JPモルガン・チェース
(J.P.モルガン から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 15:26 UTC 版)
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種類 | デラウェア州株式会社 |
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市場情報 | |
本社所在地 | ![]() ニューヨーク州ニューヨーク市パーク街270番地 北緯40度45分20.88秒 西経73度58分31.44秒 / 北緯40.7558000度 西経73.9754000度 |
設立 | 1799年(バンク・オブ・マンハッタン) |
業種 | 金融サービス |
法人番号 | 7700150000813 |
売上高 | 996億2400万ドル(2017年12月) |
営業利益 | 244億4100万ドル(2017年12月) |
総資産 | 2兆5300億ドル(2017年12月) |
従業員数 | 260,095人(2011年12月) |
主要子会社 | Chase |
関係する人物 | ジェームズ・ダイモン(会長兼CEO) 李家輝(日本事業責任者、日本代表) |
外部リンク | www.jpmorganchase.com |
JPモルガン・チェース(英語: JPMorgan Chase & Co.)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州に本社を置く銀行持株会社。商業銀行であるJPモルガン・チェース銀行(JPMorgan Chase Bank, N.A.)や、投資銀行であるJPモルガン (英語版)(J.P. Morgan & Co.)を子会社として有する。JPモルガン・チェース銀行は米国外を含む商業銀行業務[注釈 1]を、JPモルガンは米国外を含む投資銀行業務[注釈 2]を分担している。ヘッジファンド部門は米国最大で、340億ドルを管理している[1]。
概説
合併と公的資金
2000年にケミカル(チェース・マンハッタン)とJPモルガン・アンド・カンパニー(JPM)との経営統合で誕生した。その後、アラバマ州で地方債を発行し手数料を稼いだ。賄賂が多方面に支払われていたので事件化した。JPモルガン・チェースは、自治体の財政にとって危険な債務債券化協定を結んでいた。
2002年、メリルリンチやシティグループ同様、エンロンの財務状態を知っていたことが報じられた。
2004年、当時米国6位の商業銀行バンク・ワン[注釈 3]を買収。2006年4月7日、法人信託部門をバンク・オブ・ニューヨークへ譲渡し、代わりにBNYのリテール部門を取得した。さらに、2007年以降の世界金融危機で経営状態の悪化した銀行を買収し規模を拡大した。2008年5月に当時米国5位の投資銀行ベアー・スターンズ[注釈 4]を買収。このベアー・スターンズがリビア投資庁(Libyan Investment Authority)へ2億ドルを貸し付け、600万ドル以上の賄賂をカダフィ政権に供与して2007年7月に融資を成約させたという。この疑いでリビア投資庁は2018年9月にJPモルガン・チェースを訴えた[2]。ソジェンも同ファンドに賄賂で損失を与えた事件で罰金を課されている。2008年9月JPモルガン・チェースは当時米国最大の貯蓄貸付組合 ワシントン・ミューチュアル[注釈 5]を買収。2008年10月13日 アメリカ財務省長官、連邦準備理事会議長、通貨監督局、連邦預金保険公社、ニューヨーク連邦準備銀行に不良債権救済プログラム(TARP)実施について同意を求められた。 2007年の金融危機以降、連邦準備制度のベイルアウトを受けていた。2009年3月、JPモルガンの組んだ合法的インサイダー取引スキームをウィキリークスが公開した[3]。
アメリカ最大の銀行
投資銀行部門であるJPモルガンは、2006年3月に東京支店が、TOPIX先物の約定指数を操作したことに対して業務停止処分を受けた[4]。また、JPモルガンは同年4月1日設立の年金積立金管理運用独立行政法人から委託されて、2014年10月現在まで日本株式のアクティブ運用を行っている。JPモルガンは投資銀行業務のグローバル総合リーグテーブルにおき、2009~2012年の4年連続でゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレー等を上回り、首位であった[5]。2013年、JPモルガンは電力価格操作により、アメリカ合衆国エネルギー省から4.1億ドルの制裁金を課された[6][7]。この価格操作はスマートメーター普及中のカリフォルニアで行われた。親会社の前身であるJPモルガン・アンド・カンパニーは、戦間期にトーマス・エジソンと電力事業を寡占していた。この独占体はゴールドマンの投信ピラミッドに連結して世界恐慌を大衆化させた。
2011年10月にバンク・オブ・アメリカを抜き、アメリカ最大の資産を擁する銀行となった[8]。それまでグループ企業だけでなく自社の資本調達にまでミューチュアル・ファンドを活用していたものとみられる。同年、アメリカン・センチュリーがJPMファンド販売の役割を全うしたのでCIBCに41%買収され、そのうちおよそ10億ドル分が野村証券に転売された。
2013年12月4日、JPモルガン・チェースはカルテルを使ったLIBOR等不正操作により欧州委員会から制裁金を課された。
2014年1月、バーナード・L・マドフ受刑者による巨額詐欺事件に関し、米当局などに約26億ドルを支払うことに合意した。銀行秘密取引の報告等に関する法律(Bank Secrecy Act of 1970)による不審取引報告を怠った疑い。検察官は、受刑者の犯行には過去にないほど十分な兆しがあったにもかかわらず、同行は見逃したと主張している[9]。
同年11月、ルクセンブルク・リークスで租税回避が発覚した。
ビッグビジネス
2015年3月、先の電力価格操作は親会社のJPモルガン・チェースに対するクラスアクションにまで発展していることが報じられた[10]。9月15日、ブロックチェーン開発コンソーシアムR3CEV LLC を発足させた。
2016年11月、ドナルド・トランプの顧問らがジェームズ・ダイモンを財務長官に推挙する一方[11]、JPモルガン・チェースは中国での事業獲得のために政府高官の親族採用で便宜を図ったとされる問題で、2億6400万ドルの制裁金を支払うことで当局と合意した[12]。採用の事実そのものはこれまで数回報道されている。また、制裁金は連邦準備制度にも支払われる。
