陸路の捜索
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「ジョン・フランクリン」の記事における「陸路の捜索」の解説
1854年に、ジョン・レイの探検隊はフランクリン隊の末路を示す重要な証拠を発見した。レイは必ずしもフランクリン隊を捜していたわけではなく、むしろハドソン湾会社の代表としてブーシア半島を探検していたのだが、この旅の途上でレイはイヌイットからバック河口近くで35~40人ぐらいの白人集団が餓えて死んだという話を聞く。イヌイットはさらに、フランクリンや部下たちの持ち物と確認できる数多くの遺品を示した。 フランクリン夫人はフランシス・レオポルド・マクリントックに新たに捜索隊を任せ、レイの報告を調査させた。1859年夏、マクリントック隊はキングウィリアム島で、ケアンの中からフランクリンの死亡日付が記されたメモを発見する。このメモは1847年5月24日および1848年4月25日付けの記載があるもので、1847年に記載された部分には(ビーチー島に葬られた3人を除き)全員無事である記述("All well")がある。ところが、のちフランクリン隊の副指揮官に追記された1848年の記載においては、氷に閉じこめられた船の中で船員が多数死亡し、フランクリンも1847年6月11日に死亡、105名の生存者は船を棄ててバック川(英語版)を目指し南下したことを伝えている。マクリントックはさらにいくつかの遺体、驚くべき量の廃棄された装備品を見つけ、イヌイットから探検隊の悲惨な最期についてさらに詳しく聞いた。 1869年には、チャールズ・フランシス・ホールがキングウィリアム島のイヌイットに広く聞き取りを行った。イヌイットが語ったところによると、島南部のテラー湾の砂地にテントが張ったままの宿営跡があり、骨周りの腱を除いて全く肉のない多数の骸骨が見つかった。ノコギリで骨を切断した跡や穴の開けられた頭蓋骨があったという。本や文書類も多くあったが、イヌイットが子供の玩具として持って帰り、破り捨てられたため失われたという。 また、宿営地の近くには一艘の舟が見つかり、肋材や板材のほかにこちらにも多数の骸骨があったという。(ホールは骸骨の手に握られていたという錆びたナイフを見せられた。) フランクリン隊の遭難には、いくつかの事実が寄与している。まずフランクリンは保守的な教養を持ち、不適切な状況でむだな儀式的な慣行を行うことがあった。例えば、彼と部下たちは銀の食器類や水晶栓つきのガラス瓶、その他探検に無関係な個人的な所有物を多く持ち込んでおり、船を放棄した後にさえそれらの重い備品の多くを携えて持ち運ぼうとした。また彼らは生存手段を先住民に学ぶことを良しとしなかったか、あるいはできなかった。さらに彼らの遠征は海軍によるもので、船員の誰も厚いブーツや防寒服を持っていないなど、陸上徒歩を前提にした装備ではなかったこともある。 一行の船は1846年の夏に氷が溶けるまで航路を凍結していた異常な寒さのために、二冬の間氷に閉ざされてしまった。缶詰食料の密封に用いられたはんだや、船にあった真水供給装置の鉛中毒からくる精神的影響によって、隊員の士気と結束は崩れたとされる。これは1980年代になってアルバータ大学のオーウェン・ビーティ博士の研究によって、探検隊員の遺体の骨格および軟部組織から鉛が認められたことで明らかになっている。また最初の2年で壊血病を予防するレモンジュースがその機能を失い、そのため彼らは出血障害で衰弱していった。イヌイットの目撃証言によれば、隊員たちは壊血病に典型的な黒ずんだ唇、皮膚の爛れを発症していた。 乗組員のうち数人の骨格には、切断の形跡があった。これは過酷を極める状況下で、人肉食に頼らざるをえなかったことを示している。つまるところ杜撰な計画、悪天候、有害な食料、そして最終的には餓えなど複合的な原因によって彼らは死んでいったようだ。 しかしながらその後の長きに渡って王朝時代のメディアは、フランクリンを隊員を率いて北西航路を探求した英雄として描写し続けた。フランクリン夫人の働きかけもあって失望させるような死に際の話は抑えられ、フランクリンは英雄にまつり上げられた。