警察庁広域重要指定118号事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 03:18 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2019年3月)
|
警察庁広域重要指定118号事件(けいさつちょうこういきじゅうようしてい118ごうじけん)とは、1986年(昭和61年)7月から1991年(平成3年)5月にかけ、日本の東北地方および関東地方で相次いで発生した同一犯による連続誘拐・強盗殺人事件[1]。塗装工の男Sや岩手県警察の元警察官である男Oらを中心とした犯行グループが1986年7月から1991年5月にかけ、岩手・福島・千葉・栃木の4県で相次いで3件の誘拐事件を起こし、2人を殺害した[1]。
8人が逮捕され、福島地方裁判所で開かれた刑事裁判の第一審公判では5被告人が死刑を求刑され、うち3人を求刑通り死刑、残り2人を含む3人を無期懲役とする有罪判決が言い渡された[1]。第一審で死刑判決を言い渡された3人は2004年(平成16年)に最高裁判所で死刑判決が確定したが[2]、3人とも死刑を執行されることなく獄中で病死した[3]。
千葉・福島・岩手誘拐殺人事件[4]とも呼称される。
事件
- 元警察官の男O、塗装工の男S(逮捕時50歳)、土建業者の男K(逮捕時48歳)、Kの弟で土木作業員の男W、土木作業員の男X、以上計5人が共謀し、岩手県盛岡市の金融業者男性A(当時41歳)を誘拐し、金品を奪って殺害しようと計画[5]。1986年(昭和61年)7月中旬ごろ、5人は「不動産の見積もりをしてほしい」とAを呼び出して岩手県石鳥谷町の空き家に監禁し、翌日昼ごろ、岩手県岩手郡雫石町の山林に事前に掘っておいた穴にAを突き落とし、顔をスコップで殴った上、生き埋めにして殺害し、乗用車(215万円相当)を奪った[5][6]。
- 岩手事件に関与したO、S、K、W、Xの5人と、元自動車運転手の男Y、塗装工の男Zを加えた7人が共謀し、福島県郡山市の塗装会社社長男性B(当時48歳)を誘拐し、金を奪って殺そうと計画した[5]。7人は1989年(平成元年)7月20日、仕事の依頼を装ってBを呼び出して誘拐、福島県耶麻郡猪苗代町の磐梯山麓にある貸別荘に監禁し、模造刀を突きつけるなどして脅した上、電話で取引銀行2行から1700万円を用意させて強奪した[5]。そしてBを別荘近くの山林に連れ出し、首をビニール紐で締めて殺害、遺体を事前に掘っておいた穴に埋めた[5]。
- SとZは、塗装工の男・甲と共謀の上、1991年(平成3年)5月1日19時ごろ、塗装の注文を装って千葉県市原市の塗装業者男性C(当時53歳)を電話で市原市内の中学校まで呼び出し、車で誘拐した[5]。3人はCを栃木県那須郡那須町の貸別荘に監禁し、身代金2500万円を要求、3日0時ごろに宇都宮市内のレストランでCの知人が持ってきた2000万円を奪い、身代金と引き換えにCを解放した[5]。Cの妻が事件後の4日21時ごろに千葉県警察へ通報し[7]、この事件の被疑者として同月13日、Sと甲の2人が千葉県警察と栃木県警察の合同捜査本部によって指名手配され[8]、翌14日早朝、2人はともに行動していたZとともに富山県高岡市内で逮捕された[9]。その後、S・Zの2人は同年6月15日、K・X・Yの3人とともに郡山事件の営利誘拐、監禁、強盗殺人、死体遺棄容疑で福島県警察に逮捕された[10]。最終的には主犯格の元岩手県警察巡査のO(逮捕時38歳)ら犯人たちが逮捕され、事件の全貌が判明した。
刑事裁判
金目的で無抵抗の被害者を生き埋めにするなど、極めて残忍な犯行であることに加え、2人を殺害した結果の重大性から、公判当初から死刑適用が予想された一方、公判では被告人らが「自分は主犯ではない」とそれぞれ主張し、弁護人は死刑制度の問題点を指摘して死刑回避を訴えた[11]。なお、Zは公判中に病気のため他の6被告人と分離公判となり[12]、八王子医療刑務所に収監されていたが、判決を言い渡されることなく1996年3月1日に死亡したため、公訴棄却となった[13]。
第一審の初公判は福島地方裁判所(井野場明子裁判長)で1991年10月21日に開かれ、6被告人は罪状認否でそれぞれ起訴事実を認めた[14]。1994年(平成6年)6月28日に開かれた論告求刑公判で、検察官は6被告人のうち、2人を殺害したO・S・K・W・Xの5被告人に死刑を、被告人Yに無期懲役を求刑した[15]。福島県内で複数の被告人に死刑が求刑された事例は、1949年7月に伊達郡白根村(後の梁川町、現:伊達市梁川町白根)の松坂峠で発生した強盗殺人・死体遺棄事件で、3被告人に死刑が求刑されて以来のことである[15]。
