19世紀中盤の博徒間抗争とは? わかりやすく解説

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19世紀中盤の博徒間抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)

甲州博徒」の記事における「19世紀中盤の博徒間抗争」の解説

西保周太郎古屋左京壊滅後に甲州博徒世代交代し、19世紀中盤には博徒親分間の統合進んだ甲府町方には三井卯吉博徒親分目明し二面性持った人物として君臨した甲府盆地東部には、古屋左京勢力継承し卯吉の子分で田安領の目明しでもあった国分村国分三蔵勝沼祐天仙之助勢力持ち、竹居村竹居安五郎上黒駒村黒駒勝蔵敵対した。 さらに市川大門村には鬼神喜之助小天狗亀吉らが勢力持ち三井卯吉敵対し鴨狩津向村には駿河清水次郎長兄弟分である津向文吉勢力持ち竹居安五郎敵対した。安五郎文吉はともに富士川舟運活動圏とし駿河方面進出しており、弘化2年1845年)頃には鰍沢で安五郎津向文吉の間で出入発生したまた、同年には清水次郎長文吉次郎長叔父にあたる和田島太郎右衛門出入仲裁し文吉次郎長との関係を深めるこうした博徒間の出入激化に伴い甲斐では博徒取締強化され津向文吉嘉永2年1849年)に捕縛され明治2年1869年)に恩赦されるまで八丈島遠島となり、博徒間抗争から脱落するまた、嘉永4年1851年)には竹居安五郎捕縛され伊豆国新島遠島となる。津向文吉竹居安五郎脱落により甲斐国内では三井吉・国三蔵祐天仙之助対抗する大勢力が存在しない空白期入った嘉永2年8月から10月には武蔵国石原村無宿・幸次郎21名が武蔵国から甲斐国駿河国荒らしまわる事件発生している。幸次郎武蔵国秩父田中村無宿五郎配下で、嘉永2年4月5日に岩五郎・幸次郎遠州岡田村丹波伝兵衛伊豆国間宮久八大場久八)と衝突する両者抗争激化し8月25日には幸次郎21名が武蔵熊谷宿埼玉県熊谷市)で金品強奪傷害殺傷行った。幸次郎一行続いて秩父から甲斐へ入り9月6日には鰍沢河岸富士川町)において博徒・目徳(周徳)を殺害、さらに富士川下り駿河荒らしまわった後、ようやく韮山代官江川太郎左衛門甲府勤番支配鎮圧捕縛され同年12月に幸次郎処刑された。 嘉永6年1853年6月8日に、アメリカ合衆国マシュー・ペリー艦隊通商求めて来航し役人取り締まり弱体化していた隙を突き竹居安五郎新島島抜けすることに成功し甲斐へ戻りしばらく潜伏している。安政3年1856年7月には黒駒勝蔵が安五郎兄の中村甚兵衛の子分となり、勝蔵・安五郎の間で同盟成立し甲斐では国分三蔵対抗する勢力形成された。 安政4年1月1857年)には三井卯吉小天狗亀吉率い博徒11名により殺害され博徒間抗争国分三蔵祐天仙之助竹居安五郎黒駒勝蔵との争い移行していく。文久元年1861年3月頃には金川河原勝蔵三蔵間の出入起こり、これをきっかけ両者の間で数次抗争発生する同年6月には卯吉の子分を引き継いでいた勝沼祐天仙之助勝蔵との抗争激化に伴い甲斐から逃亡し江戸市中取締のため組織された新徴組入隊するが、文久3年1863年)に仙之助を仇としていた大村達尾に殺害される

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「19世紀中盤の博徒間抗争」を含む「甲州博徒」の記事については、「甲州博徒」の概要を参照ください。

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