民族移動時代
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民族移動時代(みんぞくいどうじだい、英語: Great Barbarian Invasion)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった、諸民族移住時代のことである。
- ^ 五十嵐修 「征服と改宗-クロヴィス1世と初期フランク王権-」『古代王権の誕生IV ヨーロッパ篇』 角川書店、2003年10月。ISBN 978-4-04-523004-2。
- ^ 佐藤彰一 「第三章 フランク王国」『フランス史』1、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年9月。
- ^ 中国の「民族大移動」が復活 ゼロコロナ終了後、初の春節 経済回復に期待も農村での感染拡大を懸念(東京新聞)
- 1 民族移動時代とは
- 2 民族移動時代の概要
- 3 ゲルマン系民族の移動
- 4 東方系民族の移動
- 5 関連項目
民族移動時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 05:43 UTC 版)
詳細は「民族移動時代」および「ゲルマン王権」を参照 移住の時代 ラヴェンナのテオドリック廟は、東ゴート族の現存する唯一の建築例である。 500年頃、西ゴート族は現在のフランス、スペイン、アンドラ、ポルトガルに当たる広大な地域を支配した。 ゴート族とヴァンダル族は、西ヨーロッパに押し寄せた侵攻の第一波に過ぎなかった。ある者は戦争と略奪の為だけに暮らし、ローマの生活様式を軽蔑した。その他はローマを称賛し、その後継者になることを望んだ。「貧しいローマ人は、ゴート族を演じ、豊かなゴート族は、ローマ人を演じた。」と東ゴート族のテオドリック王は言った。 ローマ帝国の臣民は、カトリックであり、長く安定した官僚的な帝国の文明化された臣民であった。ゲルマン人は都市や金、文字についてほとんど知らなかった。最近アリウス派キリスト教に改宗した人々であり、従って帝国の聖職者にとっては異端であった。 民族移動時代に最も早く入植した人々は、そのまま立ち去るか部分的に手を付けただけであった。フランス人やイタリア人、スペイン人は今日ロマンス諸語を形成しているラテン語の方言を話し続けているために、西のブリトン王国ではブリトン語の話者が残ったが、今日のイングランドのローマ時代の小規模の言語は、アングロ・サクソン人に占領された領域の僅かな痕跡と共に消失した。新来の人々は、法律や文化、宗教、財産所有の形態などの作られた社会を大いに改造した。 パクス・ロマーナは貿易と製造に安全な状態を作り出し、遠方との関係における文化的な環境や教育上の環境を一様にした。このことが失われると、地元の有力者の(時に新たにローマ化した支配階級や外来文化の新たな支配者)支配に置き換わった。ガリア・アクィタニアやガリア・ナルボネンシス、南イタリアやシチリア、ヒスパニア・バエティカや南スペイン、イベリアの地中海沿岸では、ローマ文化は6世紀か7世紀まで続いた。 至る所で徐々に経済的・社会的連携や基盤が崩壊したことで益々視点の地元化が齎された。この崩壊は旅行や商品の運搬にとって安全でなくなったために迅速かつ劇的なものであり、輸出のための貿易や製造において結果的に崩壊を齎した。大規模な陶器製造業のように貿易に頼る主要な産業は、イギリスのような場所でほぼ一夜にして消滅した。他の数か所の中心地同様に、コーンウォールのティンタジェルは、6世紀にかけて良く地中海の高級品の供給を何とか受けたが、その際貿易上の繋がりは失った。経営や教育、軍事的な基盤は、急速に消滅し、新しいクルスス・ホノルムを失ったことで学校の崩壊や指導者の中でさえ文盲が増えることになった。この時代の初めのカッシオドルス(585年死去)や終わりのアルクィン(804年死去)の経歴は、貴重な読み書きの能力と同様に成り立っていた。 以前のローマ時代は400年から600年の間に人口が20%減少したり、150年から600年に3分の1が減少した。8世紀、貿易額は青銅器時代以来最低水準であった。8世紀の地層から発見される難破船の数が非常に少ないことが、このことを支持している(1世紀の地層の難破船の数の2%以下であることを表している)。500年頃を中心にした再植林や農業の後退もあった。年輪を調べてみると、この現象は急速な寒冷化の時代であったことと一致した。ローマ人は一つは作物を育てもう一つは休閑地にして雑草を取り除くために鋤を入れるという二圃制農業を実践していた。帝国の制度が徐々に崩壊したことで、所有者は奴隷の逃走を止められず、農園制度は崩壊した。組織的な農業は、大きく損なわれ、収穫量は生きるのにギリギリの水準まで減少した。 ほぼ1000年にわたってローマはヨーロッパで最も政治的に重要で豊かで広大な都市であった。紀元100年頃、人口は約45万人いた。中世前期には人口は2万人程度に減り、不規則に広がる都市を広大な荒廃地や草木に覆われて点在する住居群にした。 トゥールのグレゴリウス司教が天然痘の特徴的な所見を述べた目撃者の記述を提供した581年頃まで、天然痘は最終的に西ヨーロッパには入ってこなかった。繰り返す伝染病は、広大な農村の人口を一掃した。恐らく残った記録が不足しているために、伝染病に関する詳細はほとんど失われている。 (ユスティニアヌスのペスト(英語版))で1億人が死亡したと推定されている。ジョサイア・C.ラッセル(1958年)のような歴史家は、541年から700年にヨーロッパの全人口の50%から60%が失われたと示唆している。750年以降、主な伝染病は、ヨーロッパで再び14世紀に黒死病が現れるまで現れなかった。
