競技人気復興への道のり
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「日本のボクシング史」の記事における「競技人気復興への道のり」の解説
1988年11月13日に井岡が王座を失ってから1990年2月6日まで1年3か月にわたって日本の世界王者は誕生せず、バブル期にあった日本の経済力を背景に世界戦が濫発されたが、挑戦者は次々に敗退し、ウィルフレド・バスケス 対 六車戦の引き分けを皮切りに世界挑戦21連続失敗という記録を作る結果となった。しかし、金容江 対 レパード玉熊戦、カオサイ・ギャラクシー 対 松村謙二戦、ファン・マルチン・コッジ 対 平仲伸章(後の平仲明信)戦などの激戦があり、1988年の新人王戦に登場した鬼塚勝也、ピューマ渡久地、ウェルター級やジュニアミドル級で国内選手を圧倒した吉野弘幸、上山仁、デビューしたばかりの辰吉丈一郎らの次世代が育ちつつあったこと、さらに大橋秀行と高橋ナオトの存在で見通しは明るくなっていった。 1990年代 高橋はマーク堀越戦で2度目の日本の年間最高試合賞を受けるが、堀越戦や続くノリー・ジョッキージム戦の逆転劇で高橋がダメージを蓄積させていく一方で、大橋は1990年2月7日に3度目の挑戦で階級を下げて熱狂的な勝利で世界王者となり、日本ボクシング再興のきっかけをつくった。この4日後に東京ドームで行われたマイク・タイソン対ジェームス・ダグラス戦には日本ボクシング史上最多記録となる51,600人の観衆が集まり、そのアンダーカードでは高橋がジョッキージムとの再戦に負け、辰吉がプロ2戦目でKO勝利を収めていた。続いて、世界挑戦失敗経験のあるレパード玉熊、畑中清詞が再挑戦で王座を獲得したが、いずれも王座を長く保持することなく、入れ替わりに台頭してきたのが辰吉、鬼塚、ピューマ渡久地の「平成の三羽烏」(1987年には川島郭志がインターハイのフライ級で鬼塚、渡久地をそれぞれ準決勝、決勝で破って優勝し、この3人が「平成の三羽烏(高校フライ級三羽烏)」と呼ばれていた)と、1990年に協栄ジムが輸入ボクサーとして招き入れたチャコフ・ユーリ(後の勇利・アルバチャコフ)、グッシー・ナザロフ(後のオルズベック・ナザロフ)、スラフ・ヤノフスキー(日本での活動以外はヴィアチェスラフ・ヤノフスキー)ら5人のロシア人であった。辰吉がプロ8戦目で王者のギブアップを招き世界王者になると、井岡が大番狂わせの判定勝利で日本人3人目となる世界王座の2階級制覇を達成、平仲はメキシコでの初回KO勝利で世界王座奪取、前後して鬼塚・ユーリ海老原も世界王者となり、この時点で日本プロボクシング界は史上タイ記録となる5人の世界王者を擁することになった。この5人王者時代は長く続かなかったが、辰吉のカリスマ性はかつての黄金時代を超える熱狂を世界戦のすべてで引き起こした。 1993年にオルズベック・ナザロフ、薬師寺保栄、1994年に川島郭志が世界王座を獲得すると再び日本は5人の世界王者を抱えるが、このうち2人は輸入ボクサーであった(東京帝拳期待の八尋史朗は無敗のまま1993年10月WBA世界王座決定戦出場し9RTKO負け)。1994年12月4日には正規王者・薬師寺と暫定王者・辰吉の王座統一戦がかつてない社会的関心度と経済規模で行われ、勝者のみならず敗者もまた、その人気を高めることになり、プロボクシング界に計り知れない効果をもたらした。1995年には竹原慎二が日本初のミドル級世界王者に、翌年には山口圭司も世界王者になった。1997年には辰吉が王座に復帰、飯田覚士が世界王者となった。 1998年には畑山隆則がコウジ有沢の日本王座に挑戦。畑山は1年以上も前から「向こうが受けてくれるというなら、俺がテレビ局を説得してもいい」と言って有沢と対戦したい意向を示していたが、畑山がTBSの「ガッツファイティング」、有沢はフジテレビの「ダイヤモンドグローブ」の看板選手であったため、実現の見込みは薄いとされていた。しかし、両陣営はたとえノーテレビでも挙行すると決めて交渉を続け、合意に至った後で放映の折衝をプロモーターに依頼することで実現を成功させた。両者無敗のトップアイドルで史上最大のタイトルマッチと呼ばれ、同年の日本の年間最高試合となったこの試合に勝利した畑山は次戦で2度目の世界挑戦を成功させ、後に2階級制覇を果たす。畑山は試合以外での露出度も高く、坂本博之との初防衛戦をはじめとする3度の防衛戦では辰吉に匹敵する集客力を示した。 