第一審・横浜地裁小田原支部
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「ピアノ騒音殺人事件」の記事における「第一審・横浜地裁小田原支部」の解説
刑事裁判の第一審公判で被告人Oは「死刑になりたかったから被害者3人を殺害した」と発言するなど異常な性格が認められたが、同公判で行われた精神鑑定では「被告人Oは精神病質者だが、犯行時に心神耗弱状態だった点は認められない」とする鑑定結果が示された。1974年10月28日に横浜地方裁判所小田原支部(海老原震一裁判長)で第一審初公判が開かれ、被告人Oは罪状認否で「被害者3人を刺すことしか考えておらず殺すつもりはなかった」と述べて殺意を否認した。 1974年11月25日に第2回公判で証拠調べが行われ、同年12月16日の第3回公判では海老原裁判長が「小田原医院」院長・八幡衡平に対し、弁護人が申請していた被告人Oの精神鑑定を依頼した。八幡は被告人Oと2回面接して田中ビネー式知能検査・問診を行った上で事件記録を参照して鑑定書を作成し、1975年2月11日付で地裁支部へ提出した。 1975年(昭和50年)2月24日に開かれた第4回公判では被告人Oの部屋の騒音を計測した平塚市職員(公害課主事)が証人として出廷し、「平塚署からの依頼で9月2日・6日の2回にわたり現場まで階下のピアノの音がどの程度響くかを測定した」という証言をした。その結果は「1回目は14時の測定では周囲の暗騒音の中央値が44ホンで、階下で弾くピアノの音は周囲の喧騒音(戸外の子供たちの遊ぶ声など)にかき消され測定できなかった。2回目は19時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホンであった」というものだった。しかし測定時にピアノを弾いた時間は約15分で、ピアノは平塚署の署員もしくは警察関係者が弾いていたため、上前(1982)は「この測定は不正とまでは言えないが、不公平と言われてもやむを得ない。公平な第三者によりあらゆる弾き方で強弱全ての音を記録すべきだった」「人々の睡眠時間帯は一律ではないのだから、昼間でも階下のピアノの音に不快感を抱く人がいても不思議ではない」「ホン数で示される音の高さ・鳴る時間の長さの問題ではなく、“『静寂を望みながら暮らしている時に時を選ばず降り注ぐ音』という性質が人間の内臓・神経にどのような影響を及ぼすか”が問題だったはずだ。その点への考察を怠った裁判には致命的な欠陥がある」と指摘している。 1975年3月17日に開かれた第5回公判では被告人Oの精神鑑定を依頼されていた医師・八幡衡平が証人として出廷し、証人尋問で「被告人Oは騒音公害によって道徳感情が鈍麻した異常人格(精神病質)に該当するが、狭義の精神病症状(心神喪失・心神耗弱に該当する状態)ではなく、知能も普通である」と述べた。その後、検察官からの「『医学的に見れば精神病と正常の中間に該当するが、心神喪失・心神耗弱には該当せず、責任能力は認められる』ということか?」という趣旨の質問をされると「責任能力はある」と回答した一方、弁護人の「是非善悪の弁別・自己の行動を制御する能力が欠けた状態であるため、O個人の罪は軽減されるべきだ」という点を強調した質問に対しても肯定的な答えを返した。 1975年4月14日に開かれた第6回公判では被害者遺族である男性Aとその義兄(女性Bの兄)が検察側証人として出廷し、それぞれ死刑を求めた。その後、同年5月12日に開かれた第7回公判では「騒音被害者の会」代表・佐野芳子が弁護人側証人として出廷し、「被害者には大変気の毒な事件だが、会合では被告人Oに同情する意見が多く、その旨の嘆願書も計100通近く書かれている」と証言したほか、被告人Oの元妻(事件後に離婚)も出廷して「Oは音に対し異常に神経質だったが、ピアノの音は自分にも度が過ぎて聞こえていた。しかし『団地はうるさいところ』と思っていたから被害者に対し苦情を言いに行くことはなかった」と証言した。 1975年6月2日に開かれた第8回公判では被告人Oへの被告人質問が行われたが、被告人Oは捜査段階と一転して「死刑になりたかったからやった。被害者に対する『申し訳ない』という言葉は本心ではなく、事件を起こしたことへの後悔・反省はしていない」と証言した。その後、第9回公判(1975年8圧11日)でも論告求刑を前に改めて被告人質問が行われたが、Oは第8回公判と同様に「死刑になりたかった。