こう‐かん【後漢】
ご‐かん【後漢】
後漢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 03:55 UTC 版)
後漢(ごかん、中国語: 後漢、拼音: 、25年 - 220年)は、中国の古代王朝[1]。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢(中国語: 東漢、拼音: )と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
注釈
- ^ 大秦はローマ帝国のことで、安敦はマルクス・アウレリウス・アントニヌスもしくは先代皇帝であるアントニヌス・ピウスに比定される。しかしローマ側の記録には使者を派遣したということが載っていないので、この使者と言うのは単なる交易商人に過ぎず、ローマ皇帝の名を名乗っただけではないかと考えられる。
出典
- ^ “後漢(ごかん)の意味”. goo国語辞書. 2019年12月9日閲覧。
- ^ 『三國志』文帝紀
- ^ 柿沼陽平「後漢貨幣経済の展開とその特質」(初出:『史滴』第31期(早稲田大学、2009年12月)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P33.
- ^ 柿沼陽平「後漢貨幣経済の展開とその特質」(初出:『史滴』第31期(早稲田大学、2009年12月)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P42-50.
- ^ 柿沼陽平「後漢時代における金銭至上主義の台頭」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)P63-101.
後漢(伝来)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 11:57 UTC 版)
「仏教のシルクロード伝播」も参照 中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。 伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある。 また、1990年代以降に古代中国に仏教が伝来した時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。 また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。 桓帝の時期にインドや西域の仏教者が漢土に到来し、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事した。なかでも安世高・安玄・支婁迦讖(支讖)・竺仏朔(竺朔仏)・支曜・康巨・康孟詳・竺大力らが経典の訳出に携わった。また初めての漢人出家者として厳仏調が現れ、安玄の訳経を助けた。 この時代の仏教書としては『牟子理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の禅観に関する経典やアビダルマ論書である『阿毘曇五法行経』を訳した。 また『出三蔵記集』巻七、「道行経後記」によれば、霊帝の時期に竺仏朔・支婁迦讖らが大乗経典の『道行般若経』を訳出したという。また『般舟三昧経』が光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。インドや西域など幅広い地域から部派仏教と大乗仏教双方の仏典が時を同じくして相次いで訳された。
※この「後漢(伝来)」の解説は、「中国の仏教」の解説の一部です。
「後漢(伝来)」を含む「中国の仏教」の記事については、「中国の仏教」の概要を参照ください。
「後漢」の例文・使い方・用例・文例
後漢と同じ種類の言葉
- >> 「後漢」を含む用語の索引
- 後漢のページへのリンク