陸路の捜索とは? わかりやすく解説

陸路の捜索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:20 UTC 版)

ジョン・フランクリン」の記事における「陸路の捜索」の解説

1854年に、ジョン・レイ探検隊フランクリン隊の末路を示す重要な証拠発見したレイは必ずしもフランクリン隊を捜していたわけではなく、むしろハドソン湾会社代表としてブーシア半島探検していたのだが、この旅の途上レイイヌイットからバック河口近く3540人ぐらいの白人集団餓えて死んだという話を聞くイヌイットはさらに、フランクリン部下たちの持ち物確認できる数多く遺品示したフランクリン夫人はフランシス・レオポルド・マクリントックに新たに捜索隊任せレイ報告調査させた。1859年夏、マクリントック隊はキングウィリアム島で、ケアンの中からフランクリン死亡日付記されメモ発見する。このメモ1847年5月24日および1848年4月25日付け記載があるもので、1847年記載され部分には(ビーチー島に葬られた3人を除き全員無事である記述("All well")がある。ところが、のちフランクリン隊の副指揮官追記された1848年記載においては、氷に閉じこめられた船の中で船員多数死亡しフランクリン1847年6月11日死亡105名の生存者は船を棄ててバック川(英語版)を目指し南下したことを伝えている。マクリントックはさらにいくつかの遺体驚くべき量の廃棄され装備品を見つけ、イヌイットから探検隊悲惨な最期についてさらに詳しく聞いた1869年には、チャールズ・フランシス・ホールキングウィリアム島イヌイット広く聞き取り行ったイヌイット語ったところによると、島南部テラー湾の砂地テント張ったままの宿営跡があり、骨周りの腱を除いて全く肉のない多数骸骨見つかったノコギリで骨を切断した跡や穴の開けられ頭蓋骨があったという。本や文書類も多くあったが、イヌイット子供玩具として持って帰り破り捨てられたため失われたという。 また、宿営地近くには一艘の舟が見つかり、肋材板材のほかにこちらにも多数骸骨があったという。(ホール骸骨の手握られていたという錆びたナイフ見せられた。) フランクリン隊の遭難には、いくつかの事実寄与している。まずフランクリン保守的な教養持ち不適切状況でむだな儀式的な慣行を行うことがあった。例えば、彼と部下たちは銀の食器類や水晶栓つきのガラス瓶、その他探検無関係な個人的な所有物多く持ち込んでおり、船を放棄した後にさえそれらの重い備品多く携えて持ち運ぼうとした。また彼らは生存手段先住民に学ぶことを良しとしなかったか、あるいはできなかった。さらに彼らの遠征海軍よるもので、船員誰も厚いブーツ防寒服持っていないなど、陸上徒歩前提にした装備ではなかったこともある。 一行の船は1846年の夏に氷が溶けるまで航路凍結していた異常な寒さのために、二冬の間氷に閉ざされてしまった。缶詰食料密封用いられはんだや、船にあった真水供給装置鉛中毒からくる精神的影響によって、隊員士気結束崩れたとされる。これは1980年代になってアルバータ大学のオーウェン・ビーティ博士研究によって、探検隊員遺体骨格および軟部組織から鉛が認められたことで明らかになっている。また最初2年壊血病予防するレモンジュースがその機能失い、そのため彼らは出血障害衰弱していった。イヌイット目撃証言によれば隊員たちは壊血病典型的な黒ずんだ唇、皮膚の爛れ発症していた。 乗組員のうち数人骨格には、切断形跡があった。これは過酷極める状況下で、人肉食に頼らざるをえなかったことを示している。つまるところ杜撰な計画悪天候有害な食料、そして最終的に餓えなど複合的な原因によって彼らは死んでいったようだしかしながらその後長き渡って王朝時代メディアは、フランクリン隊員率いて北西航路探求した英雄として描写し続けたフランクリン夫人働きかけもあって失望させるような死に際の話は抑えられフランクリン英雄にまつり上げられた。彼の故郷建てられ銅像には「ジョン・フランクリン卿 - 北西航路発見者」という碑文刻まれロンドンのアセニアムのそばとタスマニアにも同様の碑文とともにフランクリンの像が据えられた。また、現在のオーストラリア・ドル導入される以前流通していたオーストラリア・ポンドの5ポンド紙幣にはフランクリン肖像使用されていた。 一方でフランクリン英雄視されたのは彼の多く業績よるものという見方もあり、彼が北西航路完遂しようという勇敢な試みのために死んでいったという事実は、公における彼の立場を守ることになった人肉食可能性含めた探検隊末路その日新聞紙上で抑制されることなく広く報じられ議論対象にもなっている。フランクリン最後の探検には未だ多くの謎が残されている。 この顛末を基に、米国作家ダン・シモンズが『ザ・テラー 極北恐怖 (The Terror 2007)』という冒険ホラー小説上梓している。