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民族移動時代
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20世紀遅くになるまで、散発的なアレマン人の痕跡(特に1904年に発見された6世紀から埋葬されていたシュトゥットガルト=フォイエルバッハの墓地)を除いて、現在のシュトゥットガルトの市域に民族移動時代にヒトが住んでいたことを示す直接的な証拠は見つかっていなかった。しかしこの好立地な場所に継続的にヒトが住んでいたことは確実であると思われていた。集落の継続性を示す間接的な証拠がシュトゥットガルトおよびその周辺のケルト語に由来するいくつかの地名である。たとえば、ヴュルテンベルク (Württemberg) はヴィルテンベルク城 (Wirtenberg) に由来するが、これはケルト語の Virodunum を語源としている。プラークザッテル (Pragsattel) やプラークフリードホーフ (Pragfriedhof) の Brag-、ボプザー (Bopser) 、ブリー (Brie、かつては Brige という地名で、ケルト語の briga に由来する)、ネッカー川 (Neckar) や、おそらく カンシュタット (Cannstatt、ケルト語の Condistat に由来する) もケルト語由来である。これらの地名から他の南西ドイツとの類似推論ができる。現在のシュトゥットガルトの市区メーリンゲン、ファイインゲン、プリーニンゲン、ヘーデルフィンゲンは、語尾の -ingen が示す通り、少なくとも6世紀にまで遡ることができる。 ローマ時代に成立したカンシュタットは、612年に創設された聖ガレン修道院に対する寄進に関連して、700年頃に最初に文献に記録されている。これがこの地域の最も古い文献記録である。墓地の発掘調査からこの集落には500年頃からすでにキリスト教徒が住んでいた。彼らによって650年から700年までの間に現在のシュタイク墓地の敷地にマルティンス教会が建設されたことで、この集落は周辺地域にとって特別な重要性を獲得した。この教会はコンスタンツ司教区(ドイツ語版)に属し、現在のシュトゥットガルトの市域の大部分にとって母教会となった。この他の原始教会はコルンヴェストハイムにあった。635年に建設された教会で、現在の市域のやや北側に位置していた。3つめの教会は市域の南部プリーニンゲンに設けられた(600年頃)。これら3つの教会はいずれもフランク王国の守護聖人であるトゥールのマルティヌスに捧げられており、7世紀のシュトゥットガルト地域のキリスト教宣教の拠点となった。 シュトゥットガルト内市街地域にも民族移動時代にヒトが住んでいたことは最近になって証明された。2014年に中央駅の建築工事で、第16工区とその北に隣接するカンシュタッター通り沿いの導水管埋設現場において、地表から約 4 m 下に、3世紀から4世紀の初期アレマン時代の集落の遺構が発見された。259年/260年のリメス崩壊直後数十年で設けられたと推測される集落跡の発見は、この時代の数少ないアレマン人集落はほとんどすべてが高台に設けられていたため想定外のことであった。出土品には木造家屋の建築構造が含まれており、一部はオークの幹で造られた支柱の破片が遺っていた。これらの保存状態はとても良好で、年輪年代測定法によって精確な伐採年を知ることができるが、2019年になるまで行われていない。 この他にも1998年から2005年までの発掘調査により、アルテス・シュロス(旧宮殿)(ドイツ語版、英語版)の下で8世紀から定住が行われていたことが判った。シュティフツ教会の下には7世紀にまで遡る埋葬の跡が見つかった。この場所に教会ができたのが確実に判るのは10世紀または11世紀からである。それは単廊式の初期ロマネスク教会で、規模は幅 9.10 m、(半円形のアプスを含め)全長約 25.10 m(内部はアプスを除いて 6.30 × 15,75 m)であった。発掘品の保存状態が悪く、シュティフツ教会の下のわずかな部分しか調査されていないため、ここにさらに古い時代の教会があった可能性がある。この古い、おそらく木造の教会建築があると仮定すれば、それはメロヴィング朝の墓の上の教会の位置を示しており、さらにはシュティフツ教会の入り口方と同じ方角を向いているはずである。遅くとも9世紀以降にアルプスの北側で新築された教会は、やむを得ない理由や先行する建物といった条件がない限り、精確さに違いはあれ、常に東西方向を向いて建てられている。これに対してシュティフツ教会は、その先行する建物を含めて全てが、ほぼ正確に南西 - 北東方向を向いて建てられている。 インメンホーフェン(旧市街の南西に位置する現在のホイスタイクフィールテル)、トゥンツホーフェン(旧市街の東側、中央駅の近く)、フランケンバッハといった小集落も7世紀にまで遡る。「フランケンバッハ」は、950年あるいはその少し前にシュトゥットガルトの地名の元となった馬の飼育場 (stuotgarten) が創設される以前の、後にシュトゥットガルトになる集落の名前であった可能性もある。
