雑居地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
前述のように1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港日の時点ではごくわずかな土地と設備が造成されたに過ぎなかった。明治政府は江戸幕府が諸外国と結んだ条約・取り決めを継承すると宣言していたが、江戸幕府は前述の1867年5月16日(慶応3年4月13日)締結「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)において、居留地が手狭になった場合は居留地を拡張するか日本人が外国人に家屋を貸すことを認めていた。そのことから明治政府は1868年3月30日(慶応4年3月7日)、東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と区域を限った上で、外国人が居住することを認め、居住に際して借地、借家、家屋の購入および普請を行うことも認めた。この区域を雑居地と呼ぶ。雑居地の土地についてはごく初期を除いて外国人に対する永代借地権が認められず、期限(初めは5年に設定されたが、のちに25年に延長された)を定めた借地のみが認められた。雑居地は居留地の工事の遅れを受けて暫定的に設けられたものであったが、居留地の全区画が完成しても収容しきれないほどに居住者が増加したため、廃止した場合に居留地の拡張を要求されることを恐れた明治政府は居留地返還まで雑居地を存続させた。雑居地の面積は道路を除くと2万6756坪(約88,449平方メートル)であった(1885年(明治18年)末のデータ)。 清国人は、開港当初は母国が日本と条約を結んでいなかったため居留地に住むことができず、雑居地に居住した(1871年9月13日(明治4年7月29日)に日清修好条規が締結されて以降は、居留地内に居住することが可能になった)。その影響から居留地西側の雑居地には清国人街が形成された。日清修好条規締結後、居留地と周辺の雑居地に居住する清国人は増加していった。清国人は後述のように清国人は外国商館を通じて行われた貿易において「買弁」と呼ばれる仲立人を務めたほか、清国とのパイプを利用して同国向けのマッチの輸出において大きな枠割を果たした。 雑居地であった地域には外国人が居住していた住宅が多く残されており、「異人館」として観光の対象となっている。また南京町の中華街は、居留地時代に清国人街が形成された居留地西側の地域に存在する。雑居地において日本人が外国人を身近に接しながら暮らし、「生活レベルでの国際交流」が行われたことは、日本人と外国人が共生する「多民族・多文化共生都市」としての神戸市の原型を形成したと評価されている。
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