2004年死刑確定囚(15人)
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事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)警察庁広域重要指定121号事件 (W) 2004年4月19日 1993年10月27日 - 12月20日 1968年(昭和43年)12月14日生まれ。中国系のマレーシア国籍で、2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在53歳)。東京都・群馬県・滋賀県など4都県にまたがる広域連続強盗殺人事件を起こし、強盗殺人などの罪に問われた。刑事裁判では強盗殺人の共謀・殺意の不存在を主張したが、1996年7月19日に東京地裁(阿部文洋裁判長)で死刑判決。1998年3月26日に東京高裁(松本時雄裁判長)で控訴棄却判決。2004年4月19日に最高裁第一小法廷(島田仁郎裁判長)で上告棄却判決を受け、判決への訂正申し立ても同小法廷の決定(2004年5月25日まで)により棄却されたため死刑が確定。共犯Mは2005年9月に死刑が確定。 神奈川2件強盗殺人事件 (I) 2004年4月27日 1988年12月28日1989年1月1日 1937年(昭和12年)10月25日生まれ。第一審・横浜地裁小田原支部(萩原孟裁判長)は1996年3月8日に強盗殺人2件のうち1件を無罪として無期懲役判決を言い渡した。しかし控訴審・東京高裁(佐藤文哉裁判長)は1999年4月28日に死刑判決を言い渡し、2004年4月27日に最高裁(藤田宙靖裁判長)が上告棄却判決を言い渡したため死刑が確定。再審請求中の2009年10月27日に東京拘置所で病死(72歳没)。 藤沢市母娘ら5人殺害事件 (F) 2004年6月15日 1981年10月6日1982年5月27日1982年6月5日 1960年(昭和35年)8月21日生まれ。神奈川県で元窃盗仲間・元交際相手の女子高生一家3人の計4人を相次いで殺害したほか、一家3人殺害事件の共犯者を逃走先の兵庫県内で殺害した。一連の3件5件の殺人事件は「警察庁広域重要指定112号事件」に指定された。1988年3月10日に横浜地裁(和田保裁判長)で死刑判決を受けて東京高裁に控訴するが、控訴中の1991年に自ら控訴を取り下げた。その後、弁護人からの異議申し立てにより1995年に最高裁から「取り下げは無効」と判断されて審理が再開されたが、2000年1月24日に東京高裁(荒木友雄裁判長)は控訴棄却判決(死刑判決支持)を言い渡した。最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)にて2004年6月15日に上告棄却判決を受け、それから10日以内に判決の訂正を申し立てず確定した。2007年12月7日に東京拘置所で死刑執行(47歳没)。 警察庁広域重要指定118号事件 (O) 2004年6月25日 1986年7月1989年7月1991年5月 1953年(昭和28年)6月30日生まれ。118号事件の主犯格で元岩手県警警察官。殺人の被害者数2人で加害者3人に死刑判決が言い渡された。下記共犯2人(S・K)とともに1995年1月27日、福島地裁(井野場明子裁判長)で死刑判決。1998年3月17日に仙台高裁(泉山禎治裁判長)で控訴棄却、2004年6月25日に最高裁(北川弘治裁判長)で上告棄却判決を受け死刑が確定。死刑確定後に東京拘置所へ移送されたが、2014年6月24日未明に誤嚥性肺炎による急性呼吸器不全のため病死(60歳没)。下記2人を含め、いずれも病死時点で再審請求中だった。 警察庁広域重要指定118号事件 (S) 2004年6月25日 1986年7月1989年7月1991年5月 1940年(昭和15年)7月25日生まれ。上記O・下記K両加害者の共犯者。裁判経緯はO・Kと同一。2013年8月14日に収監先の宮城刑務所仙台拘置支所医務棟で急性肺炎により病死(73歳没)。 