商業地区としての歴史
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「ひょうたん島 (徳島県)」の記事における「商業地区としての歴史」の解説
近代以前 藩政時代は、阿波藩の御用商人が集まる地区として栄えた。明治に入ると、新町地区のほうが商業の中心として栄えるようになり、相対的に地位が低下した。しかし、1899年(明治32年)に徳島駅が開業すると、徳島市の玄関口として栄えるようになり、商店が建ち並んだ。その後、路線バス路線も徳島駅を中心に整備され、内町地区は徳島市の公共交通機関のターミナルとして成長した。 終戦直後~高度経済成長期 1945年(昭和20年)の徳島空襲により、内町地区全域が焼失したが、戦後はいち早く復興し、昭和30年代に入ると徳島名店街や地場百貨店のつぼみや(閉店後は「徳島ビブレ」を経て、複合商業ビルの「ラスタ徳島」となったが、現在は空ビルが解体された)、南海ショッピングセンター(のちにとくしまCITY、現ダイワロイネットホテル徳島駅前)といった大型商業施設が相次いでオープンした。また、国道192号線(通称、国体道路)が整備され、沿道の八百屋町にはオフィスビルも建つようになった。 しかし、当時徳島県最大の繁華街として栄えていた新町地区と比較すると内町地区は規模が小さく、また、徳島駅前や藍場町(いわゆる藍場スラム)には空襲の焼け跡の闇市に由来するバラック街が未だ残り、駅前西地区の広大な部分を内町小学校が占めるなど、県庁所在地の駅前としては見劣りしており、土地利用が有効にできていないことが徳島市や市民の間で指摘されるようになった。 その後、バラック街は昭和40年代取り壊され、1971年(昭和46年)に駅前西側にポッポ街商店街が整備された。(藍場町には藍場浜公園、郷土文化会館(現、あわぎんホール)、その地下には市営駐車場が整備された。) アミコビル開業後 内町小学校の再開発は、1972年(昭和47年)に徳島商工会議所がまとめた徳島商業近代化計画で、中心市街地を駅前地区と新町地区を2つの核として整備、発展させるという「2眼レフ構想」が発表されたことが契機となってスタートし、紆余曲折を経て1979年(昭和54年)に主要テナントを大手百貨店のそごうに決定(詳細はそごう徳島店参照。)、1983年(昭和58年)、徳島駅前再開発ビルアミコビルとしてオープンした。この再開発の実現により、徳島駅前を中心とした内町地区の集客力は大幅にアップし、オープン後の1985年(昭和60年)には年間小売販売額で新町地区を上回った。 アミコビルオープン以降も、1993年(平成5年)にJR徳島駅ビル「徳島クレメントプラザ」が完成するなど、徳島駅前は順調な発展を続けた。最盛期の平成6年には年間小売販売額が866億円に達し、アミコオープン前(319億円)の約2.7倍となった。しかし、長引く景気低迷、2000年(平成12年)のそごう破綻とその後の経営改革による売上減少、2001年(平成13年)の県内初のシネマコンプレックスを備えたフジグラン北島(北島町)の開店をはじめとする、郊外の大型ショッピングセンターやロードサイド店舗の相次ぐ出店、高速道路網の整備や2009年3月28日から実施のETC休日特別割引などで高松や神戸や大阪への買い物客の増加などが原因となり、買い物客の減少が続いた。
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商業地区としての歴史
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「新町地区 (徳島市)」の記事における「商業地区としての歴史」の解説
近代以前 藩政時代には町人相手の商店が立ち並ぶ地区であり、当時は西新町のほうが栄えていたが、明治に入ると東新町商店街が栄えるようになり、内町地区をしのいで徳島県一、西日本でも有数の繁華街へと成長していった。 丸新百貨店の開店 昭和に入ると、東京、大阪の大手百貨店による出張販売会が頻繁に行われるようになり、百貨店進出を警戒した地元商店主や資本家が中心となって、同9年、東新町商店街に鉄筋コンクリート5階建ての丸新百貨店(当初は新町百貨店)が開店した。翌年には一楽屋百貨店も開店(徳島空襲後、廃業)し、激しい競争が繰り広げられた。この当時東新町商店街は既にアーケード街化されており、流行品もいち早く手に入る最先端の商店街であった。 終戦から高度経済成長期まで 1945年(昭和20年)の徳島空襲で、市街地は壊滅し、新町地区も丸新を除いて全て消失した。これにより、江戸時代から残っていた歴史ある街並みも完全に消滅し、新たな都市計画に基づいたまちづくりが行われることとなった。新町地区では、若手商店主による積極的な復興活動が行われ、昭和20年代後半には、戦前並みの賑わいが戻ってきた。また、西新町は四国でも随一の規模を誇る繊維卸業者の集まる地区として発展していった。 それに続く高度経済成長期には、売り上げ、歩行者通行量ともに右肩上がりに増加し、丸新も3度にわたる増床を行った。1971年(昭和46年)には籠屋町商店街に大手スーパーのダイエー徳島店、東新町商店街にファッションビルの「サカエヤ」(現在のキョーエイが経営)が相次いで開店し、映画館の増設、拡張も加わって、その繁栄は頂点に達した。このころ1976年(昭和52年)[いつ?]の東新町の歩行者通行量は平日17697人、休日は30581人であり、これは現在の通行量の約20倍にのぼる(徳島市中心商店街通行量調査結果報告書より)。流行の商品、最新の文化を得られる街として、鉄道、バスを利用して県内のほぼ全域から人々が集まった。