逮捕から自供まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 09:01 UTC 版)
Gが行方不明となったあと、Gの兄は自らが経営する会社の従業員や知人による捜索隊を結成し、警察と連絡を取りながら独自の捜索を開始した。Gの兄は地元の藤岡市内でGが外出に使った自転車を発見し、その場所を見張っていたところ、大久保が現れて自転車を手袋で撫でる仕草をした(指紋を消す意図があった)ため、不審に感じて話しかけると、大久保は自動車に乗って立ち去った。だがGの兄はその車種やナンバーを記憶しており、警察に連絡するとともに該当車種の販売店に照会して大久保の身元を割り出した。捜索隊は警察の指導も受けながら、5月12日から自動車70台で本格的な捜索に乗り出し、13日の夕刻に捜索隊はカーチェイスの末、ついに大久保を拘束ののち連行、警察に引き渡した。Gの失踪事件捜査を担当していた群馬県警察藤岡警察署に身柄を移され、14日にGに対するわいせつ目的誘拐罪で逮捕された。この時点で警察は大久保の逮捕理由についての物証を持っておらず、拘留期限を過ぎる可能性もあったが、15日になって強姦被害を受けた女性が警察に届け出て、面通しで大久保に間違いないと指摘したことから彼女に対する強姦致傷容疑で再逮捕された。この女性への強姦致傷については認め、Gを殺したと供述はしたものの、死体遺棄の場所については警察への復讐として絶対に話さないと主張した。以後、死体という物証を持たない警察は被害者全員の発見に至るまで約80日を要することになった。 5月21日に、榛名湖近くで行方不明となっていたAの遺体が発見された。しかし、大久保はAの殺害を認めなかった。捜査本部は方針を変更し、大久保の自作の詩や私淑していたというライナー・マリア・リルケの作品を目の前で朗読したり、心境を語らせたりしながら説得した。大久保は5月26日にGの殺害と死体遺棄について供述し、27日の現場検証で大久保の供述した場所からGの遺体が発見された。これにより大久保は初めて強姦殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された。だが、Aを含めた他の殺人は示唆しながらも「秋まで言わない」と黙秘した。6月4日にAの殺害を供述。しかし、その他の事件の供述は一度には進展しなかった。この間警察側は取り調べのほかに、大久保の足取りと接触した女性の確認、大久保の自家用車に残された被害女性の毛髪や体毛の検出といった周辺の捜査をおこない、大久保に行方不明女性の写真を見せて関係の有無を尋ねたりした。大久保は断片的な供述を始めたが、核心部分は「警察や両親・兄への反抗」として拒んだ。警察は再度方針を改め、6月24日に班長の警部1人だけによる取り調べに切り替えた。大久保は「自分の望む条件を出してそれに対する捜査官の態度で死体遺棄地点を教えるかどうかを決める」と述べた。大久保は7つの条件を出し、その多くは身勝手な内容で警部は拒否したが、同時に警部自身が綴った「詩」を読むと大久保は態度を和らげ、2つだけ条件を受け入れるなら被害者1人の遺棄現場に案内すると述べた。捜査本部は「報道関係者を同行させない」という条件を受け入れ、6月27日の未明に榛名町内で大久保の供述した場所からDの遺体が発見された。 だが、その後再び大久保は供述を渋り、さらに身勝手な条件を示したりした。7月13日に再び「報道陣を同行させない」という条件でE、Fと別の男性(実際には虚偽だった)について遺棄の場所を案内するとしたが、実際に外出すると前言を翻し、結局その日は発見できなかった。この事態に警察庁が指導に乗り出し、指導官・調査官の派遣、現場検証に大久保を同行させない(場所はパノラマ写真やビデオを見せて確認)、大久保と条件で妥協しない、身柄を松井田警察署(現在の安中警察署松井田分庁舎)に移すといった方針転換が図られた。松井田署管内では犯罪がほとんど発生しないため留置場には他に拘置者がおらず、大久保を孤立させる効果があった。結局、7月20日にF、21日にE、22日にB、29日にCとHの殺害と死体遺棄を供述し、それに基づいて5人の遺体が発見された。この発掘は人目を避けていずれも日付が変わった深夜におこなわれた。このうち、Hを除く4人は造成中の工業団地付近にある狭い範囲から発見されている。 なお、この取調中に妻との離婚が成立している。
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