警察庁広域重要指定118号事件 (K) 2004年6月25日 1986年7月1989年7月1991年5月 1943年(昭和18年)2月10日生まれ。上記O・S両加害者の共犯者。裁判経緯はO・Sと同一。死刑確定後、いったんは宮城刑務所仙台拘置支所から東京拘置所へ移送されたが、2010年12月に胆管癌と診断されたため、医療施設のある宮城刑務所仙台拘置支所医務棟に移送され、2011年1月29日に拘置支所外の一般病院で病死(67歳没)。 徳之島兄家族殺傷事件 (N) 2004年8月26日 2002年8月16日 1970年(昭和45年)5月7日生まれ。2004年6月18日に鹿児島地裁(大原英雄裁判長)で死刑判決を受け、2004年8月26日に自ら控訴を取り下げたため死刑確定。死刑確定から約3年5か月後の2008年2月1日に福岡拘置所で死刑執行(37歳没)。 滋賀元同僚強盗殺害事件 (N) 2004年9月9日 1989年10月10日1991年12月26日 1947年(昭和22年)3月11日生まれ。1995年5月19日に大津地裁(中川隆司裁判長)で死刑判決を受け、1999年12月22日に大阪高裁(河上元康裁判長)で控訴棄却判決。2004年9月13日に最高裁8福田宏裁判長)で上告棄却判決を受け死刑確定。死刑確定から約3年6か月後の2008年4月10日に大阪拘置所で死刑執行(60歳没)。 コスモ・リサーチ事件(岡本啓三) 2004年9月13日 1988年1月9日 1958年(昭和33年)9月3日・大阪府大阪市西成区生まれ(旧姓:河村)。下記共犯者Sや共犯の男1人(無期懲役が確定)と共謀し、投資顧問会社「コスモ・リサーチ」(大阪市)社長を務めていた相場師男性(当時43歳)を拉致して1億円を奪い、その犯行を隠蔽することを計画。社長と同社従業員男性(当時23歳)を大阪市内のマンションで絞殺し、遺体をコンクリート詰めにして京都府南山城村の山林に埋めて遺棄した。刑事裁判では強盗殺人などの罪に問われたが、事件を計画した時期や共犯同士の主従関係、強盗殺人罪の成否などが争点となった。大阪地裁(谷村充祐裁判長)は「本件は強盗殺人が成立する。河村が主導者でSも刑事責任は河村と負けず劣らず重大だ」と認定し、1995年3月23日に下記共犯者Sとともに大阪地裁で死刑判決を受け、1999年3月5日に大阪高裁(西田元彦裁判長)で控訴棄却判決。2004年9月13日に最高裁(福田博裁判長)で上告棄却判決を受け死刑が確定。死刑確定後に旧名「河村啓三」名義でインパクト出版会から著書『こんな僕でも生きてていいの』『生きる 大阪拘置所・死刑囚房から』『落伍者』を出版。2017年9月12日に第4次再審請求を申し立てていたが、請求中の2018年12月27日に大阪拘置所で死刑執行(60歳没)。 コスモ・リサーチ事件 (S) 2004年9月13日 1988年1月9日 1951年(昭和26年)9月16日生まれ。上記・岡本(河村)の共犯者で裁判の経緯は同上。2018年12月27日に大阪拘置所で死刑執行(67歳没)。 JT女性社員逆恨み殺人事件 (M) 2004年11月10日ないし11日 1997年4月18日 1942年(昭和17年)5月15日生まれ。1976年に広島県広島市内で家出中の女子高生を殺害し、懲役10年の刑に処されるなど、複数の前科があった。第一審・東京地裁(山室惠裁判長)では1999年5月27日に無期懲役判決を受けたが、控訴審・東京高裁(仁田陸郎裁判長)で2000年2月28日に死刑判決を受けた。2004年10月13日、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)で上告棄却判決を受けた。判決訂正申立も同年11月10日付の同小法廷決定で棄却され、同日ないし11日付で死刑が確定。死刑確定から約3年2か月後の2008年2月1日に東京拘置所で死刑執行(65歳没)。 