JPモルガンの中国進出は今に始まったことではない。1915年にフランク・ヴァンダーリップがAmerican International Corporation を創設した。資本金は5千万ドル。AIC はビジネスを目的に中露・南米へ資金と銀行と役人を送り出した。JPモルガンはAIC 三代目の副会長ウィラード・ストレート(Willard Dickerman Straight)を働かせてイギリスを懐柔した。AIC 子会社のSiems-Carey Company は、中国政府から京広線武昌~長沙間の敷設を認可された。AIC は日本興業銀行と協力関係にあるといわれたが、それらしく1917年三井物産と京杭大運河プロジェクトに合意した。三井物産はゼネラル・エレクトリック、アメリカン・ロコモティブ、バキューム・オイル、Swift & Company の総代理人であった。[13]
2017年1月、ブラックロックの資産1兆ドル超を保管・管理するカストディアン業務契約を結んだ。JPモルガン・チェースは約2年かけてブラックロックの資産をステート・ストリートから移す。[14][15]
同年12月21日、1MDBの資金を流出させ同ファンドを破綻させた巨額取引のあつかいにおいて、JPモルガン・チェース・スイスが資金洗浄防止規則に反した事実をスイス当局(FINMA)が見つけた。ロスチャイルド、クーツ商会(現ナットウエスト・グループ傘下)、UBS、クレディ・スイスに続く摘発であった。重大な違反とされたにもかかわらず、罰金その他の制裁は一切なかった。銀行団の摘発は続いているが、当局は最後の対象について行名を明らかにしなかった。[16][17][18]
2018年3月、ユーロクリアから100億ユーロのリビア凍結資産が消失した事実をベルギー当局が見つけた[19]。
歴史
ケミカル
1823年に創業されたニューヨーク・ケミカル・マニュファクチャリング(The New York Chemical Manufacturing Company)は化学工業会社であったが、翌1824年4月に金融業務へ参入、子会社としてケミカル・バンク・オブ・ニューヨーク(Chemical Bank of New York)が設立された。最初の頭取はバルタザール(Balthazar P. Melick)で、二代目がジョン・メイソン(John Mason)であった。1844年、親会社の営業特許が切れてケミカル・バンクもそのまま清算された[20]。1838年の銀行法に合わせてケミカル・バンクだけが再興されたが、1851年までに会社財産をあらかた売り払って株主に配当した。
来日以前からの決済機関
1853年、ケミカルはニューヨーク手形交換所(New York Clearing House)の設立メンバーとなった。1857年恐慌にあっても銀行券を兌換したので「古金塊」とあだ名された。しかし他行の窮状には冷淡であったので、一時は手形交換所から締め出された。南北戦争の間に預金総額を劇的に増やして、1871年までに600万ドルを超えた。1865年からは国立銀行法(1865年)の営業特許を得ていた。内容は特権的で、他の国立銀行の準備金を預かる立場となったのである(Federal Chemical National Bank of New York)。ケミカルの優位性は1907年恐慌までに失われた。[20]
1929年、ニューヨーク州が国立銀行法よりも高い信託業務割合を認めるというので会社形態を州法銀行に改めた(Chemical Bank and Trust Company)[20]。ケミカルは世界恐慌にあっても預金総額を1941年まで増やしつづけた[20]。1934年アイビー・リーが証言したところによると、彼がIG・ファルベンインドゥストリーのマックス(Max Ilgner)からもらった最初の年金給付45000ドルは、IGケミー名義でケミカルの投資信託(New York Trust Company)へ預託されていた。
1945年10月ごろ、日本が貿易するのに使われる外貨中心の対外決済資金をアメリカ陸軍省がケミカルに預託した。この決済資金は後にSCAPへ移管され、手続が1951年8月末には完了した[21]。SCAP勘定の預金口座は次の各行(いずれも東京支店)へ開設された[22]。すなわちニューヨーク・ナショナル・シティー、バンカメ、チェース・ナショナル、香港上海銀行、チャータード、和蘭銀行、蘭印商業銀行である。このうちバンカメとチェース・ナショナルを除く5行の財産は日銀の管理下にあったが、1951年12月24日までにすべて返還された[23]。ケミカルはロビー団体のアメリカ対日協議会と関係していた。
アナコンダ救済とリースコ事件
1954年、コーン・エクスチェンジ・バンク(Corn Exchange Bank)を買収した。
1967年、チェース・マンハッタンとモルガン・ギャランティ・トラスト、そしてシティ・バンク・オブ・ニューヨーク(現シティグループ)を伴い、アナコンダ銅鉱山会社に総計8000万ドルを協調融資。
1969年2月、ソウル・スタインバーグ(Saul Steinberg)のリースコ(Leasco Data Processing Equipment Corporation)から敵対的買収を仕掛けられた。リースコはメインバンクがファースト・ボストン(現クレディ・スイス)だった。ケミカルは事前に買収を察知していたばかりか、傘下のミューチュアルファンドがリースコ資本の27%以上を握っていた。プライスウォーターが防衛策を立案し、元イングランド銀行理事のジョージ・ボルトン(George Bolton)がリースコのボイコットを約束した。パワー・コーポレーション(Power Corporation of Canada)のミューチュアルファンド(Putnam Investments)などがリースコの株を一斉に売り払い、買収計画を混乱させた。PCCは後にグループ・ブリュッセル・ランバートの株主となる独占体である。防衛が成功した礼状としての祝電は、AT&T・デュポン・USスティール・シアーズ・IBM等の重鎮へ打たれた。その中にはメロン財閥の牙城ピッツバーグで財を成したヘンリー・ヒルマン(Henry Hillman)がいた。ユダヤ人のソウルは自身がエスタブリッシュメントの一員であると思っていたが、裏切られた。[24]
PNCに84支店を売却するまで
1975年にロングアイランドの金融ネットワーク(Security National Bank)を買収した。
