開業から第二次世界大戦まで
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「米原駅」の記事における「開業から第二次世界大戦まで」の解説
1889年(明治22年)7月に官設鉄道(のちの東海道線→東海道本線)分岐点(後の深谷)- 大津間と支線(のちに敦賀線を経て北陸本線)長浜 - 米原間が建設されたことで米原駅が設置され、開業当初から結節点となった。それまでは長浜 - 大津間は太湖汽船による湖上連絡を介して名古屋・東京方面と京阪神方面が結ばれていた。 深谷 - 長浜間の旧線は一旦の休止を経て1891年(明治24年)1月に貨物専用の路線として復活し、1897年(明治30年)11月に廃止された後はこの区間を走っていた列車はすべて米原駅を経由するようになる。東海道本線随一の急勾配を控える駅として、補助機関車の連結や解結が米原で行われるようになった。そして、東海道本線と北陸本線との接続駅としての役割を本格的に果たすようになるため、廃止に先立つ1895年(明治28年)1月に窮屈になっていた官舎を増設することが決定され、1900年(明治33年)1月に車長(現在の車掌)の合宿所も増改築が計画されるようになった。輸送量増大に伴う東海道本線も進み、1901年(明治34年)12月に米原 - 河瀬間、1902年(明治35年)11月に長岡(現:近江長岡) - 米原間が複線化された。明治40年代にはいると駅の拡張工事が計画された。1915年(大正4年)9月に東海道本線下りの仕訳線が新設されたが、第一次世界大戦によっ1917年(大正7年)からにわかに中継拠点として取り扱う貨物量が増加したため容量不足に陥った。そのため、拡張工事が開始されると、小口輸送の整理作業を一旦長浜に移してから中部仕訳線に着手し、次に東海道線上りの仕訳線に着手した。仕訳線の新設工事は1923年(大正12年)8月に竣工した。1930年(昭和5年)3月に小口輸送用のホームを拡張し、以後は客車留置線の設置や連動装置の設置などの改良工事が戦後まで随時行われてきた。 彦根以南の路線を持っていた近江鉄道は北陸本線や東海道本線急行列車の利用客の利便を図って自路線の利用を促進させるため1926年(大正15年)11月に米原 - 彦根に鉄道付設免許を申請し、1927年(昭和2年)8月に免許が交付された。そして、1929年(昭和4年)6月に着工し、1931年(昭和6年)3月に開業した。なお、長浜町(当時)の要請を受けて長浜 - 米原の延伸も計画されたが、冬季の降雪や国鉄の横断工事での工事費から実現しなかった。 1923年の改良以降、米原駅構内を改良する計画は1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて立案され、1940年(昭和15年)に用地買収と土工着手に取り掛かってきたが、第二次世界大戦によって工事が中断していた。戦時中は駅が空襲の対象になることが予想され、機関区の転車台が破壊された時に備えた機関車の方向転換ができる三角線が設置され、列車を空襲から守るための列車壕(後に蒸気機関車避難壕として保存も着工された。 東海道本線は、1894年(明治27年)の時点で発着する列車は全て各駅停車で、その本数は7本に過ぎなかった。しかし、1940年(昭和15年)に至るまでに約5倍の本数の列車が発着するようになった。1896年(明治29年)9月には急行列車1往復が運転されるようになり、1903年(明治36年)の時点では2本に増加していた。1906年(明治39年)4月に運行開始された最急行列車も米原駅に停車した。その後、鉄道国有化を経て長距離輸送が盛んとなったため急行列車は増加を続け、大正末から昭和初期には米原駅停車の列車の3分の1程度が急行列車だった。米原駅は北陸本線との結節点としていずれの列車も停車していたが、1930年(昭和5年)10月に運行開始した燕が初めての通過列車となった。この当時は東京・京阪神での出発・到着時刻より早朝・深夜に発着する列車が少なくなく、普通列車も毎時発着とはならず日中でも2時間程度間隔があることがあった。 北陸本線に対する列車は東海道本線の3分の1程度であった。開業した当時は金ヶ崎(敦賀港) - 米原間で1日3往復が設定された。金沢 - 小松間が開業した1898年(明治31年)4月1日からは東海道本線神戸方との直通運転を開始した。また、東京方への直通の要望を受けて1908年(明治41年)5月1日から東海道本線東京方と北陸本線を直通する列車が新設された。急行列車が初めて設定されたのは1922年(大正11年)3月15日であった。彦根と長浜の都市間移動をする利用者が増加したため、1931年(昭和6年)11月から国鉄で初となる電気式ガソリンカーで長浜 - 彦根間を運行した。北陸本線では第二次世界大戦によって急行は一時廃止された。また、彦根 - 長浜間の電気式ガソリンカーは戦時中の燃料統制によって休止された。戦時中は軍事物資や兵員輸送のために軍用列車が多く出入しており、空爆の対象になるほどであった。
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開業から第二次世界大戦まで
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「フランクフルト(オーダー)市電」の記事における「開業から第二次世界大戦まで」の解説