なおすなわちJBCの認定なくしては日本で「プロボクシング」のあらゆる試合は成立しない、とJBCは主張しているがルール第1条「日本ボクシングコミッション・コミッショナーは(財)日本ボクシングコミッション(以下JAPAN BOXING COMMISSION=JBC)管轄下で行われる日本での全てのプロフェッショナル・ボクシング(以下プロボクシング)試合公式試合場におけるスパーリング及び慈善試合を含む)を指揮及び監督する権能を有する。」の「JBC管轄下で行われる」の文言は1997年日本IBF活動再開時に独禁法違反の回避に盛り込まれた。 1996年11月3日には、プロボクシング元世界ヘビー級チャンピオン:ジョージ・フォアマン( アメリカ合衆国)がWBU世界ヘビー級王座の防衛戦を開催した(新日本プロモーションがJBCプロモーターライセンスを名義貸ししなかったために同非公認の興行・試合となった)。アンダーカードとしてWIBF世界スーパーウェルター級選手権試合、メアリー・アン・アルマジャー vs ヴァレリー・ヘニン戦が行われ、これが日本初の女子ボクシング世界選手権試合となる。 一方、元キックボクサーでキックボクシングジム「山木ジム」の会長であった山木敏弘が「キックボクシングの女子部門は存在するのに女子ボクシングがない」ことに疑問を持ち、女子ボクサーの育成に着手、キックからの転向組が中心となりマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟興行内に挿入する形で女子ボクシングの試合が行われる。1997年にはそのひとりであるシュガーみゆきが日本人初の世界タイトルを獲得し話題となる。1999年には日本女子ボクシング協会が結成され、初の女子ボクシング興行が行われる。一時は150人以上の女子ボクサーが所属していた。日本女子王者も次々と誕生した。 2000年代 キックボクシング世界王者だった土屋ジョーが谷山ジム円満退会しMA日本キック離脱し大橋ジム所属でB級テスト2000年8月1日受験し実技・スパーの相手は3年前の全日本新人王決定戦惜敗の同門の日本ランカー川嶋勝重で合格。A級昇格したが2勝2敗で引退しキック復帰。 2000年代の前半は、K-1、PRIDEといった総合格闘技が人気を集め、相対的にボクシングの人気は低迷していた。しかし、後半になるとK-1、PRIDEの自滅もあり(K-1#体制の混乱およびPRIDE (格闘技イベント)#地上波放送を参照)、代わって頻繁にメディア露出を行っていた亀田興毅や辰吉に勝利して以降長期政権を築いたウィラポンを打破した長谷川穂積などの活躍などにより人気を回復していった。[要出典] 2008年に日本ボクシングコミッション (JBC) が女子の試合を認可すると、「一国一コミッション」の原則を遵守するため、コミッションを兼ねていた日本女子ボクシング協会は発展的解消しJBCに合流し同主管の山木ジムは加盟金免除で東日本協会特殊加盟した。 詳細は「女子ボクシング#日本」を参照 2009年11月29日開催の内藤大助 対 亀田興毅戦の平均視聴率は、関東地区、関西地区ともにが43.1パーセントで、1977年9月以降のプロボクシング中継では2位を記録している。1位は1978年5月7日に行われた具志堅用高 対 ハイメ・リオス戦の43.2パーセントで、この具志堅戦の平均視聴率は1959年以降のプロボクシング中継の記録では19位である。 2008年5月19日に小堀佑介(角海老)がWBA世界ライト級王者ホセ・アルファロから王座KO奪取した試合が同年の日本ボクシングの年間最高試合に選ばれた。 2009年5月26日にディファ有明でWBC世界フライ級タイトルマッチ、5連続防衛目指すチャンピオン内藤と熊朝忠戦が開かれたが、当初中国で予定していたこの試合が開催不可能になり、急遽ディファ有明にて特例でワンマッチ興行となった。 2010年代 西岡利晃は2009年と2011年にそれぞれメキシコ、米国で世界王座を防衛した。国外での2度の防衛は日本初であった。2011年4月に石田順裕が米国で期待選手のジェームス・カークランドに初回KO勝利を収めたミドル級ノンタイトルマッチは中継局のHBOを震撼させた。同年、村田諒太が世界選手権で日本人初の銀メダルを獲得している。 国際的なリングで活躍する選手が目立ち始める一方で、2012年現在、日本開催のプロの公式試合では日本人同士の対戦のほうが観客を喜ばせ、経費もかからないため、故障明けの調整試合以外で外国人選手を招聘することは少なくなっている。ボクシング人気が健在なメキシコからは高額なファイトマネーを提示されるが、オファーが来るのが3週間前だったり、日程がしばしば変更されたりするため、日本の選手は対応できないことも多い。