逮捕から再逮捕まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:23 UTC 版)
5月23日、石川一雄(当時24歳、血液型B型)が暴行、窃盗、恐喝未遂の容疑で逮捕された。逮捕とともに石川の自宅から押収されたゴム紐は、長さ約35センチ、直径約1センチの管状のもので、殺害現場と推定される雑木林の中で見つかった被害者の自転車の荷台のものと、大きさや形が酷似していた。 同日におこなわれたポリグラフ検査で石川は、手拭、タオル、首の絞め方など9項目について、犯人しか知らない点を質問された折に異常な反応を示している。また、被害者の遺体には他人の頭髪が付着していたが、これについて石川の頭髪と比較し、精密検査したところ、特徴がよく似ていることが判明した。 石川の学歴について弁護側は「小学校5年修了」としているが、当時の新聞報道には、1951年に入間川の中学校に入学するもほとんど通学せず1954年に「義務年限終了」で除籍、とある。小学校の指導要領には「他人との協調性に欠け責任感、正義感はまったくない」と書かれ、いたずらをするときは常に先頭に立ち、なにをしでかすかわからない性格とされていた。除籍と同時に保谷の鉄工所に勤めたが旋盤で指を切断する事故を起こし退職したという。 石川はその他、農家の子守奉公や靴屋の店員見習いなどの職を転々としている。1958年3月には東鳩の製菓工場の臨時工員としてビスケットの不良品を選り分けて箱に詰める仕事をしていたが、むら気が強く「いやになると選り分けしないままめちゃくちゃに詰め込んでいた」と同僚は言う。 東鳩時代、最初の1年は野球選手として活躍していたが、やがて狭山から通勤する友人に誘われて不良の仲間に入り、2年目からは素行不良で欠勤が続き、競輪や競馬やパチンコ やマージャンといったギャンブルに入れ込み、給料のほとんどを注ぎ込み とりわけ競輪に熱中していた。無断早退して競輪場に行ったこともある。金につまると新宿の血液銀行で一度に人の二倍ほどの血を売り、その金を競輪に使っていたこともある 1960年から1961年にかけて女子工員とトラブルになり、最終的には会社の製品を無断で持ち出したことが発覚して1961年9月5日に懲戒解雇となった。 石川は土工を経て、1962年10月末頃からI養豚場に住み込みで働いていたが1963年2月28日に退職した。退職の理由は、他人に借りたオートバイを壊してしまい、修理代を月給から引かれるのが気に入らなかったことだった。その後しばらくは金銭問題による家庭内の不和から家出し友人宅に泊めてもらう等していたが、3月10日頃に所持金を使い果たしたため実家に戻ったという。ただし実家に戻ってからも兄とは折り合いが悪く、兄から「家を出て行け」と言われたほか、姉の婚家に「どうしたら一雄を家から追い出せるか」と相談されたこともある。 石川の当時の性格は短気にして粗暴と評され、物を投げる癖があり、同僚の目の前で、パンを焼く大きな窯(かま)に生きた猫を放り込んだこともある(動物虐待)。普段は暗い感じで「つかれる」が口癖であったが、酒を飲むと人格が一変。19歳のときには入間川駅前で不良同士の喧嘩から短刀で刺され、腹膜に達する傷を負ったこともあるが、腹を押さえて自力で病院まで歩いていった。このため、左下腹に大きな傷跡があった。当時はとても一人歩きできない寂しい場所だった薬研坂を、石川は夜遅くなっても平気で歩いていたと同僚はいう。1962年の暮には、テレビ番組で犯人が刑事に次々と犯行を自供しているのをみて、友人に「バカなヤツだ。オレだったらどんなに突っ込まれても否認してみせる」と発言したことがあるという。 石川には前科はなかったが、13歳の時、列車の転覆事件の容疑者と目され、連行されて取り調べを受けたことがある。また、14歳のごろ、友人と共に狭山市柏原の民家から鳩を5~6羽盗み、狭山警察署で取り調べを受け、父親と一緒に浦和の裁判所に呼び出されたが起訴猶予になったことがある。さらに、その翌年ごろ、狭山市入曽の農家の物置から俵を3俵盗み、やはり狭山警察署で調べられ、浦和の裁判所に呼び出されて起訴猶予になったこともある。 石川の人となりについて、石川の元婚約者は自分の父親に対し「あまりしゃべらん陰気なひと」と語っていた。「これまでにも人をなぐったり、詐欺、盗みを働いたりしてふだんから地区内の"きらわれ者"だったという。多くの知人たちは『とにかく不気味な男だった』といっている」との報道もある。なお石川は満足な義務教育を受けていなかったが知的には正常で、知能指数は100だったことが確認されている。 被害者の死体が見つかった5月4日ごろ、石川はいち早く現場に駆けつけ、不安と恐怖におののく人々をよそに「こんなに人が集まるのならアイスクリームでも売ったら儲かるだろうな」と笑っていた。 本事件の犯人の血液型がBであると新聞などに報じられた頃、石川はI養豚場の経営者から血液型を尋ねられ、本当はBと知りつつAと偽ったことがある。また、5月1日のアリバイについては、兄の鳶職の手伝いをしていたから自分は大丈夫だ、とも偽っていた。(事件当日の行動については#石川一雄のアリバイ参照) 石川はまた、事件の数年前の国体予選では入間川地区代表のリレー選手を務めていた。5月2日夜の行動について、石川の家族は「家で寝ていた」と証言していたが、石川の自宅は風呂場伝いに家族に隠れて外出できる構造だった。 共同通信社は、逮捕前から有力容疑者が石川であるという情報を入手しており、逮捕前日の22日、工事現場で働いていた石川を撮影している。また警察は、報道陣に対して逮捕当日から「筆跡などで石川が犯人であることに確信がある」と発表した。