復興活動
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鎮火した翌日の10月31日早朝から、酒田市役所において、山形県・庄内支庁建設部・酒田市都市計画課・建設省などにより「火災復興都市計画」の作業が開始された。この作業は大変迅速に行なわれ、翌日の11月1日には「防災都市づくりの計画概要」が完成した。 この復興計画は「防災都市の建設」を柱とし、「将来交通量に対応した幹線道路の整備」「近代的な魅力ある商店街の形成」「住宅地の生活環境の改善整備」「商店街と住宅街の有機的な結びつけ」を掲げていた。特に商店街の復興に合わせた災害に対する整備と緑地化が積極的に行われたことと、「火災復興都市計画」に対する住民への説明および反対派への説得が半年程度で完了したことで、わずか2年半後の1979年には復興式典が行なわれた。 災害派遣で出動した自衛隊が道路啓開作業のため、被災地区の残骸撤去を行う。この種の活動は通常は行われないが、突然の火災で全てを失った被災者のために法律解釈を変更して実施された。 1995年に発生した阪神・淡路大震災においては、残骸撤去の実績が自衛隊による倒壊家屋撤去の根拠にされたほか、短期間での都市復興が参考にされた。 当地出身の岸洋子は義捐のリサイタルを各地で催し、800万円を寄付した。
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復興活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 02:33 UTC 版)
8月の水害では、当時は珍しかったブルドーザーやクレーン車が使用され、各河川の応急工事が進んだ。8月15日未明には災害救助法の適用が決定され、同時に救援活動、応急復旧作業が開始された。16日には、交通が遮断された和束町や南山城村、童仙房地区へはアメリカ海兵隊のヘリコプターによる救援物資の運搬も実施された。18日からの物資として、塩や米、野菜類が記録されている。野殿区から、被害の甚大であった童仙房の牛馬地区へ救援物資が運ばれた。野殿区には、水害発生からの復旧活動の日誌が残されており、区民が復旧活動を行ったことが記されている。9月には奈良線・関西本線の運転が再開された。玉水駅のホームには、玉川から流れ着いた巨石が記念に残されている。 1954年には水難者記念塔が建立された。 流失した玉水橋の再建は、1956年11月に完了。大正池と二ノ谷池の跡地には、「淀川水系改修基本計画」によって改めて大正池が造成され、1960年に完成した。
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