復興期の新車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 18:29 UTC 版)
550形は宝塚線や箕面線で運用を開始した。当時の宝塚線は在籍車両の故障等で輸送力不足に陥っており、従来車に比べて少し大きな本形式は混雑時の詰め込みもきくことから輸送力の増強に貢献した。運用面では550形のみの2・4両編成のほか、宝塚側に300形や380形を連結した3両編成、時には500形との4両編成でも運用された。 564は組成相手の車両がなく、500形で同じく組成相手のなかった530を方転して2両編成を組成した。1951年には運用上の都合から565が追加で製造され、550形のみで編成を組むように改められた。 1952年の宝塚線規格向上工事完成後は、本形式は他の小型車各形式同様、客用扉にステップを取り付け、急行から普通まで宝塚線の各列車種別に充当されたが、小型車ながら輸送力の大きい本形式は、新造の810系や神戸線から転入してきた600形とともに4両編成で急行運用によく充当された。また、この時期には本形式をはじめとした新車の投入や600形の転入、故障車の復帰によって輸送力が増強され、登場直後の激しい混雑も解消されたことから上段窓の保護棒が撤去された。 1956年の1200系の製造にあたっては、台車を再び600形へ戻すこととなり、偶数車が610系660形より捻出の住友金属工業製KS-33L(H-5)に、奇数車が300形310 - 315及び電動貨車209・210等より捻出のボールドウィンBW78-25AAに交換された。台車換装に先立ち、1955年には562・564の制御器をMPC-120Hに改造されている。 1950年代後半には、ガラスの供給が安定してきたことにより、窓枠が当初より細く、四隅を曲線処理したものに交換された。また、客用扉間の座席も切り詰められていた両端分が延長されるなど、車内外の様々な箇所を手直しすることで、他の阪急の車両と遜色ない内装に変貌していった。 この時期には4両編成での連結運転が常態化したことから貫通扉に幌枠が設けられている。その後1100系や1200系、2100系などの宝塚線向け大型車の増備をはじめ900形や920系の宝塚線転入によって、本形式は主に普通を中心に運用されるようになったが、1961年からは、朝ラッシュ時の曽根駅折り返しの普通を中心に、阪急の小型車では唯一となる6両編成での運用が開始された。 1962年12月には伊丹線での列車増発に対応して556-557~560-561の2両編成3本が神戸線に転出、1964年12月には554-555と制御車を差し替えた562-565も加わって、本形式のうち半数以上の車両が伊丹線のほか甲陽線でも使用された。ただし、今津線で運用されたことはない。1963年頃には、550~555・563・564の室内灯が蛍光灯化されるとともに、扇風機が取り付けられた。この他、564の袖仕切がクロームメッキのパイプに変更されている。
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