NFLビルズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 23:42 UTC 版)
1985年シーズン限りでUSFLが崩壊したため、交渉権を有していたNFLバッファロー・ビルズに入団。1年目の1986年シーズンから全試合に先発出場して3,593ヤード22TDの活躍で一躍スターQBの仲間入りを果たした。 1988年、チームはAFCチャンピオンシップゲームまで進出したが、ディック・ルボーディフェンスコーディネーターが、後半よりラインバッカー1人とランに強いセイフティ1人をコーナーバック1人、パスに強いセイフティと交代させる戦術の前にパス30回中14回成功163ヤードに抑えられ、3インターセプト、3サックを浴びて10-21で敗れた。この試合の後半ケリー率いるビルズオフェンスはボールを9分4秒しか保持できなかった。 1985年入団のワイドレシーバー(WR)アンドレ・リード、1988年入団のRBサーマン・トーマスらを擁する「ハイパーオフェンス」と呼ばれる強力な攻撃陣を率いて1990年シーズンにはAFC王者となり、第25回スーパーボウル出場を果たしたが、ニューヨーク・ジャイアンツに19-20と1点差で敗れた。 翌年、パス成功率64.1%で3,844ヤードを投げて、33TD、17INT、QBレイティグ97.6をマーク、チームはトータルオフェンスでNFLトップの6,525ヤードを獲得、NFL2位の458得点をあげた。ワシントン・レッドスキンズとの第26回スーパーボウルではパス58回中28回成功、4インターセプトに終わり、24-37で敗れた。 1992年の最終週、ヒューストン・オイラーズ戦でひざを負傷、オイラーズとのワイルドカードプレーオフ、ピッツバーグ・スティーラーズとのディビジョナルプレーオフは欠場、マイアミ・ドルフィンズとのAFCチャンピオンシップゲームで復帰した。ダラス・カウボーイズとの第27回スーパーボウルでは、パス38回中22回成功、276ヤード、1TD、4インターセプト、第2Qにケン・ノートン・ジュニアのヒットで古傷のひざを負傷、途中退場している。 1993年、パス470回中288回成功、3,382ヤード、18TD、18INTの成績を残した。この年、第28回スーパーボウルを果たし、ロジャー・ストーバック、テリー・ブラッドショー、ジョー・モンタナに次いで史上4人目となるスーパーボウルで4度目の先発QBとなった(後にジョン・エルウェイ、トム・ブレイディも記録を達成。)。スーパーボウルではパス50回中スーパーボウル記録となる31回を成功、260ヤードを投げたが、1INT、TDなしに終わり、13-30で敗れた。 4年連続スーパーボウルに出場したが全て敗戦。スーパーボウル4連敗(通算0勝)という不名誉なNFL記録を作ってしまった。しかしながら4年連続のスーパーボウル出場は4年連続AFC制覇ということであり、NFLがフリーエージェント制度やサラリーキャップ制度も未導入でチーム力が維持しやすい時代だったということを差し引いても、前人未到の偉業だったことは間違いない。 ビルズ黄金時代はそのままケリーの黄金時代と言い換えてもよく、1991年には自己ベストの3,844ヤード33TD、成功率64.1%という成績を残している。この年10月21日のシンシナティ・ベンガルズとのマンデーナイトフットボールでは5TDパスを決めて、デイブ・クレイグのMNF記録に並んだ。 サラリーキャップ制度が施行された1994年シーズンにはAFC4連覇メンバーの流出が始まり、チームは5年連続のスーパーボウル出場どころかプレーオフ進出すら逃してしまうが、ケリー自身は3,114ヤード22TDと奮闘した。1996年、2,810ヤード14TDの成績ながら現役引退。引退式のスピーチでは「バッファロー・ビルとして引退できることを誇りに思う」と語った。ともにビルズ黄金時代を築いた盟友WRアンドレ・リード、RBサーマン・トーマス、DEブルース・スミスらが、後にサラリーキャップ制度の影響もあって引退間際に他球団へと移籍せざるをえなかったことを考えれば幸せな引退といえよう。 NFL通算成績はパス4,779試投2,874回成功(成功率60.1%)。35,467ヤード237TD。ラン1,049ヤード7TD。WRアンドレ・リードとのホットラインはNFL歴代3位となる65TDを記録した。
※この「NFLビルズ時代」の解説は、「ジム・ケリー」の解説の一部です。
「NFLビルズ時代」を含む「ジム・ケリー」の記事については、「ジム・ケリー」の概要を参照ください。
- NFLビルズ時代のページへのリンク