商業地区としての歴史とは? わかりやすく解説

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商業地区としての歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 08:58 UTC 版)

ひょうたん島 (徳島県)」の記事における「商業地区としての歴史」の解説

近代以前 藩政時代は、阿波藩御用商人が集まる地区として栄えた明治に入ると、新町地区のほうが商業中心として栄えるようになり、相対的に地位低下した。しかし、1899年明治32年)に徳島駅開業すると、徳島市玄関口として栄えるようになり、商店建ち並んだその後路線バス路線徳島駅中心に整備され内町地区徳島市公共交通機関ターミナルとして成長した終戦直後高度経済成長期 1945年昭和20年)の徳島空襲により、内町地区全域焼失したが、戦後いち早く復興し昭和30年代に入ると徳島名店街地場百貨店つぼみや閉店後は「徳島ビブレ」を経て複合商業ビルの「ラスタ徳島となったが、現在は空ビル解体された)、南海ショッピングセンター(のちにとくしまCITY、現ダイワロイネットホテル徳島駅前)といった大型商業施設相次いでオープンしたまた、国道192号線通称国体道路)が整備され沿道八百屋町にはオフィスビルも建つようになった。 しかし、当時徳島県最大繁華街として栄えていた新町地区比較する内町地区規模小さくまた、徳島駅前や藍場町いわゆるスラム)には空襲焼け跡闇市由来するバラック街が未だ残り駅前西地区広大な部分内町小学校占めるなど、県庁所在地駅前としては見劣りしており、土地利用有効にできていないことが徳島市市民の間で指摘されるようになったその後バラック街は昭和40年代取り壊され1971年昭和46年)に駅前西側ポッポ街商店街整備された。(藍場町には藍場浜公園郷土文化会館(現、あわぎんホール)、その地下には市営駐車場整備された。) アミコビル開業内町小学校再開発は、1972年昭和47年)に徳島商工会議所がまとめた徳島商業近代化計画で、中心市街地駅前地区新町地区2つとして整備発展させるという「2眼レフ構想」が発表されたことが契機となってスタートし紆余曲折経て1979年昭和54年)に主要テナント大手百貨店のそごうに決定詳細そごう徳島店参照。)、1983年昭和58年)、徳島駅前再開発ビルアミコビルとしてオープンした。この再開発実現により、徳島駅前を中心とした内町地区集客力大幅にアップしオープン後1985年昭和60年)には年間小売販売額新町地区上回った。 アミコビルオープン以降も、1993年平成5年)にJR徳島駅ビル徳島クレメントプラザ」が完成するなど、徳島駅前は順調な発展続けた最盛期平成6年には年間小売販売額が866億円に達し、アミコオープン前(319億円)の約2.7倍となった。しかし、長引く景気低迷2000年平成12年)のそごう破綻その後経営改革による売上減少2001年平成13年)の県内初のシネマコンプレックス備えたフジグラン北島北島町)の開店はじめとする郊外大型ショッピングセンターロードサイド店舗相次ぐ出店高速道路網整備2009年3月28日から実施ETC休日特別割引などで高松神戸大阪への買い物客増加などが原因となり、買い物客減少続いた

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商業地区としての歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/04 01:02 UTC 版)