1982年にフロリダ・ナショナル銀行(Florida National Bank)を買収した。 1983年時点でニューヨーク連邦準備銀行の会員銀行である。この年に変死した、セデル社のジェラール・ソワソンが残した書類によると、ケミカルはセデルに匿名口座を開くように要求していた。1986年にテキサス商業銀行(Texas Commerce Bank)を買収した。
1991年、マニュファクチャーズ・ハノーヴァー・トラスト(Manufacturers Hanover Trust)を買収した。
1995年、ニュージャージーの84支店をPNC(PNC Financial Services)に売却した[20]。1996年、チェース・マンハッタンを買収したが、新社名には買収先を残した。さらに2000年、チェース・マンハッタンがJPMと経営統合するが、現在もその本社機能はケミカルのものを引き継いでおり、また法定手続上の直接の前身である。
チェース・マンハッタン
チェース・マンハッタン・バンク(The Chase Manhattan Bank)は、1955年にバンク・オブ・マンハッタンがチェース・ナショナル・バンクを買収して発足した。1958年クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。これと競争するため、1960年チェースマンハッタン銀行が「マスターチャージ」を発明した。1962年に現在のMasterCardにブランド名を変更し、現在に至る。1965年、バンク・ブリュッセル・ランバート(Bank Brussels Lambert)に参加し、ベルギー商業銀行にも49%資本参加した[25]。1970年代から1980年代にかけてはデイヴィッド・ロックフェラーが同行の頭取を務めた。この頃は債券・株式市場、シンジケートローンからクレジットカード、住宅ローンに至るまで、幅広い分野で高い業績を残した名門銀行だった。1981年、チェースの200万ドル誤送金問題に関するチェース・マンハッタン銀行対イスラエル・ブリティッシュ銀行(ロンドン)の裁判事件は不評を受けた。1985年、チェース・マンハッタン信託銀行を設立した(現日本マスタートラスト信託銀行)。1990年代に入ると不動産市場低迷の影響を受けてかつての地位を失い、[要出典]1996年ケミカルと合併した。
チェース・マンハッタンの前身2行についても書いておこう。[独自研究?]バンク・オブ・マンハッタン(マンハッタン銀行)は1799年の創立で、JPMチェースの前身企業中最古の歴史をもつ。かつて水道事業者だったマンハッタン社(The Manhattan Company)を、アーロン・バーが銀行に転換させた。現在のJPMチェースのロゴは前身のチェース・マンハッタンのものであり、そしてさらに前身のバンク・オブ・マンハッタンのものである[注釈 6]。とにかくマンハッタン銀行は最古参であるニューヨーク銀行と競争したが、1853年ニューヨーク手形交換所の原加盟銀行となってからは、ライバルとも一定の人的関係をもつようになった。1929年国際引受銀行(International Acceptance Bank)と合併したとき、M・M・ヴァールブルク&COのポール・ワーバーグ(Paul Warburg)が会長となった[26]。
チェース・ナショナル・バンクは1877年の創立で、名前はサーモン・チェイスにちなむ。しかし経営者のジョン・トンプソンとは仕事上の関わりがなかったようである。チェースは1917年、他の国内銀行33行とカナダの一銀行に混ざり、国外進出用ファンドをつくった(American Foreign Banking Corporation)。1923年ロンドンに代理店を出した。1925年、AFBCのハバナとパナマ支店を買収した。1929年チェース証券がアメリカン・エキスプレスの経営権を握った。1930年、チェースはエクイタブル信託(エクイタブル生命子会社)と合併し、多国籍企業となった。エクイタブル信託社長(Winthrop Aldrich)はロックフェラー家と姻戚関係にあり、1934年チェース会長となった。1951年に香港支店を閉じた。毛沢東の監視下でやってはいけなかった。[25]
JPモルガン
ロン・チャーナウの手による伝記が有名である(『モルガン家』 日本経済新聞社 1993年)。
ロスチャイルドの支援
マサチューセッツ州出身のジョージ・ピーボディは、ロンドン在住中にロスチャイルド家から支援を受け、ジョージ・ピーボディ&カンパニーを設立し金融業を始めた。当初は米国債をイギリスの投資家に仲介するのが主な業務だった。このとき共同経営者として迎え入れられたのがジニーアス・スペンサー・モルガンであった。
のちにモルガンが代表を引き継ぎ、社名はJ. S. モルガン&カンパニーとなった。
J・S・モルガンの息子であるジョン・ピアポント・モルガン(J・P・モルガン)は、マーチャント・バンカーであった父の事業を米国内で広げ、1871年にJP モルガンの前身となるドレクセル・モルガン&カンパニー(Drexel, Morgan & Co.)をフィラデルフィアの銀行家、アンソニー・J・ドレクセルと共同でニューヨークに設立した。ドレクセルの死後、1895年にドレクセル・モルガン&カンパニーはJ.P. モルガン&カンパニー(J.P. Morgan & Company)となる。JPMはアンドリュー・カーネギーほか米国内の鉄鋼会社を買収し、USスチール社を設立し業界を再編。世界初の時価総額10億ドル企業誕生の仕掛人となった。1895年、米国債を金6200万ドルで引き受け、後の償還ではこれを現金1億ドルに換えて手に入れた。
世界の科学と戦費
J.P. モルガン&カンパニーは、製紙、電気事業にも投資を行いさらに巨大化した(ゼネラル・エレクトリックなど)。1905年ドレスナー銀行をコルレスバンクにした。1914年にウォール街に建設された本部は「モルガン邸[注釈 7]」と通称され、金融資本による経済支配の象徴的存在となった[注釈 8]。第一次世界大戦中にはイングランド銀行が発行する戦時債券の独占代理人を引き受けた。加えてイギリス・フランスの軍需物資を立て替え払いで調達した(各国累計180億ドルと60億ドル)。関東大震災では、1911年から共同経営者となっていたトーマス・W・ラモントが米国側シ団を組織、借款を承認した[注釈 9]。
JPモルガンは1917-1926年の間に総額で120億ドル近くの資金を以下の各国へ貸し出している。オーストリア、キューバ、カナダ、ドイツ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリア。オーストリアはクーン・ローブとのつきあい。