死刑を求刑された5被告人 (O・S・K・W・X) と無期懲役を求刑された被告人Yに対する第一審判決は、初公判から3年3か月後の1995年(平成7年)1月27日に開かれた公判で言い渡された[12]。同地裁(井野場明子裁判長)は6被告人のうち、O・S・Kの3被告人を死刑、W・X・Yの3被告人を無期懲役とする判決を言い渡した[1]。第一審で3被告人に死刑判決が言い渡された事例は、福島地裁では前述の白根村で発生した強盗殺人・死体遺棄事件の判決公判で、1950年(昭和25年)に言い渡されて以来であった[1]。同地裁は、死刑を選択したO・S・Kの3被告人について、Sは3事件で積極的な行動を取ったこと、Kは盛岡・郡山の両事件で犯行を推進したこと、Oは盛岡・郡山の両事件で緻密な計画を立案し、その知力が犯行に不可欠だったと指摘し、それぞれ主導的な役割を担っていたと認定[1]。動機は金目的の私利私欲であり、酌量の余地がない点、犯行の残忍性、強い被害感情、多大な社会的影響などを鑑みても極刑はやむを得ないと評した[1]。一方で同様に死刑を求刑されていたW・Xの2被告人に関しては、死刑を選択した3被告人に比べて関与の度合いが少なかったとして、無期懲役を選択した[1]。無期懲役を求刑されていたYには「殺害人数が1人で従属的立場だが無期懲役はやむを得ない」として、それぞれ無期懲役判決をそれぞれ言い渡した[11]。第一審で3被告人に同時に死刑判決が言い渡された事例は、1977年(昭和52年)に東京地裁が「殺し屋グループ殺人事件」の被告人らに言い渡して以来である[16]。また最高裁によれば、1965年(昭和40年)以降で一度に複数の被告人に死刑判決が言い渡された事例は、3人への言い渡しが最多である[17]。
6被告人のうち、死刑を言い渡されたO・S・Kの3人と、求刑通りの無期懲役を言い渡されたYの計4人が判決を不服として仙台高等裁判所へ控訴し[18]、また福島地検もWとXについて、量刑不当を理由に仙台高裁へ控訴した[19]。控訴審の初公判は仙台高裁刑事第2部(泉山禎治裁判長)で1996年(平成8年)4月25日に開かれ[20]、それから判決公判まで約1年8か月の間に34回にわたる公判が開かれたが、被告人質問で各被告人は主従関係や役割をめぐり、自身の主導性を否定した[21]。控訴審でO・S・Kの各被告人側は原判決破棄(無期懲役)を、W・Xの両被告人側は検察官の控訴棄却(原判決と同じ無期懲役)を、Y被告人側は原判決破棄(有期懲役)を求めた一方、W・Xの両被告人に関して控訴した検察官は両被告人について原判決破棄(死刑)を、残る4被告人については控訴棄却をそれぞれ求めた[22]。なおKは同年10月31日の公判で、郡山事件後の1986年夏ごろ、Oから盛岡市の不動産会社社長(1985年12月に自殺したとされている)をAら数人とともに殺害したことを示唆する話を聞かされたという旨を証言しており、弁護人らはこの会社社長の死亡について補充するよう検察官に求めていた[23]。
仙台高裁(泉山禎治裁判長)は1998年(平成10年)3月17日の判決公判で、控訴をいずれも棄却する判決を宣告した[21]。O・S・K・Yの4被告人はいずれも上告した一方[24][25]、仙台高等検察庁はWとXについて上告を断念し[26][27]、彼らは無期懲役が確定した[28]。なお、Yについては2003年4月26日までに最高裁判所第二小法廷(北川弘治裁判長)で上告棄却の決定が出され、Yは無期懲役が確定している[29][30]。
最高裁は2003年(平成15年)12月17日までにO・S・Kの3被告人に関して、2004年4月22日に上告審の公判を開廷する旨を関係者に通知した[31][32]。2004年(平成16年)6月25日、最高裁第二小法廷は第一審・控訴審でO・S・Kの3被告人に言い渡された死刑判決を支持して3被告人側の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人3人の死刑判決が確定することとなった[2]。福島県内の死刑判決確定事件は、彼ら3人以前には1947年以降で計19人で、1992年に西白河郡矢吹町で飲食店女性経営者を殺害する事件を起こしたとして強盗殺人罪に問われ、福島地裁郡山支部で死刑判決を受けて確定した男が最後であった[2]。なお、Oの弁護人は安田好弘が務めていた[33]。
被害者が殺害されなかった千葉事件のみに加担した男性被告人は1991年9月30日に千葉地方裁判所刑事第1部(神作良二裁判長)で懲役6年(求刑:懲役7年)を言い渡され[34]、控訴したが[14]、やがて確定している。
判決確定後
死刑囚Sは福島地裁に再審請求を行ったが、2012年1月には福島地裁、2012年12月には仙台高裁とも請求を退けた。Sが72歳となった2013年2月、最高裁第三小法廷も再審請求を棄却した。
2013年8月14日夜、死刑囚Sは収監先の宮城刑務所仙台拘置支所医務棟で急性肺炎により病死した[35]。
