プロデューサー他、製作関係者
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「岡田茂 (東映)」の記事における「プロデューサー他、製作関係者」の解説
俊藤浩滋が東映に関わるようになるのは内縁の妻・上羽秀が経営していた銀座のバー『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった鶴田浩二の東映移籍や、水原茂の東映フライヤーズ監督招聘の仲介などで大川博と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという。「ヤクザみたいなものを辞めるとき、僕のところに来て『あんたの下に入れてくれんか。付き人みたいに俺、勉強したいんだ。プロデューサーに将来なりたい』『それはいいけど、おまえ大丈夫か?そんなに金は入らんで』と言ったら『いやいや、金なら大丈夫です。心配いりません』って言うから俺の下に入れた」と岡田は話している。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった。俊藤はヤクザの細かいことを全部知っていてヤクザ映画の時代になって伸びた。大川博が岡田は「岡田」と呼び捨てだったが、俊藤には「俊ちゃん」と呼んでいたと俊藤の凄さを表現する記述が一部の文献に見られるが、俊藤は東映の社員ではない外部プロデューサーであり、岡田は大川の会社直属の部下であるため、接し方は違って当たり前なのである。 高田宏治は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、そのプロットは、ガリレオという主人公が、伴天連の妖術師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけがウジ虫だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から小便をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している。小沢茂弘も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している。 1957年、監督志望で入社してきた日下部五朗を「体もでかいし、力もありそうだ」と無理やりプロデューサー修行させた。 日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。1983年にカンヌ国際映画祭でグランプリを取った『楢山節考』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。1979年の映画賞を独占した『復讐するは我にあり』は、映画化権を巡るトラブルでも知られるが(復讐するは我にあり#映画)、日下部が原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、佐木隆三夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に直談判をしたが、当時は実録路線も勢いを失った時期で「もう、実録ものはアカン言うとるやろ! 連続殺人鬼みたいな暗い話、当たるか! そんな原作、どっかへ行って売って来い」と、岡田の鶴の一声で中止させられたと話している。これが今村昌平監督で松竹で映画化され高い評価を得たため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に木下恵介さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実はにっかつロマンポルノ10本分くらい、ドバーッと濡れ場があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ清川虹子に左とん平が乗っかるシーンしかない。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現しており、岡田は日下部の話を真に受けていた可能性がある。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している。 徳間康快と仲が良く1974年に大映を買収した徳間を日本映画製作者連盟(以下、映連)に引き入れ、徳間のメディアミックスに力を貸した。以下の角川春樹・奥山和由も同様である。 詳細は「徳間康快#エピソード」を参照 岡田は角川春樹と奥山和由を非常に評価し彼らを支援した。角川は「独立プロのプロデューサーとして映画を作る試みから、メジャー内部でプロデュースしてみたいという希望をかなえてくれたのは岡田だけだった」と述べている。『悪魔が来りて笛を吹く』はそうした一本だが、社内の機構で映画を作ったのは初めてで、多くの人に迷惑をかけ自身も苦い思いを味わったと述べている。角川とは角川映画の2作目『人間の証明』から、具体的な仕事の縁が始まり、『野性の証明』の後、岡田からの要請で、角川は角川春樹事務所を離れて、『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』『魔界転生』の三本を単独で東映のプロデューサーを務めた。京撮で撮影した『魔界転生』が上手くいったため、その後も京撮で何本も組むことになったという。角川とは多くの映画でタッグを組み、一時代を築いたが、角川は岡田について「最後の頼みの綱として、いつも岡田茂という心強い存在があったわけですが、あの人には私の想いなどがカツドウヤとして非常に理解できていたのですね。東映のトップでありながら、自分はプロデューサーであるという意識がとても強い人でした」、「先輩後輩であり、同志であり、言葉で言い表せない不思議な関係だった」などと話した。