学校法人立教女学院とは? わかりやすく解説

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学校法人立教女学院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 05:34 UTC 版)

学校法人立教女学院(がっこうほうじんりっきょうじょがくいん)は、高等学校中学校小学校を運営する日本学校法人日本聖公会系のミッションスクール


注釈

  1. ^ 結婚式は、横浜キリスト教会(Christ Church、横浜山手聖公会)でウィリアムズ主教によって執り行われた[1]
  2. ^ ブランシェ夫妻の仮住居で始められた生徒わずか6名の私塾として開始[3]
  3. ^ 外国人居留地外のため、若山儀一を校主として設立願書を提出している[4]
  4. ^ 寄宿舎の監督をする人。
  5. ^ 小宮珠子は、1880年(明治13年)に立教女学校に舎監兼教員として就任以来30有余年、寄宿舎に生徒とともに寝起きして、生徒を躾け愛し続けた。当時、米国の女性教員の月給は20円であったが小宮の月給は3円で、そのうち2円50銭は食費で差し引かれるから手取りは50銭であった。彼女はその50銭で貧民などへの伝道活動をした。女学校出身者からは、母のように誰からも慕われた。教師としては、裁縫と日本外史、国史略など日本の歴史を教えた[5]
  6. ^ 東京・芝の聖アンデレ教会でクレメント T. ブランシェ牧師と英国国教会のアレクサンダー C. ショー牧師の助けを借りて、チャニング・ウイリアムズ主教の司式で結婚[1]
  7. ^ ミス・ウィリアムソンは、立教女学校と立教大学校で教師をした後、大阪の照暗女学校(のちの平安女学院)で教師、校長を務め、その後、1891年(明治24年)に東京へ戻り、立教大学校から名称変更した立教学校で教えた。
  8. ^ 学校は外国人管理の下にあることから、英語に重きを置き、教育書も英書を多く用いたことから、生徒は英語は上達し外国の知識には深くなったが、一方で日本の国語、歴史、地理等の知識には浅いところがあるということから、協議の結果、清水友輔を校長として学校を日本人の手に委ねることになったとみられる。こうした背景には、当時、国内に国粋主義が広がり、欧化主義への反動的な時代風潮があったことも影響していると考えられる[2]
  9. ^ 1898年(明治31年)1月に校舎を新築したとする資料(渋沢栄一伝記資料)もある。校舎とともに寄宿舎[8]も建設されていることから、1898年(明治31年)に校舎、1899年(明治32年)に寄宿舎が竣工したなど別々に竣工した可能性や、1898年(明治31年)から建設を開始し、1899年(明治32年)に全ての建物が竣工した可能性なども考えられる。伝記資料には以下の記載がある。
    「然るに同校は外国人管理の下にあることゝて、英語に重きを置き教育書も英書を多く用ゆる姿となり、生徒は英語に達し外国の事に明かなるも、我国の国語・歴史・地理等に暗き弊あるより、協議の結果、同校を全然日本人の手に委すことゝなり、清水友輔氏を校長として明治三十一年一月校舎を新築し、明治三十二年居留地制度廃止と共に、文部省に学校設立届をなし「私立立教女学校」と称し、明治四十一年四月更に文部大臣の認可を経て「私立立教高等女学校」と称して現時に至れるものにて、我国の女学校としては最も古き歴史を有せるものなりと云ふ。[2]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Project Canterbury『An Historical Sketch of the Japan Missionof the Protestant Episcopal Church in the U.S.A. Third Edition.』 New York: The Domestic and Foreign Missionary Society of the Protestant Episcopal Church in the United States of America, 1891.
  2. ^ a b c d e デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第45巻(DK450034k) 本文
  3. ^ 立教女学院、創立者・沿革(創立者について)
  4. ^ 手塚竜磨「東京における英国福音伝播会の教育活動 A. C. Shawを中心として」『日本英学史研究会研究報告』第1966巻第52号、日本英学史研究会、1966年、1-6頁、ISSN 1883-9274 
  5. ^ 『月刊ニューズレター 現代の大学問題を視野に入れた教育史研究を求めて』第42号2018年6月15日 (PDF)
  6. ^ 『チャペル・ニュース』 第128号 特集・立教女学院と滝乃川学園前編 (PDF)
  7. ^ 特集1 続・生き続ける建築 12 ジョサイア・コンドル (INAX REPORT 190) (PDF)
  8. ^ すまいろん季刊 2007秋号P39(通巻第84号)財団法人 住宅総合研究財団 (PDF)
  9. ^ 勝浦吉雄「「本田増次郎とマーク・トウェイン」(上)」『現代英米研究』第6巻、英米文化学会、1971年、1-12頁、doi:10.20802/geneiken.6.0_1ISSN 2433-0736 
  10. ^ 石井陽三「本田増次郎のこと」『桃山学院年史紀要』第2号、桃山学院、1981年、59-66頁、ISSN 0285-1725 
  11. ^ 川越基督教会の歴史
  12. ^ 舟橋正真「立教小学校の創設過程」『立教学院史研究』第15号、立教大学立教学院史資料センター、2018年、60-92頁、doi:10.14992/00016383 
  13. ^ UCLA Library Digital Collections


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