死刑囚Kは東京拘置所に移送されたが、2010年12月、胆管癌と診断されたため医療施設のある宮城刑務所仙台拘置支所医務棟に移送され、2011年1月29日、拘置支所外の一般病院で病死した[36]。
死刑囚Oも2008年10月、福島地裁に再審請求[37]、同年東京拘置所に移送されたが、2014年6月26日未明、誤嚥性肺炎による急性呼吸器不全のため同所で病死した[3][38]。これにより本事件の死刑確定囚3人は全員死刑を執行されぬまま病死するという結末となった。
脚注
以下の文献において、記事名に死刑囚らの実名が使われている場合、その箇所をイニシャルとする。
- ^ a b c d e f g h i j k 『福島民友』1995年1月28日朝刊第8版1頁「118号事件 主犯格3人に死刑判決 福島地裁 『冷酷で残虐な犯行』 3被告は無期懲役」(福島民友新聞社)
- ^ a b c 『福島民友』2004年6月26日朝刊第8版1頁「118号事件 3被告の死刑確定へ 最高裁、上告を棄却 1、2審の判決支持「犯行に積極的関与」」(福島民友新聞社)
- ^ a b “誘拐・殺害事件の元巡査、O死刑囚が病死”. 読売新聞 (読売新聞社). (2014年6月26日). オリジナルの2014年7月3日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
- ^ 岩井弘融「広域重要事件」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2025年5月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『福島民友』1991年10月21日夕刊第3版1頁「福島地裁 118号事件 6被告の初公判 起訴事実、大筋認める 初めから殺害計画 金目当て 『だれでもよかった』」「逃走中の元刑事 隠ぺい工作を指示」(福島民友新聞社)
- ^ 鎌田 2002, p. 296
- ^ 『朝日新聞』1991年5月6日東京朝刊第一社会面31頁「「誘拐、2000万円奪われる」 解放の翌日届出、千葉の男性」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1991年5月14日東京朝刊第一社会面31頁「千葉の塗装業者誘拐容疑、同業者の2人手配」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1991年5月14日東京夕刊第二社会面14頁「容疑者3人を富山で逮捕 市原の塗装業者誘拐」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『福島民友』1991年6月16日朝刊第8版1頁「Bさん殺害で5人逮捕 遺棄場所(猪苗代)を大捜索 岩手の失跡事件も含め 4県の合同捜査へ」(福島民友新聞社)
- ^ a b “<平成事件回顧・東北>(7)警察庁指定118号事件(3年)3県で連続誘拐殺人”. 河北新報 (河北新報社). (2019年4月16日). オリジナルの2019年4月16日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
- ^ a b 『福島民友』1995年1月27日夕刊第3版1頁「福島地裁 118号事件 注目の判決 主犯格、極刑の可能性」(福島民友新聞社)
- ^ 『福島民友』1996年3月22日朝刊第8版27頁「118号事件 ×××被告が病死 福島地裁、公訴棄却へ」(福島民友新聞社)
- ^ a b 『朝日新聞』1991年10月21日東京夕刊第一社会面19頁「起訴事実認める 連続誘拐殺人事件初公判で6被告 福島地裁」(朝日新聞東京本社)
- ^ a b 『福島民友』1994年6月29日朝刊第8版1頁「警察庁指定118号事件 5被告に死刑求刑 1被告は無期懲役 福島地裁」(福島民友新聞社)
- ^ 『読売新聞』1995年1月28日東京朝刊社会面31頁「広域誘拐・強盗殺人事件 元警官ら3被告に死刑/福島地裁判決」(読売新聞東京本社)
- ^ 『中日新聞』1995年1月28日朝刊社会面31頁「元警官ら3人に死刑 連続誘拐殺人 福島地裁判決 3被告には「無期」」(中日新聞社)
- ^ 『福島民友』1995年1月31日朝刊第8版23頁「118号事件 3被告が控訴 判決不服と仙台高裁に」(福島民友新聞社)
- ^ 『福島民友』1995年2月9日朝刊第8版23頁「118号事件で無期懲役判決 2被告を検察控訴」(福島民友新聞社)
- ^ 『読売新聞』1996年4月26日東京朝刊第13版福島讀賣28頁「「一一八号事件」控訴審の初公判 検察側が主張 無期の2被告にも「死刑」を 「一蓮托生、強固な犯罪集団」」(読売新聞東京本社・福島支局)
- ^ a b 『福島民友』1998年3月17日朝刊第8版1頁「二審も3人死刑、3人無期 118号事件で仙台高裁判決 一審支持 被告、検察の控訴棄却 死刑判決の3被告が上告へ」(福島民友新聞社)