モルガン・ギャランティ・トラスト
JPMは1928年に初めて米国預託証券を発行、翌年の世界恐慌により打撃を被る。これを受けてグラス・スティーガル法(銀行と証券の兼営を禁止する法律)も制定され、市中銀行になるか投資銀行になるかの選択を余儀なくされた。JPMは恐慌以前に比較的収益の安定していた市中銀行としての道を選び、分離された証券・投資銀行部門はその後モルガン・スタンレー(MS)となった。誤解されがちだが、MSの「モルガン」はジョン・ピアポント・モルガンに由来するものではなく、投資銀行部門の一般社員から昇進したヘンリー・モルガン(ジョン・ピアポント・モルガンの孫)の名前から付けられている。
新生JPMは1940年に法人格を取得。同年の投資会社法でミューチュアル・ファンドが制度化され、厳格な同族経営の必要が薄れた。1959年にはギャランティ・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨークと合併し、ICSDユーロクリアを支配するモルガン・ギャランティ・トラストとなるが[27]、10年後に持株会社を設立し、再び社名がJ.P. モルガン&カンパニーに復帰した。
LTCM救済融資まで
パットマン報告書が1960年代半ば金融界の独占を統計資料で明らかにした。JPMは戦後経済に投資家多角化サービス(Investors Diversified Services, IDS)という最大のミューチュアル・ファンド複合体を組み上げていた。それをパットマン報告書は機関化問題として論じた。リチャード・ニクソンは大統領候補であり、IDSの取締役でもあったが、チャールズ・コルソンというファンド・ロビイストの書く手紙に署名までしてやっていた[28]。その数年後にIDSはエクイティ・ファンディング事件を引き起こした。
1980年代を通じてユーロ債市場をリードする[注釈 10]。ユーロ債取引の大部分はユーロクリアとクリアストリームで決済された。JPMこそ決済事業に傾斜したが、モルガン・スタンレーとIDSはディーラーであった。1983年7月、モルガン・ギャランティ・トラストが野村証券と日本に共同出資で信託会社をつくることで合意した[29]。この信託会社は「当面」、アメリカの企業年金を対象にした投資顧問業務を行う計画であった。この当時、年金運用は信託銀行と生命保険会社だけが認められていた。公的年金は大蔵省の資産運用部が財政投融資として活用していた。信託銀行、生保、大蔵省は野村=モルガン連合に反発した。なぜなら、野村は国内企業年金の投資顧問業務上の「投資一任勘定」を認めさせようとしていたからである。抵抗むなしく日米円・ドル委員会が容赦ない圧力をかけて、1985年6月に外資系信託銀行9行の設立を認めさせた。こうして翌1986年末に東京がオフショア市場となったのである。1987年、JPMがブラジルに無利子で13億ドルを融資した。JPMは1990年代半ばまでホールセール・バンクとして活躍した。
1997年、アメリカン・センチュリー(American Century Investments)の45%をJPMが買収した[30]。このアメリカン・センチュリーは当時アメリカで4番目に大きいミューチュアル・ファンド直販会社であったが、以降14年間JPMファンドの手足となってグループの資本を調達した。1998年、ロングターム・キャピタル・マネジメントの救済融資に参加した。1999年成立のグラム・リーチ・ブライリー法により銀証分離が撤廃されると、翌年にチェース・マンハッタンとの経営統合し、再び投資銀行となった。
バンク・ワン
バンク・ワン(Bank One Corporation)は、1998年にバンク・ワン・オブ・オハイオとファースト・シカゴ(First Chicago Bank)・NDB(National Bank of Detroit)が合併して誕生した。バンク・ワン・オブ・オハイオは、オハイオ州地盤だったシティ・ナショナル・バンク・オブ・コロンバス=オハイオを中心とした地元銀行の持株会社として設立されたファースト・バンクグループ・オブ・オハイオが前身である。ファースト・バンクグループがバンク・ワンと社名を変更したのに合わせて、傘下の銀行も合併しバンク・ワンとなった。他の州へ業務を拡大し、銀行を買収する際も、常にバンク・ワンの名称を用い続けた。
NBD(デトロイト国法銀行)との合併後は業績が悪化し、祖父の代からバンク・ワンの頭取を務めてきたオーナーのジョン・B・マッコイは退任を余儀なくされた。代わってシティグループから転身したジェミー・ディモンが頭取に就任、改革を進めた上でJPMチェースに自社を売却するとともに、JPMチェースのCEOに就任した。
2003年9月バンク・ワンは、バンカメなどと共謀しミューチュアルファンドを利用した短期取引と時間外取引で不正な利益をあげた疑いで、ニューヨーク司法当局に捜査されているが、別会社の不正取引も次々に摘発された。
十年後、デトロイトは財政破綻した。2009年に破綻していたゼネラルモーターズは、2013年まで公的資金をつなぎ融資として、ヴァンガード、ブラックロック、ステート・ストリート、バークシャー・ハサウェイなどに機関化された。
営業拠点


JPモルガン・チェース世界60カ国以上に営業拠点を持つ多国籍企業である。
かつてはマンハッタンのダウンタウンにあるチェース・マンハッタン・プラザが本社だったが、現在はパーク街270番地にグループ全体の統括本部を置く。リテール部門のチェースは、2004年に買収したバンク・ワンの本拠地であるシカゴに移っている。クレジットカード部門の本部はウィルミントンにある。テキサス州地盤のテキサス・コマース・バンクを買収した経緯から、同州のヒューストンが南部における総代理店としての役割を担っている。この他主要な支店はフェニックス、コロンバス、フォートワース、インディアナポリスなど。
BBCニュースは、JPMチェースが、ニューヨークのダウンタウンからコネチカット州に移転しないことを確約する助成金を受け取ることで、ニューヨーク市/州と合意したと報じた[31]。アメリカ同時多発テロ事件以降、他の企業も同様の助成金を受け取っていたが、JPモルガン・チェースに対してのそれは最大であった。