彼の故郷に建てられた銅像には「ジョン・フランクリン卿 - 北西航路の発見者」という碑文が刻まれ、ロンドンのアセニアムのそばとタスマニアにも同様の碑文とともにフランクリンの像が据えられた。また、現在のオーストラリア・ドルが導入される以前に流通していたオーストラリア・ポンドの5ポンド紙幣にはフランクリンの肖像が使用されていた。 一方でフランクリンが英雄視されたのは彼の多くの業績によるものという見方もあり、彼が北西航路を完遂しようという勇敢な試みのために死んでいったという事実は、公における彼の立場を守ることになった。人肉食の可能性を含めた探検隊の末路もその日の新聞紙上で抑制されることなく広く報じられ、議論の対象にもなっている。フランクリンの最後の探検には未だ多くの謎が残されている。 この顛末を基に、米国作家ダン・シモンズが『ザ・テラー 極北の恐怖 (The Terror 2007)』という冒険ホラー小説を上梓している。
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陸路の捜索
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1854年、ジョン・レイがハドソン湾会社のためにブーシア半島を測量しているときに、失踪した隊の遺物を発見した。1854年4月21日、レイがペリーベイ近くで一人のイヌーク族に会い、35人ないし40人の白人一行がバック川河口近くで飢えて死んだということを聞いた。他のイヌイットもこの話は本当だと確認し、船員たちの遺体に人肉食の跡があったことも報告した。イヌイット達は、フランクリンとその隊員に属していたと同定された多くの物を示した。特にレイはペリーベイのイヌイットから銀のフォークとスプーン数本を持ち帰り、それが後にエレバスに乗っていたフィッツジェイムズ、クロージャー、フランクリン、シップメイトのロバート・オスマー・サージェントに属していた物と判明した。レイの報告書が海軍本部に送られ、1854年10月にはハドソン湾会社からバック川を下ってフランクリンとその隊員の他の遺物を探す遠征隊を派遣するよう要請された。 次に重要な発見は、ジェイムズ・アンダーソンとハドソン湾会社の職員ジェイムズ・スチュアートであり、カヌーでバック川河口まで北上した。1855年7月、イヌイットの1隊が、一群の「カルナート」(qallunaat, イヌクティトゥト語で白人)が海岸で飢えて死んだと告げた。8月、アンダーソンとスチュアートは、バック川が海に入る所にあるシャントリー入り江のモントリオール島でエレバスと刻印のある木片を見つけ、「スタンレー氏」(エレバスの船医)と刻まれている木片も見つけた。 レイやアンダーソンの発見にも拘わらず、海軍本部は独自の捜索を計画しなかった。イギリスは1854年3月31日付で公式に乗組員が公務中に死亡したと判断した。フランクリン夫人は政府に新たな捜索を行う資金手当てをさせることができず、私費でフランシス・レオポルド・マクリントックの指揮による遠征隊を発注した。この遠征船は蒸気駆動スクーナーのフォックスであり、公募で購入され、1857年7月2日にアバディーンを出港した。 1859年4月、フォックスからキングウィリアム島を捜索するための橇部隊が発進した。5月5日、イギリス海軍のウィリアム・ホブソン大尉が指揮する隊が、クロージャーとフィッツジェイムズによって残されたケアンにある文書を発見した。これはイギリス海軍の記録用用紙で、2つのメッセージがあった。用紙の記入欄に書かれた最初のメッセージは1847年5月28日付であり、この時点でエレバスとテラーはキングウィリアム島北西岸沖の流氷の中で越冬していること、前年にビーチー島で越冬する前にはコーンウォリス島沖を北上して北緯77度にまで達したものの島を周回してもどってきたことが書かれていた。「遠征隊を指揮するジョン・フランクリン卿。『全て順調』」と記されていた。2つ目のメッセージは1848年4月25日の日付で、同じ用紙の余白にびっしりと書かれており、エレバスとテラーが1年半氷の中に閉じ込められた末、乗組員は4月22日に船を放棄したこと、1847年6月11日に死んだフランクリンを含め、その時点で24人の士官と乗組員が死んでいたことが書かれていた。フランクリンが死んだのは最初のメッセージが書かれてから僅か2週間後だった。