プロデューサー他、製作関係者とは? わかりやすく解説

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プロデューサー他、製作関係者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)

岡田茂 (東映)」の記事における「プロデューサー他、製作関係者」の解説

俊藤浩滋東映関わるうになるのは内縁の妻・上羽秀経営していた銀座バー『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった鶴田浩二東映移籍や、水原茂東映フライヤーズ監督招聘仲介などで大川博と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材窮していた岡田が俊に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊鋭く旺盛な企画力舌を巻いた大川岡田考え改め東映外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田頼んできたのは俊からだという。「ヤクザみたいなものを辞めるとき、僕のところに来て『あんたの下に入れてくれんか。付き人みたいに俺、勉強したいんだ。プロデューサー将来なりたい』『それはいいけど、おまえ大丈夫か?そんなに金は入らんで』と言ったら『いやいや、金なら大丈夫です。心配いりません』って言うか俺の下に入れた」と岡田話している。40半ば中年素人が突然、横道から映画界入りプロデューサー納まるという異例中の異例の人事であった。俊ヤクザ細かいこと全部知っていてヤクザ映画時代になって伸びた大川博岡田は「岡田」と呼び捨てだったが、俊には「俊ちゃん」と呼んでいたと俊の凄さを表現する記述一部文献見られるが、俊東映社員ではない外部プロデューサーであり、岡田大川会社直属部下であるため、接し方は違って当たり前なのである高田宏治1964年ごろ、岡田に「面白時代劇アイデア書いて持って来いと言われ持って行ったその頃ストーリーアイデアアイデアと、そればっかり考えていて、そのプロットは、ガリレオという主人公が、伴天連妖術師で、突然、牛のお化けになって船底でその牛の首だけがウジ虫だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から小便をかけたら、それが黄金かたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデア羅列だった。すると読んでいる途中で岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後干されてしまったという。高田は「東映場合はまあ(企画は)岡田さんひとことがあれば決まる」と話している。小沢茂弘も、映画企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権持っていたと話している。俊藤浩滋は「任侠映画隆盛のころは、岡田所長と私の新し企画相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子15分20分で決まった岡田は私を信頼してくれた」「岡田出した企画会議反対する者なんかいなかった」と話している。 1957年監督志望入社してきた日下部五朗を「体もでかいし、力もありそうだ」と無理やりプロデューサー修行させた。 日下部は、「自分がどうしても通したい企画あったら岡田さんところへ二度三度持って行き直談判しました。プロデューサー中でもそこまでやるのは僕だけだったその代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソ罵倒され何度台本ぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社思惑と違う作品作り上げるかに神経注いだという。1983年カンヌ国際映画祭グランプリ取った『楢山節考』は、しつこく通ううち岡田根負けしOK出したという。1979年の映画賞を独占した復讐するは我にあり』は、映画化権を巡るトラブルでも知られるが(復讐するは我にあり#映画)、日下部原作気に入り深作欣二アクション風に撮ろうプランし、佐木隆三夫妻京都招いて接待をしていたが、深作二人で岡田直談判をしたが、当時実録路線勢い失った時期で「もう、実録ものアカン言うとるやろ! 連続殺人鬼みたいな暗い話、当たるか! そんな原作、どっかへ行って売って来い」と、岡田鶴の一声中止させられたと話している。これが今村昌平監督松竹映画化され高い評価得たため、今村監督考えた『楢山節考』にも、岡田いい顔をせず、「前に木下恵介さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実はにっかつロマンポルノ10本分くらい、ドバーッと濡れ場があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリ『楢山節考』には、ちょっと脱いだ清川虹子左とん平乗っかるシーンしかない岡田は『映画ジャーナル1982年2月号のインタビュー『楢山節考』を"異色芸術ポルノ"と表現しており、岡田日下部の話を真に受けていた可能性がある。日下部は、岡田言い出した不良性感度≫「映画元来不良青年がつくるもの。スケベ文学青年作る通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田持論賛成するいろんな監督・脚本家・役者組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している。 徳間康快と仲が良く1974年大映買収した徳間日本映画製作者連盟(以下、映連)に引き入れ徳間メディアミックス力を貸した。以下の角川春樹奥山和由も同様である。 詳細は「徳間康快#エピソード」を参照 岡田角川春樹奥山和由を非常に評価し彼らを支援した角川は「独立プロプロデューサーとして映画作る試みから、メジャー内部プロデュースしてみたいという希望かなえてくれたのは岡田けだった」と述べている。『悪魔が来りて笛を吹くはそうした一本だが、社内機構映画作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思い味わった述べている。角川とは角川映画2作目人間の証明』から、具体的な仕事の縁が始まり『野性の証明』の後、岡田からの要請で、角川角川春樹事務所離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『魔界転生』の三本単独東映プロデューサー務めた。