(9.11で被災した)ゴールドマン・サックスによるバッテリー・パーク・シティ新オフィス建設のため、ニューヨーク州当局は既に同社に対し6億5,000万ドルを支払った。〔中略〕しかし「JPモルガン・チェースは、法人税や電気料金の減額、オフィス賃料助成など、総額1億ドル相当を加えた、さらに好条件の待遇をニューヨーク州/市当局から受けるだろう」、また「賃料助成は年間5,000万ドルで15年分、すなわち7億5,000万ドルに上る」と同紙は報じている。JPモルガンは巨大かつ大変な高収益企業である。 — BBCの記事
スポンサー
- ナショナルリーグ西部地区に所属するアリゾナ・ダイヤモンドバックスのスポンサーであり、そのホームスタジアムのチェイス・フィールドの命名権を取得している。もとはバンク・ワンによるスポンサー・命名権取得であり、バンク・ワン・ボールパーク(B.O.B.)として親しまれていたが、合併に伴い変更された。
- 米国のプロサッカーリーグ「メジャーリーグサッカー」の公式スポンサー。
- テニスの4大国際大会の1つである「全米オープン」の公式スポンサー。
脚注
注釈
- ^ 預金、クレジットカード、住宅ローン、自動車ローン、学生ローン、保険、投信、オンラインバンキング等。
- ^ 資産管理、証券業務、プライベートバンク、プライベートエクイティ。
- ^ 総資産2900億ドル。1800支店。2003年9月現在。
- ^ 総資産3945億ドル。2008年2月現在。
- ^ 総資産3070億ドル。2207支店。2008年9月現在。受け皿となっていた連邦預金保険公社から支店銀行を19億ドルで買収。
- ^ かつての水道事業に因んで、木製水道管の断面が図案化されている。
- ^ ユーロクリアにも看板がない。
- ^ 反体制派の標的ともなり、1920年には本部前でテロリストによる爆弾事件が発生。33人が死亡し400人が重軽傷を負ったこの事件では、「もはや我慢の限界だ。政治犯を解放しなければ、貴様ら全員に死が訪れる」という中身の脅迫文が無政府主義者を名乗る者から送り付けられている。FBIが捜査にあたったが、1940年に最後の事件報告書を提出し、ついに犯人は特定されなかった。
- ^ 1927年に訪日、勲二等旭日重光章を胸に天皇を拝謁している。
- ^ JPM は1979年に参入した。
出典
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- ^ “Bank subsidy for Ground Zero move”. BBC News (2007年6月14日). 2007年8月2日閲覧。
関連項目
外部リンク
ジョン・モルガン
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ジョン・ピアポント・モルガン
J. P. Morgan |
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ジョン・ピアポント・モルガン
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生誕 | 1837年4月17日![]() |
死没 | 1913年3月31日 (75歳)![]() |
職業 | 投資家・銀行家 |
配偶者 | フランシス・ルイーズ・トレイシー |

ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカのモルガン財閥の創始者。金融王と称えられた。
ゲッティンゲン大学を卒業後、ロンドンで父が起こしたJ・S・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。その豊富な資金力を活かして多くの鉄道を経営・統合し、USスチールも設立した。19世紀末にアメリカ最大の財閥の1つとなった。海運・電力・通信事業にも進出した。
生誕から青年まで

ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント。
ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミーに首席で進学。1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているイングリッシュ・ハイスクールへ入学した。
1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、投資信託のメッカであるボストンに戻って勉学を続けた。
ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイスのヴェヴェイ近くにある学校に進学した。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学した。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとロンドンに戻り、学業を修了した。
1857年、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務(ジョージ・ピーボディを参照)。1860年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。 南北戦争時の翌年、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却してスキャンダルになった(ホール・カービン事件)。ハートフォード・パブリック・スクールの教師を人脈にもっていたモルガンは、教師の親戚サイモン・スチーブンスを代理人に立ててライフル購入資金を貸し付けていた[1]。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。
1864年、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーをつくった。1871年、フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセル(Anthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893年に死去した後、1895年にJ・P・モルガン・アンド・カンパニー(現JPモルガン・チェース)となる。
鉄道トラストとモルガニゼーション
モルガンの権力志向はダイナミックな金融の競争において見られた。1869年、ジェイ・グールドとジム・フィスクからアルバニー・アンド・サスケハナ鉄道の経営を奪取。モルガンは株を引き受けるシンジケートを率いて、ジェイ・クックが独占していた政府の資金調達の役割を奪取。また、鉄道開発への投資に深く関わるようになる。
