NFL入り後
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「クリス・ヘンリー (ワイドレシーバー)」の記事における「NFL入り後」の解説
2005年のドラフト3巡目でシンシナティ・ベンガルズに指名されて入団し9月18日のミネソタ・バイキングス戦でデビューを果たした。この年31回のキャッチで422ヤードを獲得、6タッチダウンをあげた。新人WRとしての6タッチダウンは1985年のエディ・ブラウンが8タッチダウンをあげて以来実に20年ぶりのことであった。チームは15年ぶりにプレーオフに出場しピッツバーグ・スティーラーズと対戦したがその試合で彼はカーソン・パーマーからのパスを受けて66ヤードを獲得したがそのプレーで彼とパーマーは共にひざを負傷しサイドラインに下がった。2年目の2006年には36回のキャッチで605ヤードを獲得、9タッチダウンをあげた。第2週のクリーブランド・ブラウンズ戦では5回のキャッチで113ヤードを獲得した。続くピッツバーグ・スティーラーズ戦では2タッチダウンをあげ、最終週のスティーラーズ戦では124ヤードを獲得する活躍を見せた。 2007年、彼は開幕から8試合出場停止処分を受けた。これはロジャー・グッデルコミッショナーが定めた個人行動規定によるもので第10週のボルチモア・レイブンズ戦で復帰、4回のキャッチで99ヤードを獲得、翌週のアリゾナ・カージナルス戦では8回のキャッチで81ヤードを獲得、1タッチダウンをあげた。この年彼の成績は21回のキャッチで343ヤード獲得にとどまった。2008年に逮捕された後、4月3日ベンガルズから解雇され6月にはNFLから無期限出場停止処分を受けた。しかしT・J・フーシュマンザーデ、チャド・ジョンソン、アンドレ・コールドウェルが負傷したためベンガルズと8月18日に2年契約を結びチームに復帰した。2008年にもシーズン開幕から4試合の出場停止処分を受けたため10月4日にカットされたRBのケニー・ワトソンと入れ替わりでロースター入り、この年は19回のレシーブで220ヤードを獲得、2タッチダウンをあげた。 2009年の5月に行われたチーム練習では欠席したエースWRのチャド・オチョシンコに取って代わることができるとQBカーソン・パーマーより絶賛された。同年11月のボルチモア・レイブンズ戦で20ヤードのキャッチをした後、前腕を骨折し故障者リストに入った。
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NFL入り後
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「デリック・コールマン (アメリカンフットボール)」の記事における「NFL入り後」の解説
UCLA卒業時には2012年のNFLドラフトでは指名されず、同年4月28日にドラフト外でミネソタ・バイキングスに入団したが、プレシーズンゲーム3試合に出場して19回のランで50ヤードを走った後、8月25日に放出された。同年12月5日、シアトル・シーホークスのプラクティス・スクワッドに加わった。 2013年、プレシーズンゲーム第1週のサンディエゴ・チャージャーズ戦では6ヤードのTDレシーブをあげるとともに、スペシャルチームで2タックルをマークした。プレシーズン第4週後の最終ロースターカットで53人ロースターに生き残り、カロライナ・パンサーズとの開幕戦では3回のレシーブで30ヤードを獲得した。12月2日に行われた第13週のニューオーリンズ・セインツ戦において、コールマンはチームメートのTEケレン・デービス(英語版)がはじいたボールをキャッチ、プロ初タッチダウンをあげた。この年12試合に出場した。
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「ラリー・ジョンソン (アメリカンフットボール)」の記事における「NFL入り後」の解説
2003年のNFLドラフト1巡目全体27位でカンザスシティ・チーフスに指名されて入団した。チームはエースRBのプリースト・ホームズが前年12月に臀部の大ケガをしており、状態が万全ではないことから彼を指名したがヘッドコーチのディック・ヴァーミールはディフェンス選手の指名を欲していた。キャンプ開幕前の7月17日に彼はチーフスと7年契約を結んだ。 ジョンソンとヴァーミールコーチの間の確執は次第に大きくなり、2004年にはヴァーミールコーチによるジョンソンは成長し「おむつを取る必要がある」(Take the Diapers off)と発言した。周囲のものは彼がトレードで放出されるのではないかと観測したがプリースト・ホームズとデリック・ブレイロックが負傷し彼に先発の座が回ってくると最初の3試合でいずれも150ヤード以上を走る大活躍を見せた。 