岡田は角川を「我々の業界は変わり者が多いけど、中でも一番激しい部類の一人だね」「ちょっと危ない、と分かったうえで、付き合わないとね。ほらを吹くから腹も立つ。でもプロデューサーとしての才能はある。天才的だよ。やっぱり映画界は、あれぐらい変わった奴がいないとダメなんだよ」などと評していた。1976年に角川が岡田を訪ねて来て、「初めての映画『犬神家の一族』は東宝と組みます」と言ってきた。ライバル会社と組むのを決めたという報告など必要もなく、何をしに来たのかと思いきや、続いて「配給は東映でやって欲しいんです」と、仰天の言葉を発した。東宝は直営の映画館で上映する興行部門こそ強かったが、地方の映画館ネットワークは東映が強い。角川は、両社の強いところだけを使わせろ、と言ってきたのである。岡田は「当然断るべき話ですよ。でも何故か面白いと思った」と話し、最初にタッグを組んだ『人間の証明』で、配給が東映洋画、撮影が日活撮影所、興行は東宝洋画系という従来の映画界の枠を破る試みに協力した。また、『セーラー服と機関銃』『天と地と』では、配給を東宝から東映に変更したが、岡田が松岡功に仁義を通して話をつけた。岡田は角川によるメディアミックスを大きくバックアップした。しかし2005年に大ヒットした『男たちの大和/YAMATO』を角川が1人で作り上げたかのように話したことに岡田は怒っていた。角川をプロデューサーとして起用したのは岡田で、「あれは東映映画なんだから。あいつ(角川)はカネなんか持ってませんよ」等と話していた。角川映画はキャッチフレーズが流行語となるなど話題を呼び 観客を動員したが、がっかりさせて結果的に映画ファンを減らすのでは、という論調も当時あった。 1990年角川が50億円かけて製作した『天と地と』の配給は当初東宝だったが、事情で商談が決裂し、角川が岡田に泣きついてきて配給を東映洋画部で引き受けることになった。その時の角川からは狂気以上のものが出ていて、もういっぺん教祖になれると岡田は見極めたという。「前売り券を500万枚売る。そのうち、東映で100万枚引き受けてくれ」と啖呵を切って角川はその通り400万枚を前売りで売り切った。前売り券が金券ショップで叩き売られて劇場は閑散としていたともいわれるが、岡田は「前売り券の着券率、抜群だというね」と話していた。岡田は角川を評して「軽井沢で夜7時から夜明けまで神仏に祈りを捧げるっていうな、それも年何回も祭事を催すというからな。それぐらいでないとあのエネルギー、とてもじゃないが出ないよ。そういう誰も持ち得ない狂気が劇場へ観客を殺到させてるんだな」と感心していた。「いま欲しいのはそういう狂気を発する教祖サマ、育てて出てくるもんじゃないからな。教祖サマ、出てこないと流れを変えるほどの大ヒット作品生まれないわな」と話し奥山和由を非常に評価していた。 つかこうへいの戯曲を映画化した『蒲田行進曲』(1982年)は、角川春樹が最初に岡田に持ち込んだ企画であったが、岡田は「そんな楽屋落ちの話なんか当たるわけない」と断り松竹に話を持って行ったもの。しかし深作欣二が、松竹大船撮影所の雰囲気は違う。撮るのは東映京都撮影所じゃないと困ると言ったため、角川が話をつけて松竹映画ながら東映京都での撮影となった。当時の角川映画は、そんな無茶苦茶を実現させる勢いがあった。同作はこの年の多くの映画賞を独占し、配給収入も17億6千万円という大ヒットを記録した。 この時期の岡田は、かつてのようなヒット作を見抜く嗅覚は衰えており、1977年の『八甲田山』の企画は最初は岡田に持ち込まれたが「そんな蛇腹(明治時代の軍服)の話(明治物)が受けるかい」と岡田が断り東宝で製作され大ヒット、1983年日本映画史上に残る記録的大ヒット作となった『南極物語』も、蔵原惟繕は最初に岡田に持ち込んだが「犬の映画なんか、当たるか」と突っぱねたという。この時の後悔からか、奥山和由が資金面で困って岡田に頼んできた『ハチ公物語』(1987年)は、製作に力を貸している。また1990年にはオオカミを主人公にした『オーロラの下で』を製作している。 笠原和夫は1989年に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、奥山和由)はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している。 1986年の映画『火宅の人』で、キャメラマンの木村大作が東映伝統の三角マークのオープニングを変更して日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとした。深作、プロデューサーともOKを出したが、「会社の顔を変えるとは何事だ」と岡田が一喝して、却下させた。 2001年の『千年の恋 ひかる源氏物語』で特撮を担当した佛田洋は、ハリウッドでのワールドプレミアに、岡田茂会長、主演の吉永小百合、高岩淡社長、岡田裕介プロデューサーら数名と同行。同時多発テロ事件の一ヶ月後であったが、それよりも岡田茂のオーラの凄さにビビったという。朝、ホテルの食堂で離れたとこにいたら「こっちへ来いよ」と岡田に言われたが、あまりにもオーラが凄すぎて「いや、僕はこっちで」と遠慮した。「ぶっちゃけテロの余韻より岡田会長の存在感のほうが僕には強烈でした」「僕の大好きな東映不良性感度映画を大量に世に送り出したご本人でしょ。ミニチュアがやりたくて東京に出てきた自分が、その岡田さんと一瞬でも接点を持つなんて思いもしなかった。今思うとあのとき一緒に食事をしとけばよかったなぁ。とにかく『千年の恋』と言うと(テロや特撮のことより)そのときのことを思い出します」と話している。
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