1885年、モルガンはニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建し、ニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)に貸し付けた。1886年にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道を、1888年にはチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)を再建した。そしてジェームズ・ジェローム・ヒルとともにグレート・ノーザン鉄道(GN)の経営に深く関わっていく。
1887年に州際通商法が成立した後、モルガンは1889年と1890年に鉄道会社の首脳を集めた会議を開き、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。
このような、モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法はモルガニゼーションと呼ばれた[2]。モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた[3]。
こうしたトラスト形成の過程で、1901年にはエドワード・ヘンリー・ハリマンとの間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)の争奪戦が起こり、ノーザン・パシフィック・コーナーと呼ばれる株式の異常高騰を誘発した。これは1901年恐慌へ発展した。
合衆国の「中央銀行」として
1895年、1893年恐慌の影響でアメリカ合衆国財務省が保有していた金の海外流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。
当時の民主党のグロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請[4]。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896年の大統領選挙において同じ民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した[5]。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。
セオドア・ルーズベルト大統領は不当なトラストに対して、それまで使われることのなかったシャーマン反トラスト法を発動し、企業の集中化を牽制した[6]。ルーズベルトの考えは、資本と生産の集中、すなわち企業合同は歴史の必然であり、合衆国に豊かな生活と高い生産性をもたらすものであることは認めるものの、巨大企業は公益の立場から政府の規制を受けなければならないというもので、すなわち、「良いトラスト」を援助しつつも「悪いトラスト」は壊すべきという考えに立ち、そうしないと過激化する「悪い労働組合」がはびこり、社会主義の勃興を許してしまうという考えから導き出されていた[6]。ルーズベルトは大統領職8年の間に44のトラストを告発し、1902年にはモルガンの支配する鉄道トラスト、北方証券会社を起訴し、同社は解散を余儀なくされた[6]。他方、モルガン系で資本金10億ドルの鉄鋼トラスト、USスチールが「1907年恐慌」の際、南部のテネシー石炭・鉄会社を買収することは容認し、モルガン側に妥協した[6]。
モルガンは鉄鋼トラストを形成してから、1907年恐慌の処理では主導的役割を演じた。。1910年11月、モルガンが所有するジキル島クラブで連邦準備制度の設立に向けた秘密会議を主催した。そこにはジョン・ロックフェラー、ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト、そしてバンカーズ・トラスト(現ドイツ銀行)のベンジャミン・ストロングなどが出席した。
1912年12月、モルガンはプジョー委員会で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。ファースト・ナショナル銀行とナショナル・シティ銀行の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに合衆国最高裁判所の裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした[7]。プジョー委員会はインサイダー取引や取引所ぐるみの株価操作が日常化しているウォール街の改革案として、有価証券リテールの連邦政府監視や株式公募のインベスター・リレーションズを主張したが、第一次世界大戦が勃発して改革は立ち消えとなってしまった[8]。
鉄鋼トラストの形成
モルガンはフェデラル・スチールの創立に融資したのち、 カーネギー・スチール(Carnegie Steel Company)及びその他数社の製鉄企業を合併して USスチールを設立。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルであった[9][10]。
この買収劇がメディアに届いたのは1901年1月半ばであった。同年、モルガンはいくつかの鉄鋼会社を統合しUSスチールを設立した。USスチールは世界初の10億ドル企業となり、株式の時価総額は14億ドルとなった[11]。
USスチールは輸送経費・生産経費の削減と配当の増大とを両立させ、生産性の拡大をめざした[9]。これはまた、アメリカの製鉄が国際的な市場においてイギリスとドイツを打ち負かすための計画でもあった。USスチールは、初代社長のチャールズ・シュワブらにより、グローバリゼーションのために必要だと主張された [9]。USスチールはアメリカン・ブリッジやアメリカン・スチール・アンド・ワイヤーなどの企業を傘下に納め、鉄鋼生産だけでなく橋梁製作、造船、鉄道車両やレールの製造、ワイヤー、釘その他の生産においても他を圧倒しようとしており、シュワブは、1901年には鉄鋼生産の3分の2を占めたUSスチールのシェアはすぐに75%にまでなると信じていた[9]。批評家たちはUSスチールをトラストだと考えていた。
しかしながら、1901年以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは1903年にUSスチールを辞し、ベスレヘム・スチール(現ミッタル・スチール)を設立。建設現場で使用されるH形鋼を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。