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陸路の捜索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:28 UTC 版)

フランクリン遠征」の記事における「陸路の捜索」の解説

1854年ジョン・レイハドソン湾会社のためにブーシア半島測量しているときに、失踪した隊の遺物発見した1854年4月21日レイがペリーベイ近く一人のイヌーク族に会い35人ないし40人の白人一行バック河口近く飢えて死んだということ聞いた。他のイヌイットもこの話は本当だ確認し船員たちの遺体人肉食の跡があったことも報告したイヌイット達は、フランクリンとその隊員属していたと同定され多くの物を示した。特にレイはペリーベイのイヌイットから銀のフォークスプーン数本持ち帰り、それが後にエレバス乗っていたフィッツジェイムズ、クロージャーフランクリン、シップメイトのロバート・オスマー・サージェントに属していた物と判明したレイ報告書海軍本部送られ1854年10月にはハドソン湾会社からバック川を下ってフランクリンとその隊員の他の遺物探す遠征隊を派遣するよう要請された。 次に重要な発見は、ジェイムズ・アンダーソンハドソン湾会社職員ジェイムズ・スチュアートであり、カヌーバック河口まで北上した1855年7月イヌイットの1隊が、一群の「カルナート」(qallunaat, イヌクティトゥト語白人)が海岸飢えて死んだ告げた8月アンダーソンスチュアートは、バック川が海に入る所にあるシャントリー入り江モントリオール島でエレバス刻印のある木片を見つけ、「スタンレー氏」(エレバス船医)と刻まれている木片見つけたレイアンダーソン発見にも拘わらず海軍本部は独自の捜索計画しなかった。イギリス1854年3月31日付で公式に乗組員公務中に死亡した判断したフランクリン夫人政府新たな捜索を行う資金手当てをさせることができず、私費でフランシス・レオポルド・マクリントックの指揮による遠征隊を発注した。この遠征船は蒸気駆動スクーナーフォックスであり、公募購入され1857年7月2日アバディーン出港した1859年4月フォックスからキングウィリアム島捜索するための部隊発進した5月5日イギリス海軍のウィリアム・ホブソン大尉指揮する隊が、クロージャーとフィッツジェイムズによって残されケアンにある文書発見した。これはイギリス海軍記録用紙で、2つメッセージがあった。用紙記入書かれ最初メッセージ1847年5月28日付であり、この時点エレバステラーキングウィリアム島北西岸沖の流氷の中で越冬していること、前年ビーチー島で越冬する前にコーンウォリス島沖を北上して北緯77度にまで達したものの島を周回してもどってきたことが書かれていた。「遠征隊を指揮するジョン・フランクリン卿。『全て順調』」と記されていた。2つ目のメッセージ1848年4月25日日付で、同じ用紙余白びっしりと書かれており、エレバステラー1年半氷の中に閉じ込められた末、乗組員4月22日に船を放棄したこと、1847年6月11日死んだフランクリン含めその時点で24人の士官乗組員死んでいたことが書かれていた。フランクリン死んだのは最初メッセージ書かれてから僅か2週間後だった。クロージャー遠征隊を指揮しており、残り105名が翌日出発して、南のバック方面に向かうと記されていた。このメモには重大な誤りがあった。最も重要なのはビーチー島で冬季宿営した年が、1845年から1846年ではなく1846年から1847年とされていたことだった。 マクリントック遠征隊はキングウィリアム島南岸人骨発見した。まだ衣服残っており、それを探す幾らか紙片見つかった。