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民族移動時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:56 UTC 版)
8世紀ごろ - ラーオ族の大量南下が始まる。 1238年 - スコータイ王朝が建国される。 1283年 - 南詔王国が滅亡する。 1296年 - チェンマイ王国が建国される。
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民族移動時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:54 UTC 版)
5世紀末、ランゴバルド人はドナウ川の中流域に現れる。彼らがエルベ川流域から何時、どのような経路で、何のために移動したのか、確実に言えることは何もない。ただしこの時移動したのはランゴバルド人の一部であり、エルベ川左岸地区にはかなりの人数が残留していたことが確認されている。残留したランゴバルド人たちは、少なくても12世紀までバルディ族(Bardi)の名でしばしば記録に登場する。 移動したランゴバルド人たちは、アンタイブ(Anthaib)、バイナイブ(Bainaib)、ブルグンダイブ(Burgundaib)を次々と襲撃し、住民を支配下に置いたとされる。この三つの地名はいずれも部族名から来ていると推定されるが、具体的にどこの土地を指すのかは判然としない。カルパティア山脈まで到達した後、東方から侵入してきたフン族と接触し戦闘が行われた。その後のフン族が関わるローマとの戦いにランゴバルド人が登場しないことから、フン族全盛期においてもランゴバルド人はその支配下には入らずにいたと考えられている。 5世紀後半、イタリアの支配権を握ったオドアケルが488年にノリクム属州の北側、ドナウ川の対岸に居住していたルギー人を撃破して追い散らし、現地でルギー人の支配下にあった住民をイタリアに移住させた上で撤退すると、空白地帯となったノリクム属州北側にランゴバルド人が移動し、ノリクム属州にはヘルール人が移住した。ランゴバルド人はヘルール人の支配下に入り貢納義務を負わされたが、数年後にはタトー(英語版)王の指揮の下、すぐ東方のフェルド(Feld)と呼ばれる平原に移動した。この地でヘルール人の支配に反抗し、勝利を収めて独立勢力となった。続くワコー(英語版)王の下、当時東に隣接して居住していたスエビ人を打ち破って支配下に置き、北側でもヘルール人を追ってモラヴィア(メーレン)、ベーメン地方を征服した。更にワコーはテューリンゲン族(英語版)の王女ライクンダ(Raicunda)、ゲピド族の王女アウストリグサ(Austrigusa)、ヘルール族の王女シリンガ(Silinga)を娶り、アウストリグサとの間の長女ウィシカルタ(Wisicharta)をフランク王国の王テウデベルト1世(英語版)へ、次女ワルデラータ(英語版)(Warderata)をテウデベルト1世の息子テウデバルト(英語版)へ、それぞれ嫁がせた。また東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と同盟を結び、ドナウ川中流域の有力な王として台頭するに至った。
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民族移動時代
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5世紀から6世紀のフィンランドを前期民族移動時代と呼び、8世紀末までを後期民族移動時代として区分する。 後期民族移動時代には錫製装飾品で有名な「サーミの金属舞納遺構」がある。8世紀から11世紀にかけてスウェーデン、ノルウェー、デンマークに国が作られたが、フィン人もサーミ人も国を作る事はなかった。フィン人は大まかにスオミ、ハメーンリンナ、カレリア(Karelians)の3つのグループがあったが、政治的には十分にまとまっていなかった。この頃の主な産業は夏の農業(大麦、ライ麦)と冬の狩猟(テン、リス、ミンク)であった。後者の動物の毛皮は交易品として重用された。
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民族移動時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:43 UTC 版)
ローマ軍がブリタンニアから撤退すると、一部ローマ化したケルト系住民は、無防備のままに取り残された。その後アングル人、サクソン人、ジュート人といったゲルマン系諸民族は、数世紀にわたって非常に残虐な交戦を重ねてイングランドを征服した。ケルト人が防衛のために戦った記憶は、アーサー王伝説に残っている。ウェールズ、コーンウォール、現在のスコットランドの一部地域では、スコット人(ドイツ語版)とピクト人が攻撃を撃退している。その後、古代末期から中世前期への転換期には、かつてケルト系であった住民が次第にゲルマン化していった。1066年、ローマ化したゲルマン人であるノルマン人がイングランドを征服したため、イングランドのゲルマン化には、一部でローマ化が加わった。
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