京撮で撮影した魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという。角川とは多く映画タッグ組み一時代築いたが、角川岡田について「最後頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映トップありながら自分プロデューサーであるという意識がとても強い人でした」、「先輩後輩であり、同志であり、言葉言い表せない不思議な関係だった」などと話した岡田角川を「我々の業界変わり者が多いけど、中でも一番激し部類一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐら変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。1976年角川岡田訪ねて来て、「初めての映画犬神家の一族』は東宝組みますと言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや続いて配給東映でやって欲しいんです」と、仰天言葉発した東宝直営映画館上映する興行部門こそ強かったが、地方映画館ネットワーク東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し最初にタッグ組んだ人間の証明』で、配給東映洋画撮影日活撮影所興行東宝洋画系という従来映画界を破る試みに協力したまた、『セーラー服と機関銃』天と地と』では、配給東宝から東映変更したが、岡田松岡功仁義通して話をつけた。岡田角川によるメディアミックス大きくバックアップした。しかし2005年大ヒットした『男たちの大和/YAMATO』角川1人作り上げたかのように話したことに岡田怒っていた。角川プロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた。角川映画キャッチフレーズ流行語となるなど話題呼び 観客動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調当時あった。 1990年角川50円かけて製作した天と地と』の配給当初東宝だったが、事情商談決裂し角川岡田泣きついてきて配給東映洋画部で引き受けることになったその時角川からは狂気上のものが出ていて、もういっぺん教祖になれると岡田見極めたという。「前売り券500万枚売る。そのうち東映100万引き受けてくれ」と啖呵切って角川その通り400万枚前売り売り切った前売り券金券ショップ叩き売られ劇場閑散としていたともいわれるが、岡田は「前売り券の着券率、抜群だというね」と話していた。岡田角川評して軽井沢で夜7時から夜明けまで神仏祈り捧げるっていうな、それも年何回祭事を催すというからな。それぐらいでないとあのエネルギーとてもじゃないが出ないよ。そういう誰も持ち得ない狂気劇場観客殺到させてるんだな」と感心していた。「いま欲しいのはそういう狂気発する教祖サマ育てて出てくるもんじゃないからな。教祖サマ出てこないと流れを変えるほどの大ヒット作品生まれないわな」と話し奥山和由を非常に評価していた。 つかこうへい戯曲映画化した蒲田行進曲』(1982年)は、角川春樹最初に岡田持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな楽屋落ちの話なんか当たるわけない」と断り松竹に話を持って行ったもの。しかし深作欣二が、松竹大船撮影所雰囲気は違う。撮るのは東映京都撮影所じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった当時角川映画は、そんな無茶苦茶実現させる勢いがあった。同作この年多く映画賞独占し配給収入17億6千万円という大ヒット記録した。 この時期岡田は、かつてのようなヒット作見抜く嗅覚衰えており、1977年『八甲田山』企画最初岡田持ち込まれたが「そんな蛇腹明治時代軍服)の話(明治物)が受けるかい」と岡田断り東宝製作され大ヒット1983年日本映画史上に残る記録的大ヒットとなった南極物語』も、蔵原惟繕最初に岡田持ち込んだが「映画なんか、当たるか」と突っぱねたという。この時の後悔からか、奥山和由資金面困って岡田頼んできた『ハチ公物語』(1987年)は、製作に力を貸している。また1990年にはオオカミ主人公にした『オーロラの下で』を製作している。 笠原和夫1989年松竹脚本書いた『226』では圧力内容変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子奥山融奥山和由)はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種活動精神やりたいものはやってみろ、という度胸あったからで、そういう信念あったから、こっちも安心して書けた。岡田さん『226』プロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している。 1986年の映画火宅の人』で、キャメラマン木村大作東映伝統三角マークオープニング変更して日本海新たに撮影したオープニング使おうとした。深作プロデューサーともOK出したが、「会社の顔を変えるとは何事だ」と岡田一喝して、却下させた。 2001年の『千年の恋 ひかる源氏物語』で特撮担当した佛田洋は、ハリウッドでのワールドプレミアに、岡田茂会長主演吉永小百合高岩淡社長岡田裕介プロデューサー数名同行同時多発テロ事件一ヶ月後であったが、それよりも岡田茂オーラの凄さにビビったという。朝、ホテル食堂離れたとこにいたら「こっちへ来いよ」と岡田言われたが、あまりにもオーラが凄すぎて「いや、僕はこっちで」と遠慮した。「ぶっちゃけテロ余韻より岡田会長存在感のほうが僕には強烈でした」「僕の大好きな東映不良性感度映画大量に世に送り出したご本人でしょ。ミニチュアがやりたくて東京出てきた自分が、その岡田さん一瞬でも接点を持つなんて思いもしなかった。今思うとあのとき一緒に食事をしとけばよかったなぁ。とにかく『千年の恋』と言うとテロ特撮ことよりそのときのことを思い出します」と話している。

※この「プロデューサー他、製作関係者」の解説は、「岡田茂 (東映)」の解説の一部です。
「プロデューサー他、製作関係者」を含む「岡田茂 (東映)」の記事については、「岡田茂 (東映)」の概要を参照ください。

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