クロージャーが遠征隊を指揮しており、残り105名が翌日に出発して、南のバック川方面に向かうと記されていた。このメモには重大な誤りがあった。最も重要なのはビーチー島で冬季宿営した年が、1845年から1846年ではなく、1846年から1847年とされていたことだった。 マクリントック遠征隊はキングウィリアム島南岸で人骨も発見した。まだ衣服が残っており、それを探すと幾らかの紙片が見つかった。それはHMSテラーの前檣楼キャプテンとなっていた上等兵曹ヘンリー・ペグラー(1808年生まれ)の海員身分証明書であった。しかしその制服は船のスチュワードのものであり、その遺体はHMSテラーの銃器室スチュワードのトマス・アーミテージのものである可能性があり、シップメイトのペグラーの書類を持っていたと考えられた。島の西端にある別の場所では、ホブソンがフランクリン遠征隊の2つの骸骨と遺物を載せた救命ボートを発見した。このボートの中には、大量の放棄された装備があり、長靴、絹のハンカチ、香水入り石鹸、スポンジ、スリッパ、櫛、多くの本が見つかり、本の中にはオリヴァー・ゴールドスミスの小説『ウェークフィールドの牧師』が入っていた。マクリントックは遠征隊の悲惨な結末についてイヌイットから証言も取得した。 1860年から1869年の間にチャールズ・フランシス・ホールが2回の遠征を行った。ホールはバフィン島のフロビッシャー湾近く、後にはカナダ本土のレパルス湾でイヌイットの中で生活した人物であった。キングウィリアム島の南岸でキャンプ地、墓、遺物を発見したが、フランクリン遠征隊の者はイヌイットの中で生き残っていないと考えた。フランクリン隊は全員死んだと結論付けたが、公式遠征記録がおそらくどこかに作られた石積みケアンの下から見つかるだろうと考えていた。イヌイットのガイドであるエビアビングやトゥクーリトの助けを得て、ホールは数百ページにもなるイヌイットの証言を集めた。それらの中にはフランクリンの船を訪れた証言や、キングウィリアム島南岸のワシントン湾近くで白人の1隊に遭遇したという証言などが含まれていた。1990年代、デイビッド・C・ウッドマンがこの証言を詳しく調査し、『フランクリン・ミステリーの解明』(1992年)と『我々の中の異邦人』(1995年)と題する2冊の書を著した。その中では遠征隊の最後の数か月を再構築している。 失われた遠征記録文書を見つけるという期待から、アメリカ陸軍のフレデリック・シュワトカが1878年から1880年に遠征隊を組織して島に行った。ハドソン湾をスクーナーのヨーセンで移動し、ホールを援助したイヌイットを含むチームを編成して、徒歩と犬ぞりで北進を続け、イヌイットの話を聞き、フランクリン遠征隊の足跡が分かっている場所や可能性のある場所を訪れ、キングウィリアム島で越冬した。シュワトカは探していた文書を見つけられなかったが、1880年にアメリカ地理学会がその栄誉を称えるために開催した晩餐会のスピーチで、自分の遠征隊は11か月と4日、距離にして4,360 km と、「時間と距離で最長の犬ぞりによる旅を行った」と明かし、白人がイヌイットと同じ食料に頼ったことでは北極圏初の遠征であり、フランクリンの記録が失われたことは「合理的な疑いが及ばない」ものであることを結論付けた。シュワトカの遠征隊はアデレード半島の飢えの入江と呼ばれる場所から南では、フランクリン遠征隊の痕跡を見つけられなかった。そこはクロージャーが言っていた目標であるバック川から遥か北でありグレートスレーブ湖の最も近い西洋人による前哨からは数百マイル離れていた。 なお、ウッドマンは、1852年から1858年の間にクロージャーともう1人の隊員が、約400 km 南のベイカー湖地域にいたというイヌイットの報告について記している。そこは、1948年にファーリー・モワットが「通常のエスキモーが作ったものではない大変古いケアン」を発見し、その中には硬い木材を蟻継手で組み立てた箱の断片が見つかったというところだった。結局、ウッドマンはイヌイットの報告の情報源を確認することはできず、モワットが発見したケアンを作った者も判明しなかった。
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