2005年にも同じ状況が繰り返された。ブレイロックが退団し11月初めにホームズが首の負傷でシーズン絶望になると11月20日のヒューストン・テキサンズ戦で211ヤードを走り2タッチダウンをあげるなどホームズ負傷後はNFLトップのラッシングヤードを稼いだ。シーズン終了までにジョンソンは9試合連続で100ヤード以上走りプロボウルに選ばれた。ジョンソンはシーズン当初7試合は先発出場しなかったにもかかわらず1,750ヤードを走りチームのシーズン記録を塗り替えた。またレシーバーとしても33回のキャッチで343ヤード、平均10ヤード以上を稼ぐなど非凡なものを見せた。チームはこの年10勝6敗の成績をあげたがプレーオフ出場はならなかった。 2006年になると2シーズン続けて負傷したホームズに代わって彼はチームのエースRBとなった。416回のキャリー(NFL記録)で1,789ヤード(リーグ2位)を走りチームは9勝7敗でプレーオフに出場したがインディアナポリス・コルツ戦で彼は13回のキャリーで30ヤードしか獲得できずにチームは敗れた。この年2年連続でプロボウルに選出された。 2007年、トレーニングキャンプをホールドアウトしていた彼は6月21日チームと契約を結び直す合意をした。7月22日にはグリーンベイ・パッカーズとの間でドラフト1巡、2巡、3巡目指名権とトレードされるといった噂が流れたが8月21日に2012年までの5年契約が結ばれ彼はNFLのRBの中で平均年俸トップに躍り出た。この年の第9週、グリーンベイ・パッカーズ戦の第4Q終盤に負傷してサイドラインに下がった。この負傷はシーズン絶望となる大怪我で彼は故障者リスト入りした。この年の成績は158回のキャリーで559ヤード、わずか3タッチダウンに留まった。 2008年9月7日、怪我から復帰戦となったニューイングランド・ペイトリオッツ戦で彼は22回のキャリーで平均3.4ヤード、74ヤードを獲得したがチームは10-17で敗れた。翌週のオークランド・レイダース戦にも敗れると彼はマスコミに対してチームが彼にボールをあまり持たせないことについて不満をもらした。続く2試合で彼は52回のキャリーで平均6.1ヤード、合計で319ヤードを獲得した。10月18日のテネシー・タイタンズ戦で彼はチームの規律違反を犯したとしてチームから出場停止処分を受けた。翌週のニューヨーク・ジェッツ戦でも彼はサイドラインを暖めた。その後、NFLコミッショナーのロジャー・グッデルから2008年2月に彼がナイトクラブで女性に暴力を振るい逮捕されたことに対して1試合の出場停止処分を下すと発表された。この年彼は874ヤード、5タッチダウンの成績でシーズンを終えた。 2009年2月、2年連続でチーム成績が低迷していること、カンザスシティ市内でもブーイングを浴びることなどから移籍を望む発言を地元ラジオ局のインタビューで明かした。 2009年にチーフスのヘッドコーチに就任したトッド・ヘイリーの方針に不満を抱き4月18日から始まったミニキャンプには欠席した。またシーズン開幕後1勝6敗とチーム成績が低迷した時点でロッカールームやTwitterでNFL選手経験のないトッド・ヘイリーにヘッドコーチとしての資質がないと批判をしたためチームから1試合の出場停止処分を受けた。その後チームに復帰することなく11月9日にチームから解雇された。2009年シーズンは7試合に出場し358ヤード獲得(1回あたり2.7ヤード)、タッチダウン0回であった。 その同月17日にシンシナティ・ベンガルズと契約を結んだ。マービン・ルイスヘッドコーチによると当初はランニングバックの序列でも最後でありセドリック・ベンソンなど主力が離脱した場合の保険と評価されていたが、11月30日のクリーブランド・ブラウンズ戦で先発出場を果たし22回のランで107ヤードを走りチームの勝利に貢献した。 シーズン終了後フリーエージェントとなっていた彼は2010年3月ワシントン・レッドスキンズと契約を結んだが、開幕から2試合で5回のランでわずか2ヤードに終わりチームより放出された。 2011年8月23日、マイアミ・ドルフィンズと契約を結んだが、9月3日、最終ロースターカットでドルフィンズより解雇された。その後、ダニエル・トーマスが負傷したことから9月8日にドルフィンズと契約、第2週のヒューストン・テキサンズ戦で1回2ヤードに終わった後、解雇された。
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NFL入り後
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「ショーン・アレキサンダー」の記事における「NFL入り後」の解説