J・P・モルガン・アンド・カンパニー
1900年までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンはジョージ・パーキンスをパートナーとした。
J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアのドレクセル・アンド・カンパニーをはじめ、パリのモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJ・S・モルガン・アンド・カンパニーと密接な関係を持ち続けた。
モルガン・ハージェス・アンド・カンパニーは、元々がドレクセルとジョン・ハージェスの事業であった。パナマ運河をめぐり、合衆国は利権を買うためにフランスへ5000万ドル支払った。この金を二人が工面した。しかしドレクセルが死んで、事業はモルガンの名を冠した。
J・S・モルガン・アンド・カンパニーへは、1904年にエドワード・グレンフェルが共同経営者として参加した。5年後、彼の地位を反映させるためモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニーに改名した。このモルガン・グレンフェル銀行はドイツ銀行に買収されて、ドイチェ・モルガン・グレンフェル銀行となった[12]。
海運トラストの形成
モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。
1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事(International Mercantile Marine Co.、IMM)を設立した。IMMはホワイト・スター・ラインの親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。ハパックロイドと協力してキュナード・ラインと激しい競争を展開した。
電気・無線への投資
1878年12月31日、ドレクセル・アンド・カンパニーはトーマス・エジソンと契約した。モルガン肝いりのエジスト・ファブリと企業弁護士のグローヴナー・ラウリーも同日に受託者として署名した。契約によりドレクセル・アンド・カンパニーは5年間エジソンの特許を保護することになり、見返りに特許権のあらゆる処分を受託者へ指示できることになった。[13] この期間内であった1882年7月、Campagnie continentale Edison, Société électrique Edison, Société industrielle et commerciale Edison フランスのエジソン系列3社から、ほどなくAEGを設立するラーテナウがエジソンの特許を買った。
一方、ドレクセル・アンド・カンパニーはエジソンの電気照明会社EEIC へ巨額を投じた[14]。EEIC は1882年当初電気料金を徴収せず、翌年の四半期2回続けて12000ドル以上の損失を出して、通年でも赤字を計上した[15]。EEIC は資金難に直面、発行株式が投資家に敬遠されたのを受けて、保証シンジケート団をつくった。そして引受参加者にEEIC 株式の相当割合を無償で発行することにした。[16] ドレクセル・アンド・カンパニーはシ団の中心となったのである。
1892年、モルガンはエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックを合併、ゼネラル・エレクトリックを誕生させた。こうしてモルガンの自邸は個人の家として初めて電灯が灯った。
1900年ニコラ・テスラのすすめで、グリエルモ・マルコーニの無線通信実験にウォーデンクリフ・タワーの建設費を含めた15万ドルを融資した。条件は特許利益の半分。実験は大西洋をまたにかけて行われた。マルコーニの無線はやがて世界を席巻する。テスラは契約してすぐに欲を出した。事業を無線送電に拡大したいというのである。しかしモルガンは契約違反と解釈した。融資が途絶えて1906年にタワー廃業となった。[17][18] また、この頃にモルガンはAT&T と人的・資本的関係を深めた。
ロンドン
ニューヨーク
- 1861年 - J・P・モルガン・アンド・カンパニー
- 1864年 - ダブニー・モルガン・アンド・カンパニー
- 1871年 - ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニー
- 1895年 - J・P・モルガン・アンド・カンパニー
- 1935年 - グラス・スティーガル法を受け、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは商業銀行になる。投資信託業務はモルガン・スタンレー・アンド・カンパニーに。(銀証分離)
- 1940年 - J・P・モルガン・アンド・カンパニーが会社組織となる
- 1959年 - ギャランティ・トラストと合併、モルガン・ギャランティ・トラストとなる
- 1969年 - 持株会社制に移行。グラス・スティーガル法により分離されていた業務に再度進出[19]
私生活
モルガンは葉巻、とりわけハバナが好きで、日に1ダースほども喫煙した。
邸宅
モルガンの自宅はマディソン通りにあり、ニューヨークで初の電灯を備えた個人住宅であった。彼の新たなテクノロジーへの興味は、1878年にトーマス・エジソンのエジソン電灯会社への融資からも見て取れる[20]。また、ニューヨーク州グレン・コーブのイースタン・アイランドを所有し、そこに別荘を持っていた。 また、世界で初めて生ハムを盛り付けた人物としても有名である。
船

モルガンは熱狂的なヨットファンとして、いろいろなサイズのヨットを所有していた。この場合のヨットは、大型で豪華なレジャーのための船である。「維持費を気にするような人間には、ヨットは買えない」という言はよく知られている。
このヨットは、経済界の機密会議に使われることもあれば、私的な女性関係に使われることもあった。娼婦を大量に雇って、有力者を招いた乱交パーティを開いていたことを、当時のメディアによってすっぱ抜かれている。[21]
また、モルガンはタイタニックの実質的なオーナーであったため、初航海に乗船する予定であった。しかし、その直前になってキャンセル[22]。タイタニックはホワイト・スター・ラインが保有し、運航したものであるが、モルガン専用の特別室とプロムナードデッキがあった。
