開業から第二次世界大戦までとは? わかりやすく解説

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開業から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:11 UTC 版)

米原駅」の記事における「開業から第二次世界大戦まで」の解説

1889年明治22年7月官設鉄道(のちの東海道線東海道本線分岐点(後の深谷)- 大津間と支線(のちに敦賀線を経て北陸本線長浜 - 米原間が建設されたことで米原駅設置され開業当初から結節点となったそれまで長浜 - 大津間は太湖汽船による湖上連絡を介して名古屋東京方面京阪神方面結ばれていた。 深谷 - 長浜間の旧線は一旦の休止経て1891年明治24年1月貨物専用路線として復活し1897年明治30年11月廃止された後はこの区間走っていた列車はすべて米原駅経由するうになる東海道本線随一急勾配控える駅として、補助機関車連結解結米原行われるようになった。そして、東海道本線北陸本線との接続駅としての役割本格的に果たすようになるため、廃止先立つ1895年明治28年1月窮屈になっていた官舎増設することが決定され1900年明治33年1月車長現在の車掌)の合宿所増改築計画されるようになった輸送量増大に伴う東海道本線進み1901年明治34年12月米原 - 河瀬間、1902年明治35年11月長岡(現:近江長岡) - 米原間が複線化された。明治40年代にはいると駅の拡張工事計画された。1915年大正4年9月東海道本線下り仕訳線が新設されたが、第一次世界大戦によっ1917年大正7年)からにわかに中継拠点として取り扱う貨物量が増加したため容量不足陥った。そのため、拡張工事開始されると、小口輸送整理作業を一旦長浜移してから中部仕訳線に着手し次に東海道線上り仕訳線に着手した仕訳線の新設工事1923年大正12年8月竣工した1930年昭和5年3月小口輸送用ホーム拡張し以後客車留置線設置連動装置設置などの改良工事戦後まで随時行われてきた。 彦根以南路線持っていた近江鉄道北陸本線東海道本線急行列車利用客利便図って路線利用促進させるため1926年大正15年11月米原 - 彦根鉄道付設免許申請し1927年昭和2年8月免許交付された。そして、1929年昭和4年6月着工し1931年昭和6年3月開業した。なお、長浜町当時)の要請受けて長浜 - 米原延伸計画されたが、冬季降雪国鉄横断工事での工事費から実現しなかった。 1923年改良以降米原駅構内改良する計画1937年昭和12年)から1938年昭和13年)にかけて立案され、1940年昭和15年)に用地買収土工着手取り掛かってきたが、第二次世界大戦によって工事中断していた。戦時中は駅が空襲対象になることが予想され機関区転車台破壊され時に備えた機関車方向転換ができる三角線設置され列車空襲から守るための列車壕(後に蒸気機関車避難壕として保存着工された。 東海道本線は、1894年明治27年)の時点発着する列車全て各駅停車で、その本数は7本に過ぎなかった。しかし、1940年昭和15年)に至るまでに約5倍の本数列車発着するようになった1896年明治29年9月には急行列車1往復運転されるようになり、1903年明治36年)の時点では2本に増加していた。1906年明治39年4月運行開始された最急行列車米原駅停車したその後鉄道国有化経て長距離輸送が盛んとなったため急行列車増加続け大正末から昭和初期には米原駅停車列車3分の1程度急行列車だった。米原駅北陸本線との結節点としていずれの列車停車していたが、1930年昭和5年10月運行開始した燕が初めての通過列車となった。この当時東京京阪神での出発到着時刻より早朝深夜発着する列車少なくなく、普通列車毎時発着はならず日中でも2時間程度間隔があることがあった。 北陸本線対す列車東海道本線3分の1程度であった開業した当時金ヶ崎敦賀港) - 米原間で1日3往復設定された。金沢 - 小松間が開業した1898年明治31年4月1日からは東海道本線神戸方との直通運転開始したまた、東京方への直通要望受けて1908年明治41年5月1日から東海道本線東京方と北陸本線直通する列車新設された。急行列車初め設定されたのは1922年大正11年3月15日であった彦根長浜都市移動をする利用者増加したため、1931年昭和6年11月から国鉄で初となる電気式ガソリンカー長浜 - 彦根間を運行した北陸本線では第二次世界大戦によって急行一時廃止された。また、彦根 - 長浜間の電気式ガソリンカー戦時中燃料統制によって休止された。戦時中軍事物資兵員輸送のために軍用列車多く出入しており、空爆対象になるほどであった

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開業から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 07:19 UTC 版)