被害者に申し訳ないとは思わない」と供述した。 1975年8月11日10時から横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察官・樋田誠は被告人Oに死刑を求刑した。検察官は論告で被告人Oの責任能力について「被告人Oは病質者だが刑法上の心身喪失・心神耗弱ではなく、罰を償うだけの能力は持っている」と指摘した上で、「犯行は計画的で執拗・残虐な殺害方法により罪のない子供2人を殺している。ピアノ・日曜大工の音は近隣者に不快を与えるほどのものではなかった。被告人Oの行為は反社会的・自己中心的で死刑が相当だ」と主張した。 1975年10月20日13時から判決公判が開かれ、横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)は横浜地検の求刑通り被告人Oに死刑判決を言い渡した。判決理由の要旨は以下の通り。 (責任能力に関して) - 弁護人は「日曜大工・ピアノの音から被害者一家に対し極度の憎しみを持ち始めた矢先に『Bの夫Aに刃物で刺される』と恐怖を抱いたことで『いっそ先に被害者らを殺害しよう』と思い立って犯行に至った。これは正常の心理からすれば理解不能な以上の精神状態の下での犯罪というほかなく、被告人は精神病質者であったため『事理弁識能力が著しく減弱した心神耗弱状態』とみなして量刑を減軽すべきだ」と主張するが、被告人は確かに「精神病質者でかつ音に対する過敏症」であった点は認められるものの、周到な準備の上で被害者Bの夫Aが出勤後留守になったところを確認した上で犯行に及んだ上、娘2人(C・D)を殺害した直後に自己の犯罪を正当化するため鉛筆でメッセージを書き残すなど、犯行を冷徹に遂行していることが認められるため、弁護人の主張は採用できない。 (量刑の理由)犯行は被害者方から発されたピアノ・日曜大工・ベランダのサッシ戸の音などに端を発したものだが、そのピアノの音は平塚市公害課による音響測定によれば被告人Oの部屋(406号室)で聞いた場合「40 - 45ホン程度」で、神奈川県公害対策事務局が行政指導上の目安として音の人体に対する影響を実験などでまとめた基準例によれば「睡眠を妨げられ、病気の人は寝ていられない」という程度の音だった。また被害者方の真下206号室の住人の反応も「不快感を与えるほどの音とは感じられなかった」というもので、しかも早朝・深夜(特に通常人の睡眠時間帯)には発されていない。むしろその影響は音を感受する被告人Oが「音に対し極度の神経過敏症であった上に情意に欠ける異常性格者であったこと」と、他人に対しては特に人づきあいが良く社交家肌の被害者Bが被告人Oの日常行動を見て「変人だ」と思ったためか、被告人Oに対してはほとんど近所付き合いをしなかったという「意思疎通に欠けた点」があったことに由来し、被害者方・被告人Oとの間に意思疎通があれば十分阻止し得たといえる。 しかし被害者は「被告人Oは音に極度の神経過敏症で異常性格者だ」ということを知る由はなく、意思疎通不足の点をもって被害者のみを責めることはできないし、被告人Oは「ピアノを弾く時間が一定していないので家にもいられない状態だった」と述べているが、被害者方には被告人O側から「ピアノを弾く時間を制限してくれ」と申し入れられたにも拘らずそれを拒否したと思われるような事情も認められない。被告人Oが被害者方に直接苦情を申し入れたのはわずか1回で、騒音問題について被害者側と対話するよう努力した痕跡は全く認められず、被害者を責める限りは同じく被告人Oの態度も責められなければならない。 その一方で被告人Oは自己の被害者に対する態度を一顧だにせず、被害者Bの自己に対する態度のみを自己流に責め、果てはその報復として犯行を用意周到に計画した上で実行し、一片の憐憫の情もなく罪のない幼女2人までも一気に殺害した。犯行の態様は「冷静に致命傷を与える部位を狙い鋭利な刃物で突き、被害者3人中1人(次女D)に対しては『手ごたえが不十分』としてさらしで首を絞める」など残虐極まりないもので、被告人Oは法廷でも全く自己の犯した罪に対し悔悟の情を示していない。 第一審判決後、被告人Oは死刑を望んで東京高等裁判所へ控訴しようとしなかったため、1975年11月1日付で弁護人が控訴した。
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