一方「彼が犯人だという確信はあるか」との記者の質問には、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これが白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」と答えたという。 逮捕直後の石川は「警察が犯人を逃がしておきながら、こんなところに入れやがって、お前なんか出たら殺してやる」と中勲(刑事部長)に食ってかかった。脅迫状の筆跡と石川の筆跡の一致については「同じ日本語だから似ているのが当たり前だ」と、一致の事実を認めた上で開き直った。「何度同じことを訊くんだ」と取調官に突然手を上げたほか、鉛筆を投げたり、そっぽを向いて鼻歌をうたったりした。調べ室に置いてあった被害者の写真をこなごなに引き裂いたこともある。 また石川の母の証言によると、5月3日朝に石川は起床できず昼頃まで寝ていたというが、5月3日早朝は犯人が佐野屋付近で身代金を奪い損ねて逃走した日だったため、逃げ疲れて寝込んでいたものと警察では解釈した。石川は競輪が好きで少なくとも3万数千円 の借金があったため、金に困っての犯行と思われた。競輪好きの石川は西武園競輪場にもたびたび足を運んでいたため、脅迫状の中の文言 もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ (もし車で行った友達が時間どおり無事に帰って来なかったら子供は西武園の池の中に死んでいるからそこへ行ってみろ)と結びつくと解釈された。石川の逮捕前、『毎日新聞』1963年5月9日付第13版は「警察の字を刑札などと間違えているのに、西武園はちゃんと書いてるんで、競輪マニアじゃないかという説もある」と報じていた。石川は当時、雅樹ちゃん誘拐殺人事件に異常な関心を示していた。石川逮捕の当時の心境を、被害者の長兄は 「5月18日──石川がつかまる5日前のことでした。Y(被害者のこと、原文では実名─引用者註)の友人から石川のことを聞いたのですが、調べてみるとおかしな点ばかり浮かんできました。捜査の専門家ではないし、石川を罪に落とそうという気持などは少しもなかったのですが、疑いは深まるばかりでした」「石川はYの通学コースの薬研坂あたりに時おり出没していたし、どうも怪しいと思っていましたが、口ではいえませんでした」 「事件当時、石川を見た人はかなりいたのです。"どうして届けてくれないのか"と叫びたくなったのもたびたびでした」 と述懐した。石川逮捕の2~3日前(5月20日ごろ)から石川が犯人に間違いないという信念を強くしていたという。石川は、養豚場勤務の頃に被害者宅の近くで盗みの下見などを行っていたこともある。 警察は20日以上にわたって取り調べを行ったが石川は自白をしなかった。この間、6月9日には、佐野屋付近の茶畑に残された地下足袋の足跡と、石川宅から押収された地下足袋の大きさや特徴が、完全に一致することが確認された。石川は「この地下足袋は兄のもので、自分には小さすぎて履けない」と言っていたが、捜査本部で石川に履かせたところ、無理をせずに履けることが判明した。石川が事件の前後この地下足袋を履いて仕事をしていた事実も突き止められた。 6月13日 窃盗・暴行・傷害などの容疑で起訴された。 6月17日、保釈が認められ釈放されたが、同日、警察は石川を強盗強姦殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した。 再逮捕された石川は、「養豚場の元同僚たち2人が被害者を強姦・殺害した。ただし自分は脅迫状を書いて届けて死体埋葬用のスコップを盗んだだけである。」という自白(3人共犯説)を6月20日に行った。共犯の存在を匂わせるのは犯罪者が自らの責任を軽くする意図でしばしば行うこととされており、雅樹ちゃん誘拐殺人事件の犯人も最初は共犯がいるような主張をしたという。 さらに、6月21日には石川が描いた少女のカバンを捨てた場所の地図に基づいてカバンが発見された。6月23日には単独犯行を自白した。6月26日には自供に基づいて自宅から万年筆が発見された。さらに、7月2日、石川の自供に基づいて腕時計を捨てたとされる場所の付近から、時計が発見された。石川の自宅から発見されたノートのページの切り口が、脅迫状の紙面の切り口と一致するとも報じられた。 石川はI養豚場で働いていた頃から被害者とは顔見知りだった。そのため、気安く冗談をとばして被害者をからかったが無視されたため逆上して犯行に及んだ、というのが当時の自供であった。 「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件」も参照 石川の再逮捕を受け、被害者の長兄は 「犯人は土工に違いないと思っています。というのは、死体の埋め方です。ふみ固められた農道を掘りかえし、しかも中に死体を入れておきながら、現場に土が少しももり上がっていない。いったい、このあまった土をどこへ持って行ったか。おそらく土工なら処分するのは簡単だったに違いない。また、わたしは石川の犯行と信じて疑わない。とはいってもこの犯行は単独犯ではないとも思っている。という訳は荒ナワにある。いかに犯人とはいっても、死体をひとりでかつぐのはいやだったんじゃないだろうか……。そこで荒ナワをまきつけて棒でも入れて、二人でかついでいったんじゃないかと、思うのです」 「石川の単独犯行といわれるが、私には納得のいかない点もある。Y(被害者)の死体にまかれていた縄はどうなるのか、一人で死体を短時間に隠したり、埋めたりすることができるだろうか。共犯が誰かいて死体を運びやすいよう縄をまきつけたとしか思えない」 と語った。 松本清張は「石川の自供からカバンが出てきた以上、犯人と断定してさしつかえないだろう」とコメントし、村岡花子は「捜査陣の長い間のネバリと自信の勝利」と称えた。
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