フランクフルト(オーダー)市電」の記事における「開業から第二次世界大戦まで」の解説

フランクフルト(オーダー)の街に路面電車開通したのは19世紀末1898年1月22日の事であった同日開業式が行われたのち、翌1月23日から3系統営業キロ9.5kmの路線網本格的な営業運転始まった建設に際して1896年フランクフルト(オーダー)市との間に締結され契約に基づきベルリン本社置いていた電メーカーAEGによる線路架線敷設加えフランクフルト(オーダー)市内電力供給する発電所建設実施された。 開業初年度利用客190万人記録しフランクフルト(オーダー)市内重要な公共交通機関として認知され路面電車は、1899年以降幾度かわたって延伸が行われ、1906年時点営業キロ12 km拡大したまた、開業当初運営AEG所有していたが、1899年アルゲマイネ地方軌道(Allgemeine Lokal-und Straßenbahn AG)へ譲渡された。だが、第一次世界大戦中修理部品の不足に加えて発電所燃料となる石炭不足が深刻化し路面電車運行縮小余儀なくされた。また、男性従業員徴兵されたため女性運転士緊急に登用される事態となった。そして1918年以降石炭税や交通税の上に伴い路面電車運賃上昇続け同年1月1日では10ペニヒだったものが7月1日には15ペニヒ1922年には50ペニヒとなった。更にハイパーインフレーション重なった結果1923年11月時点運賃は1,000マルク記録する事態となった。この事態受けて路面電車運営組織再編され1922年アルゲマイネ地方軌道フランクフルト(オーダー)市が共同出資するフランクフルト発電会社(Frankfurter Elektrizitätswerke GmbH、F.E.W.)が設立された。 ハイパーインフレーション収束し経済落ち着き取り戻し始めて以降路面電車再度規模の拡大始めた1924年には本数増加列車の運行時間帯延長などのダイヤ改正が行われた他、1927年からは進段(ノッチ)数を増加させ細かな速度制御が可能となった新型電車増備実施された。また、同年には2号線延伸実施されている。翌1928年からは更なる増便実施されたが、それに伴う運用コスト増加のため、翌年にはハイパーインフレーション終息後減少した運賃増加行われたまた、同年代以降フランクフルト発電会社路線バス事業にも参入し都市拡大路面電車補完対応した運用組まれた。 その後1936年には都市拡大兵舎建設に伴い2号線延伸実施され1938年には系統再編によりフランクフルト(オーダー)市電5系統による運用となった。その一方フランクフルト発電会社運賃延伸路線収益性低さにより高い損失記録する状態が続きフランクフルト(オーダー)市は会社買収検討するようになった。そして第二次世界大戦中1941年以降事実上フランクフルト(オーダー)市電は市によって運営されるになった。 だが戦時中フランクフルト(オーダー)市電運営困難なものとなり、修理部品電力不足により増加する輸送量に対応できない態となった。また、1943年以降一部停留所廃止が行われ、翌1944年からは郵便物資輸送にも使われるようになった同年からフランクフルト(オーダー)市は連合国による空襲対象となり、翌1945年2月からは住民避難が行われた。そして4月19日ドイツ軍オーダー川にかかる橋梁路面電車路線ごと爆破しその3日後の4月22日フランクフルト(オーダー)市内大規模な空襲により壊滅的な被害を受け、路面電車運行停止した

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開業から第二次世界大戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:33 UTC 版)

京急空港線」の記事における「開業から第二次世界大戦まで」の解説

穴守稲荷神社」も参照 1902年明治35年)、現在の羽田空港にあたる鈴木新田にあった穴守稲荷神社への参拝輸送のため、京浜電気鉄道京浜電鉄)の穴守線として単線専用軌道開業した。なお、「神社参拝者輸送のための電気鉄道としては、日本初開業である。当時羽田支線とも呼称され、大森停車場前駅(後の大森駅)と穴守駅を結ぶ列車運行されていた。1904年明治36年)に品川駅現在の北品川駅)- 海岸駅現在の大森海岸駅)が開業すると、大森支線となった大森駅方面への直通なくなり、(品川駅 - 大師駅現在の川崎大師駅〉間と)品川駅 - 穴守駅間の直通運転が主となった1910年明治43年)には複線となり、8分間隔での運行が行われた。穴守駅周辺には鳥居前町広がり京浜電鉄経営羽田運動場羽田穴守海水浴場もあり、浅草などと並ぶ東京代表する観光地として賑わっていた。京浜電鉄海の家海水プール経営し、独自の観光開発力を入れていた。夏季には海水浴輸送のため本線直通する急行列車運転された。1931年羽田飛行場現在の東京国際空港)が建設されると、飛行場への旅客輸送行われるように変化していった。

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