フランクフルト(オーダー)の街に路面電車が開通したのは19世紀末、1898年1月22日の事であった。同日に開業式典が行われたのち、翌1月23日から3系統、営業キロ9.5kmの路線網で本格的な営業運転が始まった。建設に際しては1896年にフランクフルト(オーダー)市との間に締結された契約に基づき、ベルリンに本社を置いていた電機メーカーのAEGによる線路や架線の敷設に加え、フランクフルト(オーダー)市内に電力を供給する発電所の建設が実施された。 開業初年度の利用客は190万人を記録し、フランクフルト(オーダー)市内の重要な公共交通機関として認知された路面電車は、1899年以降幾度かにわたって延伸が行われ、1906年時点の営業キロは12 kmに拡大した。また、開業当初の運営権はAEGが所有していたが、1899年にアルゲマイネ地方軌道(Allgemeine Lokal-und Straßenbahn AG)へ譲渡された。だが、第一次世界大戦中は修理部品の不足に加えて発電所の燃料となる石炭不足が深刻化し、路面電車の運行は縮小を余儀なくされた。また、男性従業員が徴兵されたため女性運転士が緊急に登用される事態となった。そして1918年以降、石炭税や交通税の上昇に伴い路面電車の運賃は上昇を続け、同年1月1日では10ペニヒだったものが7月1日には15ペニヒ、1922年には50ペニヒとなった。更にハイパーインフレーションが重なった結果、1923年11月の時点で運賃は1,000億マルクを記録する事態となった。この事態を受けて路面電車の運営組織が再編され、1922年にアルゲマイネ地方軌道とフランクフルト(オーダー)市が共同出資するフランクフルト発電会社(Frankfurter Elektrizitätswerke GmbH、F.E.W.)が設立された。 ハイパーインフレーションが収束し、経済も落ち着きを取り戻し始めて以降、路面電車は再度規模の拡大を始めた。1924年には本数増加や列車の運行時間帯延長などのダイヤ改正が行われた他、1927年からは進段(ノッチ)数を増加させ細かな速度制御が可能となった新型電車の増備も実施された。また、同年には2号線の延伸も実施されている。翌1928年からは更なる増便が実施されたが、それに伴う運用コスト増加のため、翌年にはハイパーインフレーション終息後に減少した運賃の増加も行われた。また、同年代以降フランクフルト発電会社は路線バス事業にも参入し、都市の拡大や路面電車の補完に対応した運用が組まれた。 その後、1936年には都市の拡大や兵舎の建設に伴い2号線の延伸が実施され、1938年には系統の再編によりフランクフルト(オーダー)市電は5系統による運用となった。その一方、フランクフルト発電会社は運賃や延伸路線の収益性の低さにより高い損失を記録する状態が続き、フランクフルト(オーダー)市は会社の買収も検討するようになった。そして第二次世界大戦中の1941年以降、事実上フランクフルト(オーダー)市電は市によって運営される形になった。 だが戦時中、フランクフルト(オーダー)市電の運営は困難なものとなり、修理部品や電力不足により増加する輸送量に対応できない状態となった。また、1943年以降一部の停留所の廃止が行われ、翌1944年からは郵便や物資の輸送にも使われるようになった。同年からフランクフルト(オーダー)市は連合国による空襲の対象となり、翌1945年2月からは住民の避難が行われた。そして4月19日、ドイツ軍はオーダー川にかかる橋梁を路面電車の路線ごと爆破し、その3日後の4月22日にフランクフルト(オーダー)市内は大規模な空襲により壊滅的な被害を受け、路面電車は運行を停止した。
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開業から第二次世界大戦まで
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「京急空港線」の記事における「開業から第二次世界大戦まで」の解説
「穴守稲荷神社」も参照 1902年(明治35年)、現在の羽田空港にあたる鈴木新田にあった穴守稲荷神社への参拝客輸送のため、京浜電気鉄道(京浜電鉄)の穴守線として単線の専用軌道で開業した。なお、「神社」参拝者輸送のための電気鉄道としては、日本初の開業である。当時は羽田支線とも呼称され、大森停車場前駅(後の大森駅)と穴守駅を結ぶ列車が運行されていた。1904年(明治36年)に品川駅(現在の北品川駅)- 海岸駅(現在の大森海岸駅)が開業すると、大森支線となった大森駅方面への直通はなくなり、(品川駅 - 大師駅〈現在の川崎大師駅〉間と)品川駅 - 穴守駅間の直通運転が主となった。1910年(明治43年)には複線となり、8分間隔での運行が行われた。穴守駅周辺には鳥居前町が広がり、京浜電鉄経営の羽田運動場や羽田穴守海水浴場もあり、浅草などと並ぶ東京を代表する観光地として賑わっていた。京浜電鉄は海の家や海水プールも経営し、独自の観光開発に力を入れていた。夏季には海水浴客輸送のため本線と直通する急行列車も運転された。1931年、羽田飛行場(現在の東京国際空港)が建設されると、飛行場への旅客輸送も行われるように変化していった。
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