『リング』誌の記者ダグ・フィッシャーは2012年4月、日本のプロボクサーが日本でしか試合をせずに国際的に評価されるのは難しいが、その多くはフェザー級より下の階級であり、米国のケーブルテレビは軽量級にそれほど関心を持っていないため、軽量級の日本人ボクサーは日本で試合をするほうが試合枯れすることもなく、収入面でもよいだろうと言い、ボクサーが国際的な認識を得るために、日本のプロボクシング界には「JBCがWBOとIBFを認可すること」「日本のボクシングプロモーターが国際的に通用するようなボクサーをもっとアジア圏外から招聘して日本のボクサーに挑戦させること」「日本の世界王者同士が対戦すること」という3つの条件が求められると述べている。 こうした状況の下で2011年10月に八重樫東が東京の後楽園ホールでポンサワン・ポープラムックから世界王座を奪取した試合は、国内開催の最軽量級の試合でありながら、YouTubeにアップロードされた映像を通して米国のファンやメディアに絶賛された。また、2012年6月に大阪府立体育会館で行われた井岡一翔 対 八重樫東の世界王座統一戦はKeyHoleTVを利用してリアルタイムで観戦した国外の記者たちからも、事前の大きな期待を裏切らない好試合であり将来にも期待をつなぐものとして高く評価され、2013年7月に米国で行われた荒川仁人 対 オマール・フィゲロア戦は現地をはじめとする各メディアに絶賛された。 亀田和毅が2012年4月26日、メキシコシティにおいてアブネル・マレスの王座返上に伴って設置されたWBC世界バンタム級シルバー王座決定戦にて、ハイロ・エルナンデス(メキシコ)に10回終了TKO勝ちを収めて、同王座を獲得した。尚、保持していたWBC世界ユース王座はこの試合後に返上した。また日本人初のWBCシルバー世界王者たる和毅は一度も防衛戦行わず、WBC正規世界王者山中慎介挑戦も回避しWBO王者に方向転換。JBCは非公認を姿勢を貫き日本国内で防衛戦は不可能だった。 この間、2012年のロンドンオリンピックではバンタム級代表の清水聡が銅メダルを獲得。これは日本にとって44年ぶりのメダルとなり、さらに村田諒太は48年ぶりの金メダルをミドル級で獲得した。フライ級の須佐勝明、ウェルター級の鈴木康弘は途中で敗退したものの、清水・須佐・鈴木が敗れた相手はいずれもこの大会で金メダリストとなった選手だった。日本ボクシング連盟の山根明は2011年の会長就任以来、日本アマチュアボクシングの国際化、プロ・アマチュア交流などの改革に着手していたが、この大会で日本が躍進した背景には、この改革やコーチ陣の貢献があった。産業能率大学スポーツマネジメント研究所が行った意識調査では、大会後に脚光を浴びた「ブレーク度」の競技部門で男子ボクシングが1位を獲得した。 2013年2月3日日本アマチュアボクシング連盟総会にて、日本のボクシング史上2人目のオリンピックのボクシング競技優勝者村田諒太のプロ転向問題を受け、プロ側と紳士協定を結ぶ必要性が話し合われた。この前日には(JBC日本ボクシングコミッションオーナーライセンス保持者で構成)東日本ボクシング協会・大橋ジム会長大橋秀行から「獲得したジムは連盟に強化費を寄付すべきだ」などと提案を受けていた。JOC(日本オリンピック委員会)からの委託金はあるものの、JOCが設置した第三者特別調査委員会の調査報告書によれば、強化費配分の基準となる2010年度の経常収益およびJOCによる2012年度の競技団体ランクでボクシング競技は五輪競技中で最低レベルの評価を受け、連盟の財政規模は5,446万円程度とされており、連盟は選手育成のため合宿・海外遠征に強化費を費やしている。連盟は、国の資金で強化した選手は連盟の財産であるとして、直接勧誘の禁止、選手の引退後の生活保証などについて内規を設ける方針を示し、同年5月26日の総会でアマチュア規則細則を定めた。この細則は同年7月1日から施行されている。登録選手はあらかじめ、アマチュアボクシング憲章、倫理規定、アマチュア規則、競技規則、アマチュア規則細則に従う旨の誓約書(プロ志望届)を提出し、またプロから勧誘されたり、対価を得て競技活動したりする場合には申請書を提出して連盟の承認を得る必要がある。その後、7月11日開催の緊急執行部会で、アンダージュニア(小学生・中学生)の登録選手には誓約書の提出を求めないことを決議した。 2020年代 2021年開催の東京オリンピックでは女子フェザー級代表の入江聖奈が金メダル、男子フライ級代表の田中亮明と女子フライ級代表の並木月海が銅メダルを獲得。日本の女子代表における初のメダル獲得となった。さらに同年の世界選手権で、男子フライ級の坪井智也と男子ウェルター級の岡澤セオンが日本人初の金メダルを獲得した。
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