- ^ 『福島民友』1998年3月18日朝刊第8版19頁「118号事件控訴審判決 「犯情は悪質」再び極刑 正面見据え主文聞く 6被告、表情変えず退廷」(福島民友新聞社)
- ^ 『福島民報』1996年11月2日朝刊第8版社会面31頁「118号事件控訴審 K被告、別の殺人事件を示唆」(福島民報社)
- ^ 『福島民友』1998年3月31日朝刊第8版19頁「118号事件 Y被告も上告」(福島民友新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1998年3月31日東京朝刊福島版「Y被告も上告手続き 警察庁118号事件 /福島」(朝日新聞東京本社・福島支局)
- ^ 『福島民友』1998年3月31日夕刊第3版3頁「118号事件 検察側が上告見送り 2被告の無期懲役確定」(福島民友新聞社)
- ^ 『朝日新聞』1998年3月31日東京夕刊第二社会面22頁「警察庁指定118号事件2被告の上告を断念 仙台高検」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』2004年6月26日東京朝刊第一社会面35頁「3被告、死刑確定へ 3人誘拐・2人殺害「118号事件」」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『福島民友』2003年4月27日朝刊第8版社会面27頁「118号事件 郡山の会社社長殺害に関与 元運転手の無期確定へ」(福島民友新聞社)
- ^ 『朝日新聞』2003年4月27日東京朝刊第二社会面38頁「警察庁118号事件、1人の無期確定 最高裁」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』2003年12月18日朝刊第三社会面37面「最高裁、弁論実施へ 死刑判決の4被告」
- ^ 『産経新聞』2003年12月18日東京朝刊社会面「死刑事件で最高裁が弁論」
- ^ 『朝日新聞』2004年6月26日東京朝刊岩手版27頁「発生18年、一応の終結 118号事件、元警官ら死刑確定へ/岩手」(朝日新聞東京本社・盛岡支局)
- ^ 『朝日新聞』1991年9月30日東京朝刊第一社会面17頁「市原の塗装業者誘拐犯に懲役6年の判決 千葉地裁」(朝日新聞東京本社)
- ^ “「警察庁指定118号事件」S死刑囚が病死 3人誘拐殺人”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2013年8月16日). オリジナルの2013年8月16日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
- ^ “K死刑囚が病死 宮城刑務所でがん治療中”. 河北新報 (河北新報社). (2011年1月30日). オリジナルの2011年2月2日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
- ^ 元警官のO死刑囚が再審請求 118号事件で福島地裁に2008年10月30日 47NEWS(共同通信)
- ^ 和田武士 (2014年6月26日). “東京拘置所:元警官のO死刑囚が病死”. 毎日新聞 (毎日新聞社). オリジナルの2014年7月3日時点におけるアーカイブ。 2019年4月16日閲覧。
出典
- 鎌田正文 著、事件・犯罪研究会, 村野薫 編『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(初版発行)東京法経学院出版、2002年7月5日、296頁。ISBN 978-4808940034。
参考文献
刑事裁判の判決文
- 最高裁判所第二小法廷判決 2004年(平成16年)6月25日 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第285号503頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、平成10年(あ)第551号、『営利誘拐,監禁,強盗殺人,死体遺棄,みのしろ金目的拐取,拐取者みのしろ金取得被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(岩手,福島の営利誘拐,強盗殺人等事件)」。
関連項目
固有名詞の分類
平成時代の殺人事件 |
板橋資産家夫婦放火殺人事件 豊川市男児連れ去り殺人事件 警察庁広域重要指定118号事件 結婚詐欺・連続不審死事件 中村橋派出所警官殺害事件 |
日本の誘拐事件 |
西宮女児連れ去り傷害事件 豊川市男児連れ去り殺人事件 警察庁広域重要指定118号事件 宮崎県資産家拉致事件 宝塚市学童誘拐事件 |
- 警察庁広域重要指定118号事件のページへのリンク