フローレンス・ピットマン
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フローレンス・ピットマン(Florence R. Pitman、1854年 - 1930年)は、アメリカ人宣教師、教育者。米国聖公会の宣教師として日本に派遣され、立教女学校(現・立教女学院)の主任・校長を務めるとともに、女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設した津田梅子とも交流し、日本の女子教育の発展に多大な貢献をした[1][2]。ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの妻。
注釈
- ^ 湯島4丁目[5]や神田明神下[2]であったとする資料もある。
- ^ 生徒数は5名だった[2]という資料もあるが、立教女学院の創立者・沿革のサイトに加え、別資料でも6名となっていることから、6名と記述する[6][1]。
- ^ 1875年1月に、大阪で「エディの学校」として開設され、同年9月に照暗女学校と改称。
- ^ 小宮珠子は、1880年(明治13年)に立教女学校に舎監兼教員として就任以来30有余年、寄宿舎に生徒とともに寝起きして、生徒を躾け愛し続けた。当時、米国の女性教員の月給は20円であったが小宮の月給は3円で、そのうち2円50銭は食費で差し引かれるため手取りは50銭であった。彼女はその50銭で貧民などへの伝道活動をした。女学校出身者からは、母のように誰からも慕われた。教師としては、裁縫と日本外史、国史略など日本の歴史を教えた[1]。
- ^ 東京・芝の聖アンデレ教会はアレクサンダー C. ショーが1879年に創設した教会。
- ^ クレメント T. ブランシェ牧師と英国国教会のアレクサンダー C. ショー牧師の助けを借りて、チャニング・ウイリアムズ主教の司式で結婚[3]。
- ^ エマは1898年(明治31年)まで立教女学校で英語、音楽を教え、1899年(明治32年)7月には、東京帝国大学で英文法を教えていたH.T.テリーと結婚した。特にその音楽指導は評価が高く、生徒から敬慕された。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 『月刊ニューズレター 現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』第42号2018年6月15日 (PDF)
- ^ a b c d e 青山学院大学ソーパー・プログラム 「創立の礎」 立教女学院 (PDF)
- ^ a b c d e f g h i j Project Canterbury『An Historical Sketch of the Japan Missionof the Protestant Episcopal Church in the U.S.A. Third Edition.』 New York: The Domestic and Foreign Missionary Society of the Protestant Episcopal Church in the United States of America, 1891.
- ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第45巻(DK450034k) 本文
- ^ a b c d 手塚竜麿「築地居留地と東京の英学」『日本英学史研究会研究報告』第1964巻第5号、日本英学史学会、1964年、1-10頁、ISSN 1883-9274。
- ^ 立教女学院、創立者・沿革(創立者について)
- ^ 『立教女学院90年史資料集』
- ^ a b c d e f LIXIL eye no.1 2012年11月 (PDF)
- ^ 『すまいろん』2007秋号(通巻第84号)2007年10月20日 財団法人住宅総合研究財団 (PDF)
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- 2 フローレンス・ピットマンの概要
- 3 関連項目
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