新町地区 (徳島市)」の記事における「商業地区としての歴史」の解説

近代以前 藩政時代には町人相手商店立ち並ぶ地区であり、当時西新町のほうが栄えていたが、明治に入ると東新町商店街栄えるようになり、内町地区しのいで徳島県一、西日本でも有数繁華街へと成長していった。 丸新百貨店の開店 昭和に入ると、東京大阪大手百貨店による出張販売会が頻繁に行われるようになり、百貨店進出警戒した地元商店主資本家中心となって、同9年東新町商店街鉄筋コンクリート5階建ての丸新百貨店当初新町百貨店)が開店した翌年には一楽屋百貨店開店徳島空襲後、廃業)し、激し競争繰り広げられた。この当時東新町商店街は既にアーケード街化されており、流行品もいち早く手に入る最先端商店街であった終戦から高度経済成長期まで 1945年昭和20年)の徳島空襲で、市街地壊滅し新町地区丸新除いて全て消失した。これにより、江戸時代から残っていた歴史ある街並みも完全に消滅し新たな都市計画基づいたまちづくりが行われることとなった新町地区では、若手商店主による積極的な復興活動が行われ、昭和20年代後半には、戦前並み賑わい戻ってきた。また、西新町四国でも随一規模を誇る繊維卸業者の集まる地区として発展していった。 それに続く高度経済成長期には、売り上げ歩行者通行量ともに右肩上がり増加し丸新3度にわたる増床行った1971年昭和46年)には籠屋町商店街大手スーパーダイエー徳島店、東新町商店街ファッションビルの「サカエヤ」(現在のキョーエイ経営)が相次いで開店し映画館増設拡張加わって、その繁栄頂点達したこのころ1976年昭和52年)[いつ?]の東新町歩行者通行量平日17697人、休日は30581人であり、これは現在の通行量の約20倍にのぼる(徳島市中心商店街通行量調査結果報告書より)。流行商品最新文化得られる街として、鉄道バス利用して県内のほぼ全域から人々集まった新町地区小売店のなかからは、豊富な資金知名度背景にして多店舗化進め、市郊外ロードサイド店や、県内一円店を出すものも現れ新町地区は、現在徳島地場資本となっている企業育む土壌にもなった。イーオンジオス前身である英会話教室アンビック」が西新町生まれたのは、1972年昭和47年)のことである。丸新徳島飛行場鳴門鴨島阿南脇町池田など県内一円支店出張所設置南末広町への流通センター建設といった積極的な事業展開おこない全国百貨店開催される催事徳島会場一手に担うなど、徳島県随一百貨店として繁栄した再開発構想と内町地区のアミコビル開業 しかし、昭和40年代には、モータリーゼーション郊外店の増加による新町地区中心としてき徳島市商業環境崩壊懸念され始め郊外店への対抗と、さらなる発展のために地区再開発求める声があがり始めた1972年昭和47年)に徳島商工会議所がまとめた「徳島商業近代化計画」で、中心市街地駅前地区新町地区の、2つとして整備競合させることにより発展させるといういわゆる「2眼レフ構想」が発表されこれを契機として徳島市地元商店街丸新などが主体となり、新町をつくることを目的として「新町ペンタゴン再開発計画」が持ち上がった。「ペンタゴン」は新町橋通り大工町紺屋町シンボルロード両国橋南商店街と、新町川南岸現在のしんまちボードウォーク)に囲まれ5角形区域東新町籠屋町銀座商店街全て区域内に収まる。)であり、新町地区繁華街のほぼ全域相当する。ここを一挙に再開発することで、丸新拡張新しいショッピングロード、映画館大手ホテルマンション飲食店街、公園立体駐車場などの整備一気実現させようというものであったこの頃内町地区として持ち上がった徳島駅前西地区再開発計画が、山本潤造市長当時)の後押しと、半分以上用地市有地の内町小学校であったことから新町計画よりも先行して進んでいた。計画には、本格的な都市型百貨店誘致することが盛り込まれており、これに対して新町地区商店主からは反発の声が上がり1979年7月に、市内小売業者ら約千人による西新町から市役所までデモ行進おこなわれた。その一方大型百貨店進出経営基盤揺らぐことを警戒した丸新が、キーテナントとして名乗り挙げるなどの問題生じたそごう徳島店の項参照。)結局駅西地区再開発は、大手百貨店の「そごうをキーテナントとすることで決着し丸新新町とどまり、そごうに対抗して新町再開発社運をかけることとなった。しかし、丸新地元商店単独では大規模な再開発を行うだけの力はなく、また、1981年昭和56年)春、郊外型大型ショッピングセンター徳島リバーシティジャスコメイン南末広町)、ニチイ徳島店(のちの徳島サティ万代町)の相次ぐ開店沖浜などへの郊外店の進出により、賑わい陰り見え始めていたことから、丸新当時西日本への出店力を入れていた西武百貨店資本提携し、西武中心として大規模再開発実現目指すこととなった1983年10月徳島駅西地区再開発ビルは、徳島駅前再開発ビルアミコビルとしてオープンした徳島そごう(現そごう徳島店)は、当時四国百貨店最大店舗面積誇り、「徳島生んだ四国最大百貨店」というキャッチフレーズのもと、開店日には約15万人買い物客押し寄せた。 アミコビルオープン、再開発頓挫丸新閉店 アミコビルオープン後は人の流れ変わり東新町よりも徳島駅前の方が賑わう様になり始めた1985年昭和60年)には、これまで新町地区圧倒的に上回っていた年間小売販売額内町地区初め抜かれその後現在に至るまで差が開く一方になった丸新は、店舗面積が3倍以上あるそごうの圧倒的な品揃え太刀打ちできず、また、これまで毎年丸新行われていた催事をそごうに奪われるなど苦境に立たされた。西武百貨店支援受けて店舗改装行ったが、バブル景気一時期除いて売上は下がり続け県内各地出張所閉鎖するなど事業縮小余儀なくされた。頼み再開発計画は、バブル景気只中1988年準備組合設立したものの、その数年後バブル崩壊不況により停滞1993年平成5年)には西武百貨店事業からの撤退決めたため、事実上頓挫ししんまちボードウォーク建設と、アーケード改築施されるとどまった同年JR四国最大駅ビルである徳島駅ビル開業し内町地区への客の流出はさらに加速1995年平成7年3月、ついに丸新閉店追い込まれた。後継テナントはなく、敷地阿波銀行取得し東新町商店街面した丸新本館取り壊され広場になり、新館阿波銀プラザとして残った。 なお、丸新自体倒産したわけではなく負債を残すこともなかった。(徳島新聞朝刊平成7年2月社会面特集「まるしん閉店波紋」より)丸新徳島飛行場売店丸新空港店」で、現在も営業行なっている。 丸新閉店大きなであった丸新失ったのち、新町地区衰退はさらに進み2001年平成13年)に徳島県初のシネマコンプレックス備えたフジグラン北島開店すると、新町地区にあった映画館次々閉館2005年11月には、ダイエー徳島店及び徳島東宝閉館したのを最後に新町地区から映画館大手スーパー全て消滅することになった東新町商店街通行量著しく減少し昭和40年代20分の1にまで落ち込んだ空き店舗が増加し取り壊され建物跡地コインパーキング化するなど、空洞化目立っている。

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