群馬女子高生誘拐殺人事件 (S) 2004年11月13日 2002年7月19日 1966年(昭和41年)5月19日生まれ。第一審・前橋地裁(久我泰博裁判長)では2003年10月9日に無期懲役判決が言い渡されたが、2004年10月29日に東京高裁(白木勇裁判長)で一審破棄・死刑判決。上告せず、同年11月13日に死刑確定。死刑確定から約3年4か月後の2008年4月10日に東京拘置所で死刑執行(41歳没)。 高知連続保険金殺人事件 (S) 2004年11月19日 1987年1月17日1992年8月19日 1927年(昭和2年)6月21日生まれ・死刑確定時77歳。女性死刑囚としては最高齢。高知県室戸市内で1987年に共犯者らと共謀して夫を殺害し生命保険金5,000万円を詐取したほか、1992年にも交通事故を装って同居女性を殺害し、保険金を詐取しようとした。殺人・詐欺などの罪で起訴され、刑事裁判では無罪を主張したが、1998年7月29日に高知地裁(竹田隆裁判長)で死刑判決を受け、2000年9月28日には高松高裁(島敏男裁判長)で控訴棄却判決。2004年11月19日に最高裁(津野修裁判長)で上告棄却判決を受け死刑が確定。共犯3人は懲役刑が確定。大阪拘置所に収監されていたが、2010年9月ごろに腫瘍が見つかり、同年12月に大阪拘置所から大阪医療刑務所へ移送された。2011年1月25日ごろから容体が悪化し、2011年1月27日に肝臓がんのため大阪医療刑務所で死亡(83歳没)。 福岡連続強盗殺人事件 (H) 2004年12月2日 1995年4月18日 1951年(昭和26年)7月2日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在70歳)。1995年4月に福岡県大牟田市で男女2人を殺害する事件などを起こし、1999年3月25日に福岡地裁(仲家暢彦裁判長)で死刑判決を受け、2000年6月29日に福岡高裁(小出錞一裁判長)で控訴棄却判決。2004年12月2日に最高裁(津野修裁判長)で上告棄却判決を受け死刑が確定。 フィリピン人2女性殺害事件 (M) 2004年12月14日(上告審判決宣告日) 1998年12月25日 1953年(昭和28年)12月14日生まれ。本籍地は奈良県大和高田市礒野東町。旧姓S。2020年9月27日時点で名古屋拘置所に収監中(現在68歳)。1998年11月に三重県松阪市でフィリピン人女性2人(いずれもスナック従業員・20歳代)を絞殺して現金13,000円とネックレス(時価合計約25万円相当)などを奪ったほか、1998年5月には愛知県名古屋市内のパチンコ店へ侵入し、従業員1人の頭部を木刀で殴って重傷(全治6か月)を負わせ、売上金1,920万円余りを奪ったとして、強盗殺人罪・建造物侵入罪・強盗致傷罪に問われた。2000年3月1日に共犯者3人とともに津地裁(柴田秀樹裁判長)で共犯者2人とともに死刑判決を受け、2001年5月14日に名古屋高裁(堀内信明裁判長)で控訴棄却判決。2004年12月14日に最高裁第三小法廷(金谷利廣裁判長)で上告棄却判決を受け、同月24日に判決訂正申立書を提出したが、2005年1月21日に申立てが却下されたことで死刑判決が確定。死刑確定後の2015年には親族へ飴・食パンなどに付属している応募券19枚を郵送しようとしたり、知人からネガフィルムの差し入れを受けようとしたが、いずれも拘置所側から不許可にされたことで精神的苦痛を受けたとして国家賠償請求訴訟を起こし、2017年4月13日に名古屋高裁(藤山雅行裁判長)で一部勝訴の判決(賠償金額22,500円)の判決を受けた。ともに第一審で死刑判決を受けた共犯者のうち1人は公判途中(2000年10月)に死亡し、もう1人は控訴審(名古屋高裁・2001年5月14日判決)で「殺害実行犯としての責任は重いが、従属的な面がある」として、死刑判決を破棄され無期懲役判決を受けた。
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