ゲルマン民族の大移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:12 UTC 版)
「民族移動時代」も参照 375年、フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。 この後すぐに西ローマ帝国において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊したため西方正帝廃止と民族大移動との関連性が考えられる。フン族の侵攻を食い止めたのがローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるためにゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。また、最近の研究では正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的にゲルマン化が進んだとされるフランク王国においてすら住民の8割はローマ人であった。フランク王国において宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末のカール大帝の時代になってからのことである。 ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人(ノルマン人ないしヴァイキング)は大移動時代にはデーン人がユトランド半島まで進出した程度である。 この後も、ヨーロッパにはスラヴ人やマジャール人(ハンガリー人)といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。
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