2000年ドラフトの1巡目(全体で19番目)でシアトル・シーホークスに入団した。この指名権はシーホークスがジョーイ・ギャロウェイをダラス・カウボーイズにトレードして手に入れたものであった。 1年目はリッキー・ワターズの控えとしての起用であり、わずか313ヤードの獲得で2タッチダウンに終わった。2年目にはワターズが怪我により現役を引退したため、エースRBとなり1318ヤードを走り、ラン、レシーブ合計でマーシャル・フォークに次ぐ16タッチダウンをあげた。オフェンスラインはプロボウル出場経験のあるウォルター・ジョーンズ、新人のスティーブ・ハッチンソンに率いられ、2001年11月11日に行われた同地区のライバル、オークランド・レイダース戦(ハスキー・スタジアム)では35回のキャリーで266ヤードを獲得した。 2002年9月29日にクエスト・フィールドで行われたミネソタ・バイキングス戦では前半だけで4タッチダウンをあげると共に80ヤードのタッチダウンレシーブも記録した。ハーフで5タッチダウンをあげたのは彼が初であった。この試合はESPNサンデーナイトフットボールであったため全米に彼の活躍は放送された。このシーズン彼はNFCトップの16ラッシングタッチダウンをあげた。 2003年シーズン、彼は自己ベストとなる1435ヤードを走り、16タッチダウンをあげた。シーホークスは2000年以来となるプレーオフ進出を果たし、彼も自身初のプロボウルに選ばれた。 2004年シーズン、1,696ヤードを走ったがニューイングランド・ペイトリオッツのカーティス・マーティンとわずか1ヤード差でシーズンラッシングリーダーを逃した。最終節のアトランタ・ファルコンズ戦で彼はマイク・ホルムグレンヘッドコーチに自分にたくさんボールを持たしてほしいと訴えたがその願いは拒絶されたことを翌日の記者会見で述べた。 2005年シーズン、彼は9月25日のアリゾナ・カージナルス戦、10月16日のヒューストン・テキサンズ戦で共に4タッチダウンをあげた。また11月6日のアリゾナ・カージナルス戦で88ヤードのタッチダウンランをあげた。また11月13日のセントルイス・ラムズ戦では165ヤードを走り3タッチダウンをあげた。この試合までの連続5試合で15ラッシングタッチダウンランをあげるNFL新記録を達成した(それまでの記録は1945年のスティーブ・バンビューレンの18タッチダウン)。シーズン10試合目となった11月20日のサンフランシスコでの試合でシーズン19個目となるタッチダウンをあげた最初の選手となった。この年彼は1,880ヤードを走りシーズンラッシングリーダーになると共にNFL記録(当時)となる27個のタッチダウンを決め2003年にプリースト・ホームズが作ったラッシングタッチダウンシーズン記録も塗り替えた。12月11日のサンフランシスコ・フォーティナイナーズ戦に勝利したチームはNFC西地区優勝を果たした。この試合で彼は100ヤード以上走った試合が9試合目となり、クリス・ウォレンの8試合というチーム記録を塗り替えた。その間、ウォルター・ペイトンが持っていた同地区ライバルとの試合での9試合連続100ヤード以上獲得という新記録も達成している。12月18日のテネシー・タイタンズ戦で2年連続シーズン1,600ヤード以上獲得を達成しチーム記録となるシーズン10試合目のラン獲得100ヤード以上を達成すると共にシーズン24個目のタッチダウンを記録した。この年いくつもの記録を作った彼はMVPに選ばれプレーオフでも存在感を見せてチームをスーパーボウルまで導いた。2008年1月1日のグリーンベイ・パッカーズ戦で彼はNFL記録となるシーズン28個目のタッチダウン(シーズン27個目のラッシングタッチダウンはプリースト・ホームズに並ぶタイ記録)をあげ4日後の1月5日にはティキ・バーバーやペイトン・マニング(2003年、2004年シーズンMVP)を抑えてシーホークス初のMVPに選ばれた。1880ヤードを走った彼は初のシーズンラッシングリーダーとなり、エミット・スミス、プリースト・ホームズ、マーシャル・フォークに次いで史上4人目の2年連続20タッチダウン以上の記録を達成した。ワシントン・レッドスキンズとのディビジョナルプレーオフではゲーム序盤に脳震盪に見舞われゲームの残りをサイドラインから見守ることとなったが、カロライナ・パンサーズとのNFCチャンピオンシップゲームでは34回のキャリーで132ヤードを走り2タッチダウンをあげた。2月5日に行われた第40回スーパーボウルでは95ヤードを走ったがピッツバーグ・スティーラーズに敗れた。 2006年3月、ランニングバックとしてはNFL史上最高額である8年6200万ドル,、この時点でのNFLのランニングバック最高額での契約を結んだ。