それはHMSテラー前檣キャプテンとなっていた上等兵曹ヘンリー・ペグラー(1808年生まれ)の海員身分証明書であった。しかしその制服は船のスチュワードのものであり、その遺体HMSテラー銃器スチュワードのトマス・アーミテージのものである可能性があり、シップメイトのペグラーの書類持っていたと考えられた。島の西端にある別の場所では、ホブソンフランクリン遠征隊の2つ骸骨遺物載せた救命ボート発見した。このボート中には大量放棄され装備があり、長靴、絹のハンカチ香水入り石鹸スポンジスリッパ多くの本が見つかり、本の中にはオリヴァー・ゴールドスミス小説ウェークフィールドの牧師』が入っていた。マクリントック遠征隊の悲惨な結末についてイヌイットから証言取得した1860年から1869年の間にチャールズ・フランシス・ホールが2回の遠征行ったホールバフィン島フロビッシャー湾近く、後にはカナダ本土レパルス湾でイヌイットの中で生活した人物であったキングウィリアム島南岸キャンプ地、墓、遺物発見したが、フランクリン遠征隊の者はイヌイットの中で生き残っていないと考えたフランクリン隊は全員死んだ結論付けたが、公式遠征記録がおそらくどこかに作られ石積みケアンの下から見つかるだろうと考えていた。イヌイットガイドであるエビアビングやトゥクーリトの助け得てホール数百ページにもなるイヌイット証言集めた。それらの中にはフランクリンの船を訪れた証言や、キングウィリアム島南岸ワシントン近く白人の1隊に遭遇したという証言などが含まれていた。1990年代デイビッド・C・ウッドマンがこの証言詳しく調査し、『フランクリン・ミステリーの解明』(1992年)と『我々の中の異邦人』(1995年)と題する2冊の書を著したその中で遠征隊の最後の数か月再構築している。 失われた遠征記録文書を見つけるという期待から、アメリカ陸軍のフレデリック・シュワトカが1878年から1880年遠征隊を組織して島に行ったハドソン湾スクーナーのヨーセンで移動しホール援助したイヌイットを含むチーム編成して徒歩犬ぞり北進続けイヌイットの話を聞きフランクリン遠征隊の足跡分かっている場所や可能性のある場所を訪れキングウィリアム島越冬した。シュワトカは探していた文書を見つけられなかったが、1880年アメリカ地理学会がその栄誉称えるために開催した晩餐会スピーチで、自分遠征隊は11か月4日、距離にして4,360 km と、「時間と距離で最長犬ぞりによる旅を行った」と明かし白人イヌイットと同じ食料頼ったことでは北極圏初の遠征であり、フランクリン記録失われたことは「合理的な疑い及ばない」ものであることを結論付けた。シュワトカの遠征隊はアデレード半島飢え入江呼ばれる場所から南では、フランクリン遠征隊の痕跡を見つけられなかった。そこはクロージャー言っていた目標であるバック川から遥か北でありグレートスレーブ湖最も近い西洋人による前哨からは数百マイル離れていた。 なお、ウッドマンは、1852年から1858年の間にクロージャーともう1人隊員が、約400 km 南のベイカー地域にいたというイヌイット報告について記している。そこは、1948年にファーリー・モワットが「通常のエスキモー作ったものではない大変古いケアン」を発見し、その中には硬い木材蟻継手で組み立てた箱の断片見つかったというところだった。結局ウッドマンイヌイット報告情報源確認することはできず、モワット発見したケアン作った者も判明しなかった。

※この「陸路の捜索」の解説は、「フランクリン遠征」の解説の一部です。
「陸路の捜索」を含む「フランクリン遠征」の記事については、「フランクリン遠征」の概要を参照ください。

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