前島密。 9月 - 同じくウィリアムズの教え子の前島密が、何礼之の許可を得て、苦学生のために瓜生寅と私塾「倍社」をフルベッキが以前寓居していた崇福寺広福庵に開く。 1865年(元治2年)- 何礼之の私塾が、長崎奉行から支援を受けて塾舎を新設。準官立となり、塾生は百数十名を数えた。 1866年(慶応2年)ウィリアムズ、米国に帰国。 10月 - ウィリアムズ、米国聖公会第2代中国・日本伝道主教に任命される。 合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンと国務長官ウィリアム・スワードと面会。日本の禁教撤廃にむけて米政府に要請。 1867年(慶応3年)- ウィリアムズ、米国コロンビア大学より神学博士号を授与される。 1868年(慶応4年、明治元年)ウィリアムズは再び清に渡り、湖北省武昌に拠点を置き、伝道の旅を続ける。 ウィリアムズの親友であるフルベッキが長崎の佐賀藩英学校「致遠館」で英語を教え、教え子の大隈重信が教頭格として指導にあたる。 1869年(明治2年)7月 - ウィリアムズ、大阪に活動拠点を移す(日本と中国間を往来)。 1870年(明治3年)1月 - ウィリアムズが大阪・川口の外国人居留地近くの与力町に小礼拝堂を設置。 同年、ウィリアムズが大阪・川口の与力町に英語塾を開設(のちの大阪・英和学舎)。 12月 - ウィリアムズの熱心な呼びかけに応えて、ニュージャージー教区のアーサー・ラザフォード・モリス(Arthur Rutherford Morris)が日本へ派遣する宣教師に任命される。 1871年(明治4年)5月 - モリスが大阪に到着。 12月 - モリスが大阪・古川町に私塾と診療所のための家屋を入手し、ウィリアムズが与力町の英語塾を古川町(2丁目)に移転。 1872年(明治5年)2月21日 - ウィリアムズが大阪・古川町に私塾(男子校)を開設。 私塾は開設からわずか4ヵ月で大阪当局により閉鎖させられる。 12月3日 - ジェームズ H. クインビー(James Hamilton Quinby)がウィリアムズの要請によりC.D.B. ミラーと共に夫人を伴って大阪に着任。 1873年(明治6年)2月24日 - 政府がキリシタン禁制の高札撤去。 3月4日 - 閉鎖していた大阪・古川町の私塾を改称し、聖テモテ学校が開校(モリスが初代校長)。 11月 - ウィリアムズ、東京に活動拠点を移す。 クレメント・T・ブランシェ(Clement T. Blanchet)が日本へ派遣する宣教師に任命される。 米国ピッツバーグのセント・アンドリュー教会から、東京にミッションの図書館を設立するための寄付を受ける。 1874年(明治7年)2月3日 - ウィリアムズが東京・築地の外国人居留地に私塾を開設 。年末までに立教学校と命名する。初代校長はクレメント T. ブランシェ。 4月末または5月初め - アメリカ公使館が築地居留地1番・2番・21番・22番で構成される地所(現在の聖路加ガーデンの場所)に開設。 12月 - 東京の塾は築地入舟町5丁目1番地(内外人雑居地)に移転。 ジェームズ・クインビーがモリスの後任として大阪の聖テモテ学校の校長となる。 英国聖公会福音宣布協会(SPG)のアレクサンダー・クロフト・ショーが福沢諭吉家の家庭教師になり、慶應義塾の英語教師となる。 ウィリアムズ、この年に初代日本伝道専任主教となる。 1875年(明治8年)1月 - エレン・ガードルード・エディ(1874年11月、大阪に着任)が手伝っていた聖テモテ学校の女子生徒を引き取り、大阪でエディの学校を開校。 7月11日 - 日本人のための聖公会最初の教会「長崎出島教会」が設立。英国聖公会宣教協会(CMS)のヘンダーソン・バーンサイドが設立に尽力。 9月 - エディの学校が照暗女学校(のちの平安女学院)と改称。 12月 - アメリカ公使館が築地居留地(現在の聖路加ガーデンの場所)で新築し形容を整えた。 立教学校、東京・入船町6丁目に校舎兼寄宿舎を開設。 官立学校の発展などもあり、大阪の聖テモテ学校の生徒数が減少する。 1876年(明治9年)6月 - 大阪の聖テモテ学校が廃校となる。 11月29日 - 東京市街地の大火により立教学校は校舎など焼失。立教学校はこの後2年間余り休眠状態となる。 1877年(明治10年)6月 - ウィリアムズとクレメント T. ブランシェにより湯島に立教女学校(現:立教女学院)が設立される。 9月 - 英国聖公会宣教協会(CMS)のハーバート・モーンドレルが長崎東山手居留地に長崎神学校(日本最古のプロテスタントの神学校)を開設。翌月ウィリアムズが開設した三一神学校とともに聖公会神学院の起源。) 10月 - ウィリアムズ、入船町の邸内に三一神学校を開設。校長に就任。 11月 - 米国聖公会宣教師フローレンス・ピットマンが来日し、立教女学校の2代目校長を務める。 1878年(明治11年)11月 - 大阪から上京した宣教師ジェームズ・クインビーによって東京の私塾、立教学校が再開。 11月24日 - テオドシウス・ティングが大阪に来日。 1879年(明治12年)2月3日 - モーンドレルが長崎出島教会に隣接する出島10番・11番に「出島・英和学校」(小学科、英語塾、裁縫塾)を開く。 イライザ・グッドオールが校長兼教師。英語・裁縫を教える。 6月27日 - 立教学校を京橋区築地1丁目23番に移転し、本格的に再興する。貫元介名義で「立教学校」として私学開業願を提出。 10月 - ティングが大阪で廃校になった聖テモテ学校の再開に力を注ぎ、新たに大阪北区上福島村に英和学舎として開校。 12月 - 東京で再び火事があり、立教学校の校舎は無事だったものの、ウィリアムズの家が焼失。 1880年(明治13年)ジョン・マキムが来日。大阪、大和地方で活動する。 2月 - ウィリアムズ、第五回築地外国人居留地の区画競貸(せりがし)で私財を投じ、築地居留地37番区画(のちの「立教大学校」敷地)、38番区画を購入。米国聖公会から新大学校舎の建設費を支出するとの連絡があり、この土地にアメリカのカレッジのようなキャンパス施設群を計画。 6月 - ショーが福沢諭吉の援助を受け、芝に聖アンデレ教会を設立。 10月 - ウィリアムズの要請によりジェームズ・ガーディナーが来日し、立教学校の初代校長に就任。 大阪・英和学舎が風雲館という学校と合併して江戸堀北通に移転。 1881年(明治14年)10月 - 大阪・英和学舎を川口居留地21番に新築し、移転。 1882年(明治15年)2月 - 築地居留地25番、26番、39番、40番を購入。 5月 - 大阪で英和学舎の付属礼拝堂として聖テモテ教会を川口居留地21番に設置(現:川口基督教会)。 6月 - 立教学校の英称を「St. Paul's School」とする。 10月 - ウィリアムズの教え子の大隈重信が東京専門学校(のちの早稲田大学)を設立。 12月 - ガーディナー校長の設計による新校舎(立教大学校)が東京・築地居留地37番に完成。ゴシック風の3階建煉瓦校舎。 主教館が竣工(築地居留地38番)。 1883年(明治16年)1月 - 立教大学校(St. Paul's College, 6年制)設立。アメリカ合衆国式のカレッジで、東京大学とともに日本最高峰の教育機関。カリキュラムは全て英語の教科書を用い、教員も主に外国人であった(第1次学政改革)。校長にはガーディナーが就任。大学校内に三一神学校を併置。大学校設立にともない立教学校閉校。 出島・英和学校が生徒数減少により閉校。閉校後の校舎は長崎神学校(聖公会神学院の起源の一つ)の校舎として使用されることとなり、チャペルと図書館も設置する。 1884年(明治17年)アーサー・ロイドが来日し、福澤諭吉の家で家庭教師をし、1885年より慶應義塾で教鞭を執る。また、慶應義塾の敷地内に喜望教会を創設。 ガーディナーの設計による立教女学校の新校舎が築地居留地26番に完成。 ガーディナー夫妻が米国へ一時帰国。 12月31日 - クレメント T. ブランシェが退職する。ウィリアムズと米国聖公会外国委員会はとても残念がる。 1885年(明治18年)モリスが東京・三一神学校(のちの聖公会神学院)で教えるため大阪から東京に転任する。 ガーディナー夫妻が、1年間の米国帰国を終えて再来日し、立教大学校の職務を再開。 この年、立教大学校は53名、立教女学校は30人の生徒を擁して、年度を終えた。 1887年(明治20年)2月 - ウィリアムズと英国聖公会のエドワード・ビカステスの尽力により、日本におけるイングランド国教会と米国聖公会が合同し、日本聖公会設立。 3月 - 大阪・英和学舎は東京の立教大学校と合併、大阪・英和学舎閉校。 9月 - 前島密が東京専門学校の校長に就任。 1888年(明治21年)3月 - 立教大学校、明治学院、東京英和学校、東洋英和学校の4校で同盟文学会結成。 4月 - ビカステスにより、香蘭女学校が開校。 6月29日 - ウィリアムズが築地居留地の予備地を求めて、米国公使のハバードに書簡を送り、土地を競売に付すよう日本側に求めるよう要請。 7月 - 外相であった大隈重信がハバード米国公使からの要請を受け、長崎時代の恩師であるウィリアムズの土地取得のために尽力。 1889年(明治22年)5月16日 - ウィリアムズが大隈重信が尽力して予備地を造成するに至った築地居留地53番、54番、55番、56番を競売により取得。 三一神学校寄宿舎が竣工(築地居留地53番)。 10月8日 - ウィリアムズ、米国聖公会日本伝道主教を辞任する(60歳)。 12月1日 - 築地居留地39番にガーディナー設計の築地・聖三一大聖堂が完成する。 1890年(明治23年)3月 - アメリカ公使館が築地居留地から赤坂の現在地(アメリカ大使館)へ移転。 10月 - 国粋主義が広がり始め、欧化主義への反動的な時代風潮もあり、立教大学校の生徒数が半減。校内にも日本化の機運が高まり、カレッジ構想を一旦断念し、立教大学校は左乙女豊秋ほか日本人教師を多数採用し、校名を立教学校に戻す(第2次学政改革)。 1892年(明治25年)7月 - ティングがガーディナーの後任として校長に就任。 築地居留地53番に三一神学校(新校舎)・附属図書館が竣工。築地居留地54番に三一会館が竣工。 1893年(明治26年)6月 - ジョン・マキム、ウィリアムズの後任の米国聖公会日本伝道主教となる。 10月17日 - マキムが新たに造成された築地居留地57番、58番を競売により購入。 12月8日 - マキムが新たに造成された築地居留地59番、60番を競売により購入。 この年までに築地校地の永代借地権を取得。総計約2万1476平方メートル、築地居留地全体の約22.2%を聖公会の土地とし、立教関係の建物が立ち並ぶ築地キャンパスへと繋がっていく。 1894年(明治27年)6月 - 明治東京地震により校舎の一部倒壊。 7月 - 「立教学校教育の趣旨」を発表。 9月 - 補充科(1年制)・普通科(5年制)・専修科(3年制)を設ける(第3次学政改革)。 1895年(明治28年)3月 - 立教学校文学会機関誌『八紘』発刊(1897年まで)。 12月 - 立教尋常中学校寄宿舎竣工(築地居留地59番、60番)。 1896年(明治29年)立教尋常中学校校舎(六角塔)竣工(築地居留地57番、58番)。 4月 - 立教学校を廃し、立教専修学校(3年制)と立教尋常中学校(5年制)を設置(第4次学政改革)。 6月13日 - 聖公会の愛恵病院が立教大学校校舎があった築地居留地37番に移転し、築地病院(英語名:St. Luke's Hospital)と改称して開設。 1897年(明治30年)9月 - 東京英語専修学校を神田錦町に開校(1903年閉校)。立教学校ミッションを結成(翌年3月から機関誌『築地の園』創刊)。 10月 - 牧師の左乙女豊秋が日本人初の4代目校長として就任。 1898年(明治31年)5月 - 京都市にガーディナー設計の聖三一大聖堂(現:聖アグネス教会)が完成する(平安女学院京都キャンパス内に所在)。 10月 - ジョン・マキム主教により献堂式が行われる。 1899年(明治32年)2月 - 立教尋常中学校を立教中学校と改称。 9月 - 立教学院成立。アーサー・ロイドが総理に就任。ロイドはマキムと共にミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処し、学校を存続させる。 10月 - バージニア大学とバージニア神学校で学んだヘンリー・セントジョージ・タッカーが来日。 1900年(明治33年)2月2日 - ジョン・マキムの米国聖公会本部への要請が実り、ルドルフ・トイスラーが夫妻で来日。
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19世紀以前
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ヴィルヘルム・ハインリヒ・リール(1823年 - 1897年)ジャーナリスト、小説家、文化史家 アドルフ・ヴァールムント(1827年 - 1913年)オリエント学者、作家 ルートヴィヒ・クナウス(1829年 - 1910年)画家 アドルフ・ゼール(1829年 - 1907年)画家 ニコラウス・ヴィルヘルム・フォン・ナッサウ(1832年 - 1905年)ナッサウ公国公子 ヴィルヘルム・ディルタイ(1833年 - 1911年)哲学者、心理学者、教育者 ゾフィア・フォン・ナッサウ(1836年 - 1913年)スウェーデン=ノルウェー王オスカル2世 (スウェーデン王)の王妃 エミール・プファイファー(1846年 - 1921年)内科医、小児科医 カール・ブルクマン(1849年 - 1919年)印欧語学者、言語学者 ユリウス・ブーツ(1851年 - 1920年)ピアニスト、作曲家、指揮者 カール・ホイン(1859年 - 1929年)数学者 カール・ヘルクスハイマー(1861年 - 1942年)医師 アウグスト・コンラーディー(1864年 - 1925年)中国学者 ヒルダ・フォン・ナッサウ(1864年 - 1952年)バーデン大公フリードリヒ2世の大公妃 オフリート・ニッポルト(1864年 - 1938年)法律家、平和運動家 ハインリヒ・ルーベンス(1865年 - 1922年)物理学者 リヒャルト・ヴュンシュ(1869年 - 1915年)古典主義哲学者、宗教学者 ユリウス・ブレッツ(1870年 - 1953年)風景画家、リトグラフ作家 オットー・クレープス(1873年 - 1941年)企業家、美術品収集家 パウロー・スコロパードシクィイ(1873年 - 1945年)ウクライナの政治家 ルートヴィヒ・ホールヴァイン(1874年 - 1949年)ポスターデザイナー、グラフィックデザイナー、建築家、画家 エルンスト・ショルツ(1874年 - 1959年)法律家、政治家 ハンス・グリム(1875年 - 1959年)作家、出版者 マチルデ・ルーデンドルフ(1877年 - 1966年)教師、医師、作家 ルートヴィヒ・ベック(1880年 - 1944年)陸軍司令官、反ヒトラー運動家 エルヴィン・フロイントリヒ(1885年 - 1964年)天文物理学者 アレクサンダー・リュスト(1885年 - 1963年)社会学者、経済学者 ハンス=グスタフ・フェルバー(1889年 - 1962年)ドイツ軍司令官 ヴァルター・ゲルラッハ(1889年 - 1979年)物理学者 ギュンター・リュッチェンス(1889年 - 1941年)海軍中将 フランツ・カイザー(1891年 - 1962年)天文学者 ヘルムート・プレスナー(1892年 - 1985年)哲学者、社会学者 ハンス・H・ツェルレット(1892年 - 1949年)脚本家、演出家 グスタフ・フォン・ヴァーゲンハイム(1895年 - 1975年)俳優、演出家、脚本家 テオドール・ハービヒト(1898年 - 1944年)ヴィッテンベルクおよびコブレンツの上級市長を歴任した。
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19世紀以前
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フィンランド語は、相対的に新しい言語なので、中世以前の文学は殆ど存在しない。聖書や法典のような重要な書物は、ラテン語やスウェーデン語やフランス語やドイツ語のような少数のヨーロッパの言語でのみ利用可能であった。(フィンランドの言語闘争(英語版)を参照) フィンランド語の書き言葉の元祖は、司教でフィンランドのルーテル派改革者のミカエル・アグリコラ (1510年-1557年) で西部方言を主に基づいて成立させた。彼の主な仕事は『新約聖書』をフィンランド語に翻訳した事である。この仕事は1548年に完成し、フィンランド語の入門書になっている。
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19世紀以前
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大砲の砲耳が開発され、2つの車輪と砲脚を持つ砲架に載せられるようになると、その移動を容易にするために前車が考案された。前車は簡単な2輪の荷車(cart)で、縦向きに軸棒が取り付けられていた。大砲の架尾には軸棒に合う穴が開けられており、牽引する際には架尾を持ち上げ、この穴を前車の軸棒に差しこむようにする。前車には馬(輓馬)または他の輓獣動物が、1列縦隊で取り付けられた。19世紀以前の前車は弾薬類を運ぶようには作られておらず、しばしば砲脚の隙間に弾薬箱が置かれた。
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「登山における最高到達高度の記録」の記事における「19世紀以前」の解説
870年頃に文人の都良香が書いた『富士山記』に、富士山頂上についての最古の記録があり、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材したものとみられている。それ以前の663年に役小角が富士山に登頂したという伝説がある。 905年にアブー・ドラフ・カズラジがイランのダマーヴァンド山(5,610メートル)に登頂した。ただしこれ以前にも登頂されていた可能性がある。 ダマーヴァンド山より低いが、1289年にメキシコのポポカテペトル山(5,426メートル)に現地の部族が登頂したと記録されている。230年後の1519年にエルナン・コルテスの部下、ディエゴ・デ・オルダスら3人がヨーロッパ人として初めてポポカテペトル山に登頂した。これはかつて登頂高度記録と考えられていた。ヨーロッパ人がさらに高い山に登頂するのは300年以上経ってからである。 ヨーロッパ人のヒマラヤ探検は19世紀中頃から本格的に始まった。その時代にヒマラヤを登ったのは大三角測量の測量技師だった。1850年代から1860年代に、彼らは測量のために、6,100メートル(20,000フィート)以上の山を数十峰登り、6,400メートル(21,000フィート)以上の山を数峰登った。そのときに人類が到達していなかった最高点まで登ったと主張されることもある。 それらの主張の多くは今では間違いと分かっている。それ以前に、インカの人々が宗教上の理由からアンデスの高峰に登っていたのである。アンデスにある標高6,739メートルの山、ユーヤイヤコの山頂からは、3体の子供のミイラが発見された。1500年頃に生贄として捧げられたとみられる。アンデス最高峰のアコンカグア(6,962メートル)でも約6,900メートルの頂上稜線でグアナコの骨が見つかっており、インカ人がそこまで登っていたことが示唆されている。先コロンブス時代にアンデスの最高峰が登頂されていた可能性は排除できない。 その一方でヒマラヤでは、ヤクが6,100メートル(21,000フィート)の高さまで登っていることが報告されており、夏には雪線が6,500メートルの高さまで達することがある。おそらく現地の人々は獲物を探しにそのくらいの高度まで達することもあっただろうし、通商ルートを探すためにより高く登ることもあっただろう。しかし、彼らはそこで生活していた訳ではなく、ヨーロッパ人が到達する前にヒマラヤの頂に登ろうと試みた証拠はない。 初期の最高到達高度の記録には、現地の地理に関する知識の不足と、不完全な測量のせいで不明瞭なところがある。初めに主張されていた標高の多くは、後の調査で改定されている。1862年にカラシーという名前のインド人測量助手が標高7,000メートルを越えるシラ(英語版)に登頂したと記録されていたが、後の調査で6,111メートルに改定された。3年後に大三角測量のウィリアム・ジョンソンが中国に不法入国し、崑崙山脈の7,280メートルの山に登頂したと主張したが、後に6,710メートルと分かった。
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19世紀以前
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建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清帝国は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清国は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし清国は、台湾を「化外の地」としてさほど重要視していなかった為に統治には永らく消極的であり続けた。土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけ、台湾原住民を化外の野蕃として放置し続けてきた。一方で漢人は番界に土地を借り開拓は続き徐々に原住民の生活域は圧迫され、その度に番界は策定しなおされたが、台湾本島における清国の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、清国が台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも主権が及んでいたと主張している。 1786年11月に中部の彰化県で、天地会の会員数名が逮捕されたことを発端として暴動が発生し、県知事を含め官吏の多くが殺害された。首謀者の名をとって林爽文反乱と呼ばれるこの事件は、翌年12月に大陸から鎮定軍が派遣され1788年に終息したが、事件を契機として台湾周辺に組織的な海賊が横行するようになった。 この時期は海禁策がとられ、渡台は男性のみに限られていたが、一般にこの時期に大量の密航が行われたとされている。例えば1759年の一年間に拿捕された密航は25件、逮捕者は990余人であった。人口は増加しつづけ、1811年には195万人に到達した。
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19世紀以前
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「ガストン (オレゴン州)」の記事における「19世紀以前」の解説
ヨーロッパの移住者が到着する1880年代以前にガストン地域に先住していた先住民に関してはあまり解明されていない。わずかな証拠から判明していることによれば、この地域の先住民は、太平洋岸北西部で生活していた他の部族と似た生活を送っていたようである。近郊のチェリー・グローヴには、数点のペトログリフ(壁画)が見つかっており、これらはカラプヤ族系に属するアトファラティ族によるものであるとされている。北アメリカで生活を営んでいた他の多くの先住部族と同じく、ヨーロッパ人の移住により、天然痘、マラリア、インフルエンザを始めとするヨーロッパ由来の疾病で先住民人口の90%が命を落としたと考えられている。
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19世紀以前
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「フリーデヴァルト (ヘッセン)」の記事における「19世紀以前」の解説
アムト・フリーデヴァルトは1392年(市場開催権と裁判権)に、フリーデヴァルト集落は1430年に初めて文献に記録されている。修道院長の城が1302年以前にすでに設けられており、ヘルスフェルト修道院のレーエンとしてヘッセン方伯に委託されていた。この城はおそらく、フランクフルトからライプツィヒに至る交易路クルツェ・ヘッセンを管理するために建設されたと考えられる。 この城は1472年に取り壊され、ハインリヒ3世方伯(ドイツ語版、英語版)はここに建築家ハンス・ヤーコプ・エッティンゲンに水城フリーデヴァルト城を建設させた。この城は狩りの際の滞在地として用いられた。1551年10月5日、フランスとシュマルカルデン諸侯との間でヘッセン方伯フィリップを皇帝の監獄から解放する協定がここで締結された。4つの隅塔をもつフリーデヴァルト城は1762年に破壊された。この城館は常にこの集落の中心であり、町の象徴である。 ナポレオンのヴェストファーレン王国時代(1807年 - 1813年)には、フリーデヴァルトはフリーデヴァルト小郡の主邑であり、治安裁判所の所在地であった。
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19世紀以前
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「アイリッシュ・ウイスキー」の記事における「19世紀以前」の解説
アイリッシュ・ウイスキーはヨーロッパの古い蒸留飲料のひとつと考えられており、アイリッシュ・ウイスキーとスコッチ・ウイスキーのどちらがより歴史があるかの議論には決着がついていない。伝承によれば、6世紀に中東を訪れたアイルランドの修道僧が、現地で香水を作るために用いられていた蒸留技術を持ち帰り、それを酒造に応用したという。また、聖パトリックが蒸留技術を伝えたとする伝承も存在する。ヘンリー2世によるアイルランド遠征の時、家臣からの報告書にアイルランドで大麦から蒸留した酒が飲まれていた記録があったと言われているが、確認できる史料は無く、信憑性を疑問視する声もある。12世紀当時にアイルランドで飲まれていた蒸留酒は、ビールを蒸留した濁り酒だった。アルコール度数は約20度と現在のウイスキーに比べて低く、発酵の段階で果物、蜂蜜、ハーブを入れて香りをつけていた。 オールド・ブッシュミルズ蒸留所(英語版)は1608年にジェームズ1世から免許を授かった最古の公認蒸留所を名乗り、ボトルにも『1608』を刻印しているが、1608年当時にブッシュミルズという名の蒸留所が実在していたかは不確かであり、ブッシュミルズが操業を始めたことが確認できるのは1784年である。輸入元のアサヒビールでは「1608年とも言われ」という表現を使っている。 18世紀になるとアイリッシュ・ウイスキーの評価は上昇し、サミュエル・ジョンソン、ピョートル大帝らの称賛を受けた。20世紀に至るまで多くのアイリッシュ・ウイスキーの蒸留所が創業し、18世紀にはおよそ2,000の小規模な蒸留所が乱立していたが、蒸留所間の統合によって19世紀半ばには約160に、1880年には28の蒸留所が稼働していた。
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19世紀以前
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古来、民間の事務作業の多くは親方が片手間に行なうような個人レベルの営為であり、事務で使う什器も日常用途との兼用が普通だったが、産業革命によるビジネスの大規模化は生産管理・在庫管理・販売管理といった込み入った事務作業を大量に生み出し、オフィスワークの専業化を促して、18世紀には事務用にあつらえられた机や椅子が見られるようになった。 機能面で現在のオフィスチェアの嚆矢といえるものは1850年代の米国で見られる。一つは発明家のトーマス・E・ウォーレンが製作し1851年のロンドン万博に出品したセントリペタル・スプリング・アームチェア(英語版)で、鋳鉄のフレームにベルベットのクッションを備え、座面をあらゆる方向へ傾けたり回転させることができた。しかしあまりに座り心地が良かったため、ふしだらで怪しからんと評判は良くなかった。もう一つは発明家のピーター・テン・アイクが1853年に特許出願したもので、これは座面を水平回転できるロッキングチェアとでもいうべきものだった。しかしあくまで家庭で寛ぐため発案・製作されたものであり、事務用に使われることはなかった。 椅子の脚先にキャスターを付けて移動できるようにするというアイデアは、ダーウィンが書斎で標本を取りやすいよう考え出したと言われている。 セントリペタル・スプリング・アームチェア アイクが1853年に出願した特許の図版 ダーウィンが使った椅子
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19世紀以前
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本来は、ラテン語のための文字である。このため、ラテン語を公用語とするローマ帝国の勢力伸長とともにラテン文字の使用圏も拡大していったが、ギリシア語を使用する帝国東部においては文字もギリシア文字が主流となっていた。395年のローマ帝国の東西分裂後、東ローマ帝国はギリシア語化していったが、西ローマ帝国はラテン語を使用し続け、文字もラテン文字を引き続き使用していた。西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動などによって衰退していき476年に滅亡するが、この地域に侵入したゲルマン人たちはラテン語とラテン文字を行政言語として使用するようになり、やがて彼らの祖語であるゲルマン諸語もラテン文字によって表記するようになっていった。またこのころから力を強めていったローマ教会はラテン語を典礼用語としており、それを表記するためのラテン文字も西方教会圏全域に広まっていき、西方教会圏の諸言語を表記するためにラテン文字が転用されるようになった。こうして中世以降は、俗ラテン語に由来するロマンス諸語のみならず、西欧・中欧の西方教会(カトリック・プロテスタント)地域のほぼ全ての言語でラテン文字が使われるようになった。ゲルマン語派、スラヴ語派の一部、バルト語派、ケルト語派、バスク語、ウラル語族の一部などである。 系統含まれる19世紀以前にラテン文字を使用していた欧州諸言語の例(五十音順)ロマンス諸語 イタリア語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語など(ただし当初はルーマニア語を除く) ゲルマン語派 アイスランド語、英語、オランダ語、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語、ドイツ語など スラヴ語派 クロアチア語、スロヴァキア語、スロヴェニア語、チェコ語、ポーランド語など バルト語派 ラトビア語、リトアニア語 ケルト語派 アイルランド語など ウラル語族 エストニア語、ハンガリー語、フィンランド語など
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19世紀以前
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19世紀に氷の貿易が出現する以前にも、雪や氷を収集して、夏の間に使うために保存する習慣は世界中でみられたが、決してその規模は大きくなかった。例えば地中海沿岸や南アメリカでは、アルプス山脈やアンデス山脈の頂上付近から氷を収集することにかけて長い歴史を持っていて、商人がその氷を低地の都市まで輸送していた。同じような氷の売買は植民地時代のメキシコでも発達した。青銅器時代後期(紀元前1750年ごろ)のアッカド人の粘土板からは、彼らがユーフラテス川に貯氷庫を建てて、冬に雪深い山々から氷を集め、夏の飲料に用いていたことがわかる。ロシア人も長年にわたり、冬にネヴァ川流域から収集した氷をサンクトペテルブルクで使用していた。裕福なヨーロッパ人は、16世紀以降、冬に地方の領地から氷を集めさせる貯氷庫を持っていた。そうした上流階級では、飲料や食事を冷やすために氷が用いられていた。 より人工的な方法で氷を生産したり、飲み物を冷やしたりするための技術も考え出された。インドでは、17世紀にはヒマラヤ山脈から氷が町に持ち込まれたが、それがあまりに高価であったため、19世紀頃になるとより南の地域でも冬になると少量の氷を製造するようになった。そのために多孔質の土鉢に沸騰させてから冷ました水が注がれ、狭い堀に敷いた藁の上にその土鉢を並べる方法がとられた。冬に好条件が重なると、夜のあいだにその表面に薄い氷の膜ができたので、それを集めれば売り物になった。フーグリー県やイーラハーバードがこの氷の生産地であったが、わずかな量しか採れず、硬い結晶というよりはシャーベット状の軟氷〔スラッシュ〕ともいうべき状態がほとんどで品質は決して良いものではなかったとされている。インドでは飲料を冷やすために水と硝石を混ぜる習慣があった。これは地元で採れる化学物質を利用した例であるが、ヨーロッパでも19世紀まで飲料を冷やす様々な化学製品が使われていた。典型的なのは硫酸であるが、実際に氷そのものを作りだす方法は存在しなかった。
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19世紀以前
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ヨーロッパと日本で研究が始まった。日本では関孝和、建部賢弘など、ヨーロッパではアイザック・ニュートンなどが取り組んだ。
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19世紀以前
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「ジョジョの奇妙な冒険における年表」の記事における「19世紀以前」の解説
1191年 イギリスのグラストンベリー修道院で、ローマ時代に描かれた「アリマタヤのヨセフの地図」が発見される。 1302年 ネアポリス王国建国(史実のナポリ王国に相当)。 1492年 コロンブスがアメリカ大陸に到達(史実通り)。この数年後、イギリスから「アリマタヤのヨセフの地図」が行方不明になる。
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