しかしその数週間後にはオールプロに選出されたフリーエージェントになっていたハッチンソンがミネソタ・バイキングスに移籍し 彼の活躍を支えたオフェンスラインは弱体化してしまった。前年の活躍によって彼はマッデンNFL07(2006年発売)のカバーキャラクターに選ばれた(2001年には同じEAスポーツから発売されたNCAAフットボールシリーズのカバーキャラクターを務めており、両ゲームのカバーとなった最初の選手になっている。) が第3週のニューヨーク・ジャイアンツ戦で左足の亀裂骨折をしてしまい、マッデンの呪いが続いていると報道された。しかしこの試合で彼は102個目のタッチダウンをあげスティーブ・ラージェントが持っていたチーム記録を更新した。11月19日のサンフランシスコ・フォーティナイナーズ戦で復帰したが17回のキャリーで37ヤードの獲得にとどまった。翌週11月27日のグリーンベイ・パッカーズとのマンデーナイトフットボールではチーム記録となる40回のキャリーで201ヤードを走った。しかし12月10日のアリゾナ・カージナルス戦で再び負傷してしまいバリー・サンダースが持っていたラン獲得10ヤード以上の連続記録を破ったがチームは敗れた。このシーズン彼は10試合の出場にとどまり、252回のアテンプトで896ヤードの獲得、7タッチダウンで終了、2年目から継続していたシーズン1000ヤードラン、タッチダウン数2桁の連続記録が途切れた。 2007年、プロボウル、センターのロビー・トベックが引退したためシーホークスのオフェンスラインは弱体した。第1週のタンパベイ・バッカニアーズ戦で彼は左手首を骨折してしまった。彼はコーチやメディアに欠場せずプレーしつづけると伝えたがパフォーマンスは落ちていき、リードブロッカーのマック・ストロングも首の椎間板ヘルニアのため引退してしまいレナード・ウィーバーが代役となった。第9週にはアレキサンダーは両膝と足首を負傷したがシーズン最終節には史上8人目の100ラッシングタッチダウンを達成した。この年207回のアテンプトで716ヤード獲得、1回平均3.5ヤードの獲得にとどまり10試合で4タッチダウンしかあげられなかった。グリーンベイ・パッカーズとのプレーオフでは1ヤードのタッチダウンランを決めたものの9回のキャリーで20ヤードしか獲得できずチームは敗戦した。 2008年4月22日にシーホークスから解雇された。彼はシンシナティ・ベンガルズ、ニューオーリンズ・セインツ、デトロイト・ライオンズに自分を売り込んだが契約には至らず 、同年10月14日にワシントン・レッドスキンズと契約した が4試合の出場で11回のキャリー24ヤード獲得にとどまり11月25日に再び解雇された。
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NFL入り後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 05:39 UTC 版)
ドルフィンズに入団した彼はデビッド・ウッドリーの控えQBとなり2試合にリリーフで出場した後、第6週のバッファロー・ビルズ戦で初先発した。この試合はオーバータイムの末、35-38で敗れた。ルーキーシーズンに彼はQBレイティング96.0の新記録を作った。この記録は2004年にベン・ロスリスバーガーの98.1に更新されるまでNFL記録として残った。彼はプロボウルに選出されると共にプロボウル出場初の先発QBに選ばれた 。彼のルーキーシーズンは雨の中のプレーオフでシアトル・シーホークスに番狂わせで敗れて終わった。この3試合前にヒューストン・オイラーズとの試合で負傷した彼は続く2試合を欠場していた。これ以降1993年にアキレス腱を負傷して欠場するまで145試合連続出場を果たしている。 2年目の1984年に彼はシーズンTD数48、シーズンパス獲得5084ヤードなど、NFLのパス記録を6つ更新した。14勝2敗で終えたドルフィンズはホームフィールドアドバンテージを獲得しシアトル・シーホークスを31-10、ピッツバーグ・スティーラーズを45-28で破りAFCを制し第19回スーパーボウルに出場した。スーパーボウルではペンシルベニア州西部出身の2人のQB(マリーノとジョー・モンタナ)に注目が集まった。プレーオフ2試合で74回選択されたランプレイはわずか8回にとどまり、マリーノのパスは50回中29回成功、1TDパス、2インターセプトに終わり試合は16-38で敗れた。 1985年12月2日のシカゴ・ベアーズとのマンデーナイトフットボールではパス27回中14回成功、270ヤード、3TDパスを投げる活躍を見せて、それまで12連勝していたベアーズに土をつけた。