19世紀中盤の博徒間抗争
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「甲州博徒」の記事における「19世紀中盤の博徒間抗争」の解説
西保周太郎・古屋左京の壊滅後に甲州博徒は世代交代し、19世紀中盤には博徒の親分間の統合が進んだ。甲府町方には三井卯吉が博徒の親分と目明しの二面性を持った人物として君臨した。甲府盆地東部には、古屋左京の勢力を継承し、卯吉の子分で田安領の目明しでもあった国分村の国分三蔵や勝沼の祐天仙之助が勢力を持ち、竹居村の竹居安五郎・上黒駒村の黒駒勝蔵と敵対した。 さらに市川大門村には鬼神喜之助・小天狗亀吉らが勢力を持ち三井卯吉と敵対し、鴨狩津向村には駿河の清水次郎長と兄弟分である津向文吉が勢力を持ち竹居安五郎と敵対した。安五郎・文吉はともに富士川舟運を活動圏とし駿河方面へ進出しており、弘化2年(1845年)頃には鰍沢で安五郎と津向文吉の間で出入が発生した。また、同年には清水次郎長が文吉と次郎長の叔父にあたる和田島太郎右衛門の出入を仲裁し、文吉は次郎長との関係を深める。 こうした博徒間の出入の激化に伴い甲斐では博徒取締が強化され、津向文吉は嘉永2年(1849年)に捕縛され、明治2年(1869年)に恩赦されるまで八丈島に遠島となり、博徒間抗争から脱落する。また、嘉永4年(1851年)には竹居安五郎が捕縛され伊豆国新島に遠島となる。津向文吉・竹居安五郎の脱落により甲斐国内では三井宇吉・国分三蔵・祐天仙之助に対抗する大勢力が存在しない空白期に入った。 嘉永2年8月から10月には武蔵国石原村の無宿・幸次郎ら21名が武蔵国から甲斐国・駿河国を荒らしまわる事件が発生している。幸次郎は武蔵国秩父田中村の無宿岩五郎の配下で、嘉永2年4月5日に岩五郎・幸次郎は遠州岡田村で丹波屋伝兵衛・伊豆国間宮村の久八(大場久八)と衝突すると両者の抗争は激化し、8月25日には幸次郎ら21名が武蔵熊谷宿(埼玉県熊谷市)で金品の強奪・傷害・殺傷を行った。幸次郎一行は続いて秩父から甲斐へ入り、9月6日には鰍沢河岸(富士川町)において博徒・目徳(周徳)を殺害、さらに富士川を下り駿河を荒らしまわった後、ようやく韮山代官・江川太郎左衛門や甲府勤番支配に鎮圧・捕縛され、同年12月に幸次郎が処刑された。 嘉永6年(1853年)6月8日に、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊が通商を求めて来航し、役人の取り締まりが弱体化していた隙を突き、竹居安五郎は新島を島抜けすることに成功し、甲斐へ戻りしばらく潜伏している。安政3年(1856年)7月には黒駒勝蔵が安五郎兄の中村甚兵衛の子分となり、勝蔵・安五郎の間で同盟が成立し、甲斐では国分三蔵と対抗する勢力が形成された。 安政4年1月(1857年)には三井卯吉が小天狗亀吉率いる博徒11名により殺害され、博徒間抗争は国分三蔵・祐天仙之助と竹居安五郎・黒駒勝蔵との争いに移行していく。文久元年(1861年)3月頃には金川河原で勝蔵と三蔵間の出入が起こり、これをきっかけに両者の間で数次の抗争が発生する。 同年6月には卯吉の子分を引き継いでいた勝沼の祐天仙之助は勝蔵との抗争激化に伴い甲斐から逃亡し、江戸市中取締のため組織された新徴組に入隊するが、文久3年(1863年)に仙之助を仇としていた大村達尾に殺害される。
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