死
1913年3月31日、モルガンは旅行先のローマ グランドホテルで就寝中に死去した。76歳の誕生日の直前であった。50歳代から医者に不摂生をたしなめられ、生命保険の加入を求められないほどであったが、晩年でもなお葉巻を吸い、大食漢であった。モルガンに連なる人々は、プジョー委員会からの攻めによる精神的疲労が死因であると主張したが、現実の健康面はそのような状態であった。
モルガンの死にあたり4000を超す弔辞が寄せられ、ウォール街は半旗を掲揚した。モルガンの遺体がウォール街を通過する間、株式市場は2時間閉鎖された[23]。遺体は、彼の生誕の地であるコネチカット州ハートフォードのセダー・ヒル墓地(Cedar Hill Cemetery (Hartford, Connecticut))に埋葬された[24]。
モルガンと芸術作品
モルガンは書物、絵画、時計などの芸術作品の著名なコレクターであった。その多くはニューヨークのメトロポリタン美術館に寄託、あるいは贈呈されている。モルガンはそのメトロポリタン美術館の設立に深く関わり、館長を務めた時期もあった。また、彼のロンドンの邸宅や、マディソン大通り36番街にある彼のプライベート文庫に保管されているものもある。
モルガンの息子、ジャックは父を記念して 1924年にモルガン・ライブラリーを公共化。モルガンの私的な司書であったベラ・ダ・コスタ・グリーン(Belle da Costa Greene)を初代の館長とした[25]。
モルガンは多くの画家により肖像画を描かれていた。特筆すべきはペルー人のカルロス・バッカ・フロー(Carlos Baca-Flor)やスイス生まれのアメリカ人、アドルフォ・ミュラー・ウリ(Adolfo Müller-Ury)らも描いていることで、アドルフォはまたモルガンが愛した孫、マーベル・サターリーとの肖像画も描いている。この絵はマーベルの家の前でイーゼルに架けられたまま置いてあったが、あるとき失われてしまった。
後援者として
モルガンはアメリカ自然史博物館の後援者でもあるほか、上述のメトロポリタン美術館、グロトン・スクール(Groton School)、ハーバード大学(とくにハーバード・メディカルスクール)、トリニティ・カレッジ、ニューヨークの産科医院、ニューヨークの職業訓練学校などの後援者でもあった。
モルガンはまた、写真家のエドワード・カーティス(Edward S. Curtis)のパトロンでもあった。1906年には7万5,000ドルでネイティブ・アメリカンシリーズを発注している。カーティスは結局20巻におよぶ大作、北アメリカインディアンを刊行した[26]。
カーティスは映画も撮影し、1914年にはイン・ザ・ランド・オブ・ザ・ヘッド・ハンターズ(首狩り族の大地)を完成させた。これは1974年に修復され、イン・ザ・ランド・オブ・ザ・ウォー・カヌー(戦闘カヌーの大地)として公開された。また、1911年には自らの写真とヘンリー・F.ギルバートの音楽を組み合わせた幻灯機によるスライドショー、インディアン・ピクチャー・オペラ(The Indian Picture Opera)を完成させた[27]。
脚注
- ^ 大場四千男 「モルガン家とアメリカ資本主義の経営史(一)」 北海学園大学学園論集(156), p.244.
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- ^ “Morganization: How Bankrupt Railroads were Reorganized” (HTML). 2007年1月5日閲覧。
- ^ クリーブランドはモルガンの義父の法律事務所で働いたことがあり、モルガンと近い間柄であり、かつ金本位制の推進者であった。
- ^ Chernow (2001) ch 4
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- ^ この取引は弁護士や契約書が介在しない取引であった。
- ^ "J. P. Morgan," Microsoft Encarta Online Encyclopedia 2006
- ^ エドワードの父ヘンリー・グレンフェルはイングランド銀行総裁であった。エドワード自身もイングランド銀行の理事を務めた。
- ^ Edison Archives, Edison National Historic Site, West Orange, N.J.
- ^ C. A. Spofford から Henry Villard への書翰。1886年2月26日付。
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- ^ Edison Electric Light Co. Annual Report 1883; Edison Electric Illuminating Co. Annual Report 1885
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- ^ Marc J. Seifer, Nikola Tesla: The Lost Wizard, from: ExtraOrdinary Technology (Volume 4, Issue 1; Jan/Feb/Mar 2006)
- ^ Margaret Cheney; Tesla: Man Out of Time; 2011; pp. 203–208
- ^ ユーロクリア設立の翌年というのが興味深い。グラム・リーチ・ブライリー法の成立は大分先のことである。
- ^ Chernow (2001) Chapter 4
- ^ 『モルガン家 上 金融帝国の盛衰』日本経済新聞社、7月 2005。
- ^ Chernow (2001) Chapter 8
- ^ Modern Marvels episode "The Stock Exchange" originally aired on October 12, 1997
- ^ Cedar Hill Cemetery, John Pierpont Morgan Archived 2006年8月27日, at Archive.is
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関連項目
「JPモルガン」の例文・使い方・用例・文例
- JPモルガン社がJPモルガン世界国債指数を発表した。
- J.P.モルガンのページへのリンク