新町地区の小売店のなかからは、豊富な資金と知名度を背景にして多店舗化を進め、市郊外のロードサイド店や、県内一円に店を出すものも現れ、新町地区は、現在徳島の地場資本となっている企業を育む土壌にもなった。イーオン、ジオスの前身である英会話教室「アンビック」が西新町に生まれたのは、1972年(昭和47年)のことである。丸新も徳島飛行場、鳴門、鴨島、阿南、脇町、池田など県内一円に支店や出張所の設置、南末広町への流通センターの建設といった積極的な事業展開をおこない、全国の百貨店で開催される催事の徳島会場を一手に担うなど、徳島県随一の百貨店として繁栄した。 再開発構想と内町地区のアミコビル開業 しかし、昭和40年代には、モータリーゼーションや郊外店の増加による新町地区を中心としてきた徳島市の商業環境の崩壊が懸念され始め、郊外店への対抗と、さらなる発展のために地区の再開発を求める声があがり始めた。 1972年(昭和47年)に徳島商工会議所がまとめた「徳島商業近代化計画」で、中心市街地を駅前地区と新町地区の、2つの核として整備、競合させることにより発展させるといういわゆる「2眼レフ構想」が発表され、これを契機として、徳島市や地元商店街、丸新などが主体となり、新町の核をつくることを目的として「新町ペンタゴン再開発計画」が持ち上がった。「ペンタゴン」は新町橋通り、大工町、紺屋町シンボルロード、両国橋南商店街と、新町川南岸(現在のしんまちボードウォーク)に囲まれた5角形の区域(東新町、籠屋町、銀座商店街は全て区域内に収まる。)であり、新町地区の繁華街のほぼ全域に相当する。ここを一挙に再開発することで、丸新の拡張、新しいショッピングロード、映画館、大手ホテル、マンション、飲食店街、公園、立体駐車場などの整備を一気に実現させようというものであった。 この頃、内町地区の核として持ち上がった徳島駅前西地区の再開発計画が、山本潤造市長(当時)の後押しと、半分以上の用地が市有地の内町小学校であったことから新町の計画よりも先行して進んでいた。計画には、本格的な都市型百貨店を誘致することが盛り込まれており、これに対して新町地区の商店主からは反発の声が上がり、1979年7月に、市内の小売業者ら約千人による西新町から市役所までデモ行進をおこなわれた。その一方、大型百貨店の進出で経営基盤が揺らぐことを警戒した丸新が、キーテナントとして名乗りを挙げるなどの問題も生じた(そごう徳島店の項参照。)結局、駅西地区の再開発は、大手百貨店の「そごうをキーテナントとすることで決着し、丸新は新町にとどまり、そごうに対抗して新町の再開発に社運をかけることとなった。しかし、丸新や地元商店単独では大規模な再開発を行うだけの力はなく、また、1981年(昭和56年)春、郊外型大型ショッピングセンターの徳島リバーシティ(ジャスコがメイン。南末広町)、ニチイ徳島店(のちの徳島サティ、万代町)の相次ぐ開店、沖浜などへの郊外店の進出により、賑わいに陰りが見え始めていたことから、丸新は当時西日本への出店に力を入れていた西武百貨店と資本提携し、西武を中心として大規模再開発の実現を目指すこととなった。 1983年10月、徳島駅西地区再開発ビルは、徳島駅前再開発ビルアミコビルとしてオープンした。徳島そごう(現そごう徳島店)は、当時四国の百貨店で最大の店舗面積を誇り、「徳島が生んだ四国最大の百貨店」というキャッチフレーズのもと、開店日には約15万人の買い物客が押し寄せた。 アミコビルオープン、再開発頓挫、丸新閉店 アミコビルオープン後は人の流れが変わり、東新町よりも徳島駅前の方が賑わう様になり始めた。1985年(昭和60年)には、これまで新町地区が圧倒的に上回っていた年間小売販売額を内町地区に初めて抜かれ、その後は現在に至るまで差が開く一方になった。丸新は、店舗面積が3倍以上あるそごうの圧倒的な品揃えに太刀打ちできず、また、これまで毎年丸新で行われていた催事をそごうに奪われるなど苦境に立たされた。西武百貨店の支援を受けて店舗の改装を行ったが、バブル景気の一時期を除いて売上は下がり続け、県内各地の出張所を閉鎖するなど事業縮小を余儀なくされた。頼みの再開発計画は、バブル景気只中の1988年に準備組合が設立したものの、その数年後のバブル崩壊と不況により停滞、1993年(平成5年)には西武百貨店が事業からの撤退を決めたため、事実上頓挫し、しんまちボードウォークの建設と、アーケードの改築が施されるにとどまった。同年、JR四国最大の駅ビルである徳島駅ビルが開業し、内町地区への客の流出はさらに加速、1995年(平成7年)3月、ついに丸新は閉店に追い込まれた。後継テナントはなく、敷地は阿波銀行が取得し、東新町商店街に面した丸新本館は取り壊されて広場になり、新館は阿波銀プラザとして残った。 なお、丸新自体は倒産したわけではなく、負債を残すこともなかった。(徳島新聞朝刊平成7年2月の社会面特集「まるしん閉店の波紋」より)丸新は徳島飛行場の売店「丸新空港店」で、現在も営業を行なっている。 丸新閉店後 大きな核であった丸新を失ったのち、新町地区の衰退はさらに進み、2001年(平成13年)に徳島県初のシネマコンプレックスを備えたフジグラン北島が開店すると、新町地区にあった映画館は次々に閉館、2005年11月には、ダイエー徳島店及び徳島東宝が閉館したのを最後に、新町地区から映画館と大手スーパーが全て消滅することになった。東新町商店街の通行量は著しく減少し、昭和40年代の20分の1にまで落ち込んだ。空き店舗が増加し、取り壊された建物の跡地がコインパーキング化するなど、空洞化が目立っている。
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