チームは2年連続AFCチャンピオンシップゲームに進出したがニューイングランド・ペイトリオッツのディフェンスがインターセプト2回、ファンブルリカバー4回をあげる活躍を見せて14-31でドルフィンズは敗れた。マイアミ・オレンジボウルでドルフィンズがペイトリオッツに敗れたのは1966年から初のことであった。 1988年10月23日にはパス521ヤードを獲得、3TDをあげた。 1992年10月18日のニューイングランド・ペイトリオッツ戦で17回目となる4つ以上のタッチダウンパスを成功、ジョニー・ユナイタスのNFL記録に並んだ。 マリーノは現役17年間のうち10回プレーオフに出場を果たしたがAFCチャンピオンシップゲームに出場したのは1992年終了後のプレーオフが最後となった。1990年から1995年の間にバッファロー・ビルズとジム・ケリーは3度マリーノのスーパーボウル出場の夢を砕いた。1993年10月のクリーブランド・ブラウンズ戦で、右アキレス腱を痛めて負傷退場、控えQBのスコット・ミッチェルが代役を務めた。ドルフィンズはシーズンの最後の5試合に連敗しプレーオフをチームは逃した。シーズンオフにミッチェルはデトロイト・ライオンズに移籍、ドルフィンズはクリーブランド・ブラウンズのバーニー・コーザーを控えQBとして獲得した。 1994年の開幕戦はニューイングランド・ペイトリオッツのドリュー・ブレッドソーとのパスの投げ合いになった。デーゲームでフロリダ・マーリンズの試合に使われたフィールドはぬかるんでいたがマリーノはパス42回中23回成功で473ヤードを獲得、一方ブレッドソーはパス51回中32回成功で421ヤードを獲得、2人のQBは合計で894ヤード、9TDをあげて試合は39-35でドルフィンズが勝利した。またアウェイのニューヨーク・ジェッツ戦ではスパイク(ボールを地面にたたきつけて時間を止めるためのプレイ)のフェイクを行いTDパスを成功させている。10勝6敗でシーズンを終えたチームはプレーオフでモンタナのカンザスシティ・チーフスを破ったもののサンディエゴ・チャージャーズ戦でハーフタイムに21-6とリードしたものの21-22と僅差で敗れた。このシーズン、マリーノは4,435ヤードを投げてカムバック賞に選ばれた。 1995年、フラン・ターケントンが持っていたNFL記録、パス試投、パス成功、パス獲得ヤード、TDパス記録を更新した。シーズンが終了するとドン・シュラヘッドコーチが辞任しジミー・ジョンソンが後任のヘッドコーチに就任した。スーパーボウルを連覇していたジョンソンヘッドコーチはボールコントロールオフェンスを攻撃の中心としようと欲したが彼が在籍した4年間優秀なランニングバックは現れず有効なランニングゲームは行われることはなかった。 1999年に怪我で1ヶ月ほど欠場した後、先発したダラス・カウボーイズとのサンクスギビングデーに行われた試合で彼は5インターセプトを与えてしまった。残り5試合で4敗して9勝7敗となったもののかろうじてプレーオフに出場を果たしたマリーノはキングドーム最後の試合となったアウェイでのシアトル・シーホークス戦で自身37回目の第4Qにおける逆転勝ちを果たしたが翌週に行われたジャクソンビル・ジャガーズに7-62で敗れ、この試合がマリーノの現役最後の試合となった。 シーズン終了後にドルフィンズのヘッドコーチ、ジミー・ジョンソンが退団し、新ヘッドコーチに就任したデーブ・ウォンステッドがジェイ・フィードラーを獲得すると、マリーノはチームの構想外となり、2000年3月13日、現役引退を表明した。 NFL歴代3位の147勝をあげると共に、プロボウルに9回選ばれて(うち7回先発出場)、オールプロにも8回、オールAFCにも6回選ばれた。1999年にスポーティング・ニュースが選ぶ偉大な100人のアメリカンフットボール選手の27位に名前を連ねた。 2000年9月17日にプロプレーヤー・スタジアムで行われたボルチモア・レイブンズ戦のハーフタイムに彼の背番号13を永久欠番とするセレモニーが行われた。その時点でのドルフィンズの永久欠番はボブ・グリーシーの12番のみであった。(2002年にラリー・ゾンカの39番も永久欠番となった。) 2003年にはカレッジフットボール殿堂入りを果たした。 2005年8月7日にスティーブ・ヤング、ベニー・フリードマン、フリッツ・ポラードと共にプロフットボール殿堂入りを果たした。殿堂入りの際のスピーチ中に彼は元チームメートでホットラインを築いていたマーク・クレイトンへのパスを投げた。 NFLのシーズン中、彼はCBSスポーツのThe NFL Todayのコメンテーターを務めている。また以前はHBOのInside the NFLを担当していた。
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