フローレンス・ピットマンとは? わかりやすく解説

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フローレンス・ピットマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/04 22:46 UTC 版)

フローレンス・ピットマン(Florence R. Pitman、1854年 - 1930年)は、アメリカ人宣教師、教育者。米国聖公会の宣教師として日本に派遣され、立教女学校(現・立教女学院)の主任・校長を務めるとともに、女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設した津田梅子とも交流し、日本の女子教育の発展に多大な貢献をした[1][2]ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの妻。


注釈

  1. ^ 湯島4丁目[5]や神田明神下[2]であったとする資料もある。
  2. ^ 生徒数は5名だった[2]という資料もあるが、立教女学院の創立者・沿革のサイトに加え、別資料でも6名となっていることから、6名と記述する[6][1]
  3. ^ 1875年1月に、大阪で「エディの学校」として開設され、同年9月に照暗女学校と改称。
  4. ^ 小宮珠子は、1880年(明治13年)に立教女学校に舎監兼教員として就任以来30有余年、寄宿舎に生徒とともに寝起きして、生徒を躾け愛し続けた。当時、米国の女性教員の月給は20円であったが小宮の月給は3円で、そのうち2円50銭は食費で差し引かれるため手取りは50銭であった。彼女はその50銭で貧民などへの伝道活動をした。女学校出身者からは、母のように誰からも慕われた。教師としては、裁縫と日本外史、国史略など日本の歴史を教えた[1]
  5. ^ 東京・芝の聖アンデレ教会はアレクサンダー C. ショーが1879年に創設した教会。
  6. ^ クレメント T. ブランシェ牧師と英国国教会のアレクサンダー C. ショー牧師の助けを借りて、チャニング・ウイリアムズ主教の司式で結婚[3]
  7. ^ エマは1898年(明治31年)まで立教女学校で英語、音楽を教え、1899年(明治32年)7月には、東京帝国大学で英文法を教えていたH.T.テリーと結婚した。特にその音